yuhka-unoの日記

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Mother―生身のジョン・レノン―

John Lennon - Mother

  
この曲を知った当時、世間ではMetisの「母賛歌」が「泣ける歌」として話題になっていた。Metisとこの曲が好きな人には申し訳ないが、私にとってあの歌は、個人的事情により受け付けられない。あの歌そのものもそうだが、それ以上に、あの曲の取り上げられ方が受け付けられなかった。
親に感謝するということが、空気のように当たり前のことであり、無条件で素晴らしいことであり、誰もが共感できて当然のものだと信じる人たちによる、無意識の抑圧。それは、私が母から受けた抑圧と同質のものだった。
テレビで、親感謝ソングや、親孝行する場面(大抵は母親だ)が流れると、私の母が思い浮かべるのは、自分の母親に対する感謝の気持ちではなく、自分に感謝する子供の姿だった。母は、「親に感謝するべき」という道徳を持ち出して、私に甘えていた。
 
そんな時に、「桑田佳祐の音楽寅さん」というテレビ番組の中で、私はこの曲に出会った。画面下に表示される訳詩の字幕を見ながら、「え…こんな曲があったんだ…」と思い、更に「ジョン・レノン」という表示を見て、「え、ジョン・レノンってこういう曲作ってたの!?」と驚いた。
母親に「ありがとう」と言う曲ではなく、「さようなら」と言う歌の存在は、私にとって衝撃だった。しかもあの有名なジョン・レノン
桑田佳祐は、よりによって「母の日特集」の中でこの曲を歌っていた。
 
ジョン・レノンという人は、父がよく車の中でビートルズの歌を流していたので、幼い頃からその存在自体は知っていた。英語や音楽の教科書にも載っていた。
でも、特に意識したことはなかった。ビートルズのメンバーで、オノ・ヨーコと結婚して、愛と平和を訴えて、ヤク中で、最後に殺された人、という、おそらく私の世代の平均的な人が持っているイメージでしかなかった。
ジョン・レノンビートルズと聞いて思い浮かぶ曲は、「Hey Jude」や「Let it be」や「Help」など。(どの曲をレノンが作ってどの曲をマッカートニーが作っていたのかなど、もちろん知らない。)「Mother」という曲は、それまで全く知らなかった。そこには、愛と平和のジョン・レノンとは違う、シンプルな現実があった。
 
私は、弟が生まれた時から、本来の私とは違う「しっかり者で面倒見の良いお姉ちゃん」に仕立て上げられ、無意識のうちに進路を母に誘導され、自分でもわからないまま、徐々に人生が狂って壊れていった。そんな状況の中で、心理系のサイトを巡るうちに、自分の原因に一気に気付く瞬間があった。
その瞬間、私から、親にコーティングされた「お姉ちゃん」という殻が剥がれ落ち、後に残ったのは、自分の人生を自分で決めて行動する能力が、弟が生まれた幼児期で停滞してしまっていた自分だった。そして、それまで抑圧されていた、母親への怒りや憎悪、もっと甘えたかった、わかって欲しかったという気持ち、弟への嫉妬心など、これまで感じたことのなかったドロドロした感情が、一気に湧き上がってきて、私はPCの前で号泣した。
 
精神状態がどん底の頃は、死にたい死にたいと思っていた。カウンセリングを受けて回復して来ると、将来この親とは縁を切ろうと思った。
できれば親にわかってもらいたい。でも、この親がわかってくれる見込みは少ない。ならば、自分の人生を生きるには、親にわかってもらおうとすることにエネルギーを注ぐのではなく、親を諦め、自分自身を立ち直らせることにエネルギーを注いだほうが良い。私は親を切り捨てなければならない。いつか、この親と縁を切ろう。母が私に期待する言葉は「ありがとう」だが、私が母に言うべき言葉は「さようなら」だ。
当時の私は、静かにこう思っていた。特に親に気持ちをぶつけるということも、あまりしなかった。言っても無駄だということがわかりきっていたからだ。
その私の気持ちに、「Mother」は繋がった。
 
もしかしたらジョン・レノンは、私と似たような体験をしているんじゃないだろうか。そう思った私は、ジョン・レノンの生い立ちを少し調べてみた。

マザー (ジョン・レノンの曲) - Wikipedia
 
ジョンは1940年10月9日にリバプールで船員として働いていた父アルフレッド・レノンと母ジュリアとの子として生を受けたが、すぐに父は行方不明になってしまう。母は他の男と暮らしはじめ、ジョンはジュリアの姉のミミ夫婦に預けられた。ジョン5歳の時、突然アルフレッドが姿を現しジョンを連れ出すが、ジュリアと親権をめぐっていさかいとなる。結局ジョンは母ジュリアを選ぶのだが、ジュリアは