yuhka-unoの日記

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『女の子よ銃を取れ』を読んで―抑圧からの解放

女の子よ銃を取れ

女の子よ銃を取れ

『女の子よ銃を取れ』(著者:雨宮まみ)。この本は、過去記事『おしゃれ、したかったよね。―服が捨てられなかった私の話―』で書いたように、「おしゃれに興味のない、流行に疎い子でいて欲しい(金がかかるから)」という母親の願望を内面化していた私が、「私、本当はおしゃれしたかった!」となって、押さえつけられていた欲望を解放していく過程で読んだ。この本の冒頭部分に、“「美しくなりたい」と思う気持ちは、私の中では「自由になりたい」と、同義です。”と書いてあるけれど、私にとっておしゃれをすることは、まさに、母親や世間の抑圧から逃れて自由になることだったのだ。


特に共感したのは、「かわいくない女の子」の項。著者は、ドバイに旅行に行って、「なんとも言えない開放感」を味わった後、新宿駅まで戻ってきた時に、ファッションビルのショーウィンドウを見て、打ちのめされたような気持ちになり、「ああ、私はまた、日本の『かわいい』至上主義の中で暮らしていかなきゃいけないんだ」と思ったという。
私は、過去記事『可愛くない私の自分探し』で書いた通り、20歳の頃から、父と一緒にいると「奥さんですか?」と聞かれるくらい、大人っぽい落ち着いた容姿だった。同世代の女の子たちがしている「かわいい系」なメイクや服装や髪型が、自分に似合うとは思えなかった。この「かわいい至上主義」の日本の中で、自分がロールモデルにできる女性像が、ものすごく少ないと感じていた。
著者は、日本の水着売り場には、若い女性向けの水着しか置いていないと言っているけれど、私は、その「若い女性」の年齢の時から、日本の店頭で売られている水着のほとんどは自分には似合わず、海外インポートの上品なワンピース型の水着のほうが似合うと思っていた。


以前の私は、美容院に行くのがあまり好きではなかった。完成した髪型に満足感を得られることは滅多になく、逆に「こんなふうにされるくらいなら、切らないほうがマシだった!」と思って帰ってくることのほうが、少なからずあったからだ。
美容院に行った若くてかわいくない女の子にの目の前には、「この性別のこの年齢の人にはこの雑誌」と判断されるのか、若くてかわいい女の子向けの雑誌が置かれた。到底私に似合うとは思えないファッションのモデルが載った表紙。それはまぁ読まなければ良い話ではあるのだけれど、自分が何かに当てはめられて決めつけられているような感じがして、なんとなく嫌だった。
それだけでなく、美容師に注文をほとんど無視されて、勝手にかわいい髪型にされてしまうこともあった。もしかしたら、美容師も、所詮はこの「かわいい至上主義」の日本の中で、その価値観を内面化しており、若い女の子に対して「かわいい髪型にしてあげなくっちゃ」と思ってしまう人が、少なくないのかもしれない。私はその美容室には二度と行かなかった。服や化粧品は自分で選べるけれど、髪型は他人の手を借りないといけないので、「ファッションマイノリティ」にとっては、なかなか難しい部分だと思う。


マジョリティとマイノリティの間でよく起こることとして、マイノリティはマイノリティ特性のままで生きていきたいのに、マジョリティのほうは、良かれと思って、あるいは、マイノリティの世界への無知から、マイノリティの特性を押さえ込んで、自分たちの社会に適応させようとする現象がある。
これはあくまで私の仮説というか持論なんだけれど、これと同じことが、おしゃれにおいても起きていると思う。つまり、たまたま今の流行りの格好が似合ってしまうタイプの容貌を持った人が、流行りの格好があまり似合わないタイプの容貌を持った人の外見を扱う場合、その人本来の容貌に似合うかどうかをあまり考えずに、流行りの格好をさせてしまうということが、けっこうあるんじゃないかと。
例えば、落ち着いた大人っぽい容貌の人がいたとして、本当なら、落ち着いた大人っぽい格好をすれば、その人が本来持っている魅力が引き立つのに、若い女子だからといって、「なんとか、流行りのかわいい格好が似合うように近づける」という方向に持って行ってしまって、結果全然似合っていないとかね。


ちなみに、今では、パーソナルデザインの診断を受けたことによって、自分に似合う髪型がわかり、美容院に行くのが苦ではなくなった。(ちなみに、私のタイプはこちら。)今の私の髪型は、自分の髪質と顔立ちに合わせたものになっている。切るたびに良い気分になれるし、満足できる。気持ちよくお金を払えるようになったのは、すごく大きい。
以前は、注文とは違う勝手なアレンジを加えられて、しかもそれが全然似合っていないので、「金返せ!」という気分になったこともあった。それは、髪のプロである美容師に対して、自分の感覚に自信が持てなかったからでもある。おかしいと思っていても、文句が言えなかったのだ。今では、「あまり見かけない髪型かもしれないけれど、私はこれにしたいんです」と、明確な意思を持って言えるようになった。
自分に似合う格好がわかるというのは、例えるなら、自分の身体に合う椅子が見つかるのに似ていると思う。それまで合わない椅子ですごく違和感があって、そこに意識が持って行かれてたのが、快適な椅子に出会って、あまり椅子を意識せずに済むようになった。そんな感じがする。


おしゃれコンプレックスから解放されていく過程では、特におしゃれについて書かれた本というわけではないけれど、『叶恭子の知のジュエリー12ヵ月』という本も役に立った。

叶恭子の知のジュエリー12ヵ月 (よりみちパン!セ)

叶恭子の知のジュエリー12ヵ月 (よりみちパン!セ)

「鏡」とは、うぬぼれのためだけに存在しているものではありません。自分を知るためのツールとして、徹底して使いこなすためのものです。”
叶恭子の知のジュエリー12ヵ月―

以前の私は、髪型やメイクを変えた時、鏡をまじまじと見て自分の顔を観察したいという思いがあった反面、そうやって一生懸命鏡を見るのが恥ずかしいという思いを持っていた。この思いは、私のおしゃれ心を押さえつけてきた母に、「あんた、何でそんなに鏡ばっかり見てんの?(笑)」と言われるんじゃないかという不安から来ていた。
でも、音楽家は自分の音楽を録音して聴き直すし、絵描きは自分の描いた作品を見直すし、文筆家は自分の書いた文章を読み直す。上手くなりたいなら、当然そうする。おしゃれになりたい人にとっての鏡を見る行為は、それと同じなのだ。鏡はチェックするためのツールなんだよね。