yuhka-unoの日記

旧はてなダイアリー(http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/)からの移行

自分が若いときのままで時が止まっているのは、「若い」とは言わない

俺たちオジさん(オバさん)には今、歌う歌もなければ、聴く歌もない!(富澤 一誠) - 個人 - Yahoo!ニュース

 
「心を開いた歌」関連で私がまず思い浮かぶのが、ジョン・レノン「Mother」だ。私にとってこの曲は衝撃だったし、思いっきり共感した。その理由は『Mother―生身のジョン・レノン―』で書いた。私は音楽のことはよくわからないけれど、あの曲とアルバムは、心を開くだけ開きまくった「すっぱだかソング集」という感じがする。
ただ、確かにあの曲は衝撃だったし、私はそれをきっかけにジョン・レノンに興味を持って、彼の生い立ちを調べたりしたわけだけど、あれを聴いて「熱狂」とかするかなぁと思う。私はあれを聴いて、「あ、この人人間なんだ」と思った。むしろあの曲は、伝説的・熱狂的存在としての認識だったジョン・レノンという人を、「生身の個人」にするような曲だったと思う。
ちょうど最近、図書館でジョンとヨーコのインタビュー本を借りて読んでいたのだけれど、当のジョン・レノンは、解散から10年経っても、周囲の人間が「ビートルズ再結成して!」「あの熱狂をもう一度!」と言ってくるのにうんざりしていて、「大切なのはレコードだ。ビートルズの個人じゃない」と言っているんだよね。確かジョンとヨーコは、レコードを出すことを「ハガキを出してる」と言っていたような気がする。「ハイ!僕らはこんな感じだよ。君たちはどうだい?」と。(この辺は本を図書館に返却してしまったので、記憶があやふや)
だから、「心を開いた音楽」って「熱狂」なのかなぁ?と思うんだよね。心を開いたものは、個人的な繋がりみたいなものになる傾向がある気がする。私にとって「Mother」が、他の誰かと一緒に熱狂するためのものではなく、個人的な救いになったように。熱狂はむしろ、虚構や幻想、そして「みんなと一緒」なものと相性が良い気がする。
 
実際、ジョン・レノンは、ビートルズ時代より、解散してオノ・ヨーコと色々やっている時のほうが、「心情を素直に表現」した状態になっているわけで、その時に「ビートルズ再結成して!」「あの熱狂をもう一度!」と言っていた人たちは、単にビートルズの音楽性が好きだったということの他に、自分たちが熱狂し共感した「俺らのもの」的な一体感を求めた人たちも、けっこういたんじゃないかと思えてきた。
そして、現代日本において、嵐やAKB48初音ミクといったジャンルも、「俺らが育てた、俺らのもの」という熱狂や共感や一体感と共にあるわけで、元記事の人が言っている、「フォーク、ニューミュージックは、私たちが作りだしここまで育ててきた〈私たちの世代の歌〉だったのではないか。」って、もしかしてそういうことなの?という気がしてきた。
要するに、一番言いたくて求めていることは、「心情を素直に表現」でも「どうしたら自分らしく生きられるか」でもなく、「30年程前のあの〈熱狂〉は再び取り戻せるはずだ。」なんじゃないかと。本当の意味で「心を開いて欲しい」のではなく、あくまでも「私たちに向かって心を開いて欲しい」なのではないだろうか。
実際、「素直になれよ」「心を開いてよ」と言っている人が実際に求めていることが「俺の望む通りの振る舞いをしろ」であって、そういう人に対して本当に素直な振る舞いをすると、「素直じゃない」「可愛くない」と言われてしまうというのは、よくあることだ。
 
そういえば、以前たまたま見たSMAP×SMAPで、オノ・ヨーコがゲストで来たことがあって、ジョンとヨーコが出会った時のヨーコの作品が再現されていたことがあった。天井に貼られた無地のキャンパスに見えるものを、梯子を登っていって虫眼鏡で覗いてみると、小さな「Yes」という文字が見えるというやつだ。その時それを見て私が思ったのは、あの「Yes」という文字を見る時には、見る人と作品が一対一の関係になるんだな、ということだった。だからあの「Yes」は、梯子を登っていった一人一人に向けて言う「Yes」なのかな、と。
私と音楽の関わりも、そんな感じなのかもしれない。曲と私が一対一の関係になっている。私は、あまり「俺らが育てた」という感覚で音楽を聴いたことがないのだ。人は基本的に孤独で寂しいものだから、その寂しさを少しだけ埋め合わせてくれるような、そんな音楽があれば良いんだろう。自分の人生を自分らしく生きていくための活力として。
他人の生き様に共感するのは別に良いけど、その人の人生はその人の人生であって、自分の人生ではない。確かに、自分の人生を生きていくのはしんどいし、「その中で悩み、傷つきながら懸命に生きている」わけだけれど、だからって、自分の人生を他人の生き様とか熱狂とかに、そっくり明け渡してしまっても良いんだろうか、という気がする。それって、自分が生きていくための道標が欲しくて、誰かの生き様に乗っかってしまいたいとか、そういう「逃げ」みたいなものを感じるのだけれど。
 
確かに私も、「大人の音楽」があっても良いな、とは思う。でも、この人の求めている「大人の音楽」と、私が思う「大人の音楽」は、たぶん違う。この人が考えている「Age Free Music」と、私が思う「Age Free Music」も、たぶん違う。本当の本当に「心情を素直に表現」した曲は「Age Free」になるはずだ。ジョン・レノンの曲が20代の私の心に届いたように。なのに、何なんだろう、元記事から漂って来る、私にとってあまり共感できない「オッサン臭さ」は。
もしかしたら、この人が求めているものは「永遠の同窓会」なんじゃないだろうか。確かに同窓会は、自分の実年齢を忘れて、青春時代に戻ったような気分になれるかもしれない。ただ、同窓会は「Age Free」ではない。思いっきり世代限定的なものだ。この人の言う「年齢なんて関係ない」という言葉も、「俺らの世代が共感できる曲を創ってくれるなら、年齢は関係ないよ」という意味に聞こえる。どうにも、自分自身が「Age Free」というわけではなさそうだ。だったら、下手に「Age Free」とか「年齢なんて関係ない」とか言わずに、素直かつストレートに「俺らオジさん世代のための曲が欲しい!人口多いから需要あるよ!」とだけ言えば良いのに。それなら純粋にマーケティングの話になるから、簡潔かつわかりやすい。
でも、学校を卒業した大人の日常の大半は、同窓会じゃなくてそれぞれの人生の中にある。それぞれの人生を生きている大人たちは、基本的には、自分の家族や人生に向き合っているのであって、年がら年中同窓生に向き合ってなんかいられないのだ。だったら、「大人の音楽」は、「同窓会」よりも「ハガキ」が良いんじゃないかな。「ハイ!僕はこんな感じだよ。君はどうだい?」って。「大人」にはそれぐらいの距離感があっても良いと思うよ。
 
自分たちはまだまだ若いとか青春時代を生きているとか言ってるわりには、なんかすごく古い感じがするのが、「団塊オヤジ」だなぁと思うわけだけど、自分が若いときのままで時が止まっているのは「若い」とは言わないんだよね。「若い」っていうのは今を生きることだ。「人生の新しい地平を切り開こうとしている」と言っているわりには、求めているものが「30年程前のあの〈熱狂〉」っていうあたりもおかしい。
あの年代のオヤジは、若者にアドバイスしているつもりで、結局「俺たちのために行動してくれよぉ!」と言っているだけということがよくあるけど、元記事からもそれに似たものを感じる。若者だけじゃなくて、同年代アーティストに対してもそう感じるものなんだね。結局、自分のほうに向いてくれない人のことを、「心を開いていない」とか「素直じゃない」とか「内向き」とか「覇気がない」とか言ってるということなんだ。
まぁ、結局こういうのって「自分でやれよ」になるわけだけど、「人生の新しい地平を切り開こうとしている」のなら、本当に自分でやってみれば良いと思う。今の時代、ネットで発信できるのだし、音楽ができるオジサン同士で集まって、自分たちで創ってみるのも面白いんじゃないのかな。上手くいけば「共感」や「熱狂」を得られるし、そのほうがずっと自分らしく生きられるよ。
そもそも、今の時代って、若者にとっても聴く音楽はあまりないんだよね。AKBもジャニーズもK-POPも、結局オヤジが仕掛けて売っているわけで、AKBやジャニーズやK-POPのファンでない限りは、どの世代の人間にとっても聴く音楽はない。音楽業界が本当に若者に向けて音楽を供給しているのなら、「若者の音楽離れ」なんて起こらないはずなんだよ。若者だって、自分で探しに行ったり自分で創ったりしないと、気に入る音楽は手に入らない時代なんだよね。だから初音ミクとかが支持されている。
まぁ、10代の頃から特に歌う歌も聴く歌もなく、フォークやニューミュージックより古い時代の曲をYoutubeとかで聴いている私としては、「『俺らの時代』があって良かったですね!」ってなるよね(笑)。一方私の母は嵐にハマった。
 
 
【関連記事】
「若者が」「外国人労働者が」ではなく、「自分が」という意識を持って欲しい