yuhka-unoの日記

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体罰と、自分で考える力を奪う教育について

桜宮高校体罰事件となんで体罰いけないかとか自主性とか
桜宮高校体罰事件と、「いい人」の体罰と、ダブルスタンダードの日本
桜宮高校体罰事件続き。「生魚と包丁とまな板を使って料理を作ってください」。

上の増田の一連のエントリは、過去記事『礼儀とは、相手を大人扱いするということ』と関連性があるなぁ、と思いながら読んだ。私はこの記事の中で、「私は前々から、体育会系精神論根性論の人たちの言う『礼儀正しくしろ』は、礼儀ではなくて『支配』とか『服従』とかいったものだと思っていた。」「下の者が上の者に対してご機嫌取って気を遣うだけのものを、私は礼儀とは思わない。」と書いたけれど、では、相手を大人扱いするということはどういうことかというと、相手を自分で物事を考えられる人間として扱うということだと思う。
上の増田の顧問も、生徒たちに「自主的に考えること」を要求しているけれど、考える方向性というか、エネルギーを向ける先というのが、どうもズレているのではないかという気がした。生徒たちは、自分たちがどうバレーボールをしていくかということに、自分の頭とエネルギーを使っておらず、顧問の考えを読み取ることに、自分の頭とエネルギーを使ってしまっている。だから本音が言えなくなり、その場に相応しい演技をすることになってしまう。そういう教育を受けて育つと、下のリンク先のようなことになってしまうのだろう。

「自然な疑問」を持たないように訓練されている - 発声練習
 
なんというか「自然な疑問」を持たないように訓練されている、とでも言うべき状態なのです。

常に「(生徒が知らない)正解を大人が知っている」という受け身の姿勢に徹しているから、基本的によい子になっている。

結局のところ、分断された知識の暗記のような事にしかならないから「どうすれば良いのか」とか「なぜこんな問題が起きるのか」「解決手段が無いときに代替手段を考える」ということ自体にたどり着きません。

精神論根性論の人は、よく「怠けるな!」と言うけれど、精神論根性論は、考えることを怠けることだと思う。
 
それから、体育会系の世界では、「やめる」ということがものすごくマイナスイメージになっていると思う。いくら好きなことでも、長く続けていると、自分は本当にこれがやりたいんだろうかとか、この方法で続けていて良いんだろうかとか、ちょっと距離を置いて別のことをしてみたいとか、そういうことを思ってしまう時期というのは、当たり前にあることで、これらは全て、ただ自分の人生における選択をしたというだけに過ぎない。
でも、体育会系の世界では、これらのことは「やる気がない」ということになってしまって、何かしら「やる気がないから辞めるわけではない」という理由を作らないと、ものすごく不名誉なこととして扱われてしまう。誰だって不名誉なことは嫌だから、辞められなくなってしまって、追い詰められてしまう。こういう精神状態の時に追い詰めてしまうのは、とても危ないのだけれど。
そしてこれは、ずっと一直線の社会のレールに乗っているのが良いとされる、日本社会的価値観と親和性が高いと思う。人間なのだから、迷いもするし挫折もするのは当たり前だ。不登校になることもひきこもりになることもある。むしろ、一生のうちで一度も不登校になることもひきこもりになることも許していない社会って、どうなんだろう。それって人間的だろうか。予め決められた人生のレールに乗っかって、そこから外れないことを良しとするのは、ある意味では奴隷的ではないだろうか。そもそも、自分の仕事に創造性を発揮するのではなく、主人が何を望んでいるのかを気にするように訓練させられるのも、奴隷的と言える。

為末大さん「我慢と部活動と鬱について。」 - Togetter
 

 

中田英寿という生き方(後編)【フットボールサミット第2回】 | フットボールチャンネル
 
子供たちは不承不承ながら当然のことのように「罰」を受けたのですが、ヒデだけはベンチの脇に立って走ろうとしないのです。怪訝に思った私は、
「どうした。なぜ走らんのだ!」
と語気を荒げたのです。ヒデの答えはこうでした。
「走る理由がわからない。俺たちだけが、走らなければならないのは納得できない。皆川さんも一緒に走ってくれ。だったら俺も走る」
 
引用元:『山梨のサッカー』山日ライブラリー

よく「俺たちが若い頃は、もっとがむしゃらにやったもんだ」と言うオヤジがいるけれど、その「がむしゃら」というものが、例えばここに書いてあるような、何も考えずに罰走50本ダッシュするような「がむしゃら」さだったとしたら、それってどうなんだろうと思う。私は、精神論根性論は、考えるのを怠けることだと思ってるけど、こういう方法は、経済成長がこれからもずっと続いていくという幻想の中だけでしか通用しなかったもので、もう現代はそういう時代ではないんじゃないだろうか。「体罰」自体は、道義的な面において時代遅れだが、そもそも「体罰的なやり方」が既に時代遅れなのだと思う。
本音を語らず演技で礼儀正しさを演出するような空気は、「意識高い系」と親和性が高いと思う。体罰は暴行・障害だから、それはそれでもちろん問題だけど、若者が就職活動で鬱になったり自殺したりするのも、今回の体罰事件と地続きの問題のような気がする。
 

企業の不祥事とかでもそうなんだけど、こういう時に問われることは、大きく分けて「被害・損害を与えた人に対して、きちんと対応できているか」「今後、同じことを起こさないための対策が打てるか」の二点だと思う。本来はそこに意識や労力を向けるべきであって、「いい学校・いい先生であることを知ってもらおう」とアピールすることに意識や労力を向けるのは、かなりズレている。どんなに「いい人」「いい先生」であっても、万引きすれば窃盗罪だし、レイプすれば強姦罪だし、あれだけ人を殴れば暴行・障害罪だ。その集団組織が、「本当はいい集団なんだ、いい人なんだ」というアピールをすることに一生懸命になってしまって、「今後、同じことを起こさないための対策が打てるか」に意識が向いていないのであれば、私は、集団の名誉回復を図りたい人たちの願いとは全く逆に、「ああ、この集団は何も改善されないだろう。また同じことを繰り返してしまうだろう」と思ってしまう。
 
それに、本当にその「いい先生」のことを思うのなら、その先生が罪を償う過程を支えたり、今後の人生のことを応援したりするべきであって、「先生は悪いところばかりじゃないんだ。いい先生なんだ」と言うことによって、罪を軽減してあげようとかするのは違うと思う。
例えば、自分の子供が誰かをいじめたり、危害を加えたりした場合、その子自身に「あなたはこんな良いところもある」と言うのはまだわかるけど、周囲の人や被害者に対して「この子はこんな良いところもあるんです。悪い子じゃないんです。わかって下さい」と言うことに、どれほどの意味があるのだろうか。まずは、その子がしてしまったことに対して、きちんと対応するべきで、それをしていないのに「この子はいい子なんです。わかって下さい」と言うのは違うと思う。はっきり言って、きちんと対応しないうちは、誰もそんなことに興味はない。
自分の犯してしまった過ちに向き合うのは辛い。あくまでもその「辛さ」に対して理解を示し、どうすれば良かったのか、今後どうしていくのが良いのかについて、一緒に考え、一緒に過ちに向き合うのが、本当にその人のことを思った態度だと思う。自分が慕っている人が重大な過ちを犯してしまった時、自分がその事実に向き合えないがために取る行動を、「その人のためを思った行動」だと勘違いしてしまうのは、よくあることだ。
 
ちなみに、「若者を自衛隊に入れて鍛え直せ!」という言説も体罰だ。なぜなら、「若者を自衛隊に入れて鍛え直せ!」と言っている人たちは、「どうしても自衛隊員を増やす必要があるから、徴兵制はやむをえない」という文脈で語っておらず、教育の文脈で語っているからだ。これは躾と称して子供を虐待する親と一緒だ。これが家庭規模なら虐待だが、国家規模だと「政策」として語られるわけだ。虐待する親が言う「躾のつもりだった」は、言い訳ではなくて本気でそう思っているのだということが、これでよくわかると思う。虐待親は、何も特異で異常な存在ではないのだ。

“このタイプの親は、まるで「子供さえ完璧であれば自分たちは完璧な一家になれる」という幻想を信じていなくては生きていけないかのようだ。彼らは自分たちが精神的に安定した家庭を築くことができない事実から逃れるため、その重荷を子供に背負わせているのである。”
―スーザン・フォワード「毒になる親」より―

この「家庭」の部分を「国」に置き換えたら、まんま現代の日本社会だ。機能不全家庭の構造と同じ、機能不全社会だ。
 
 
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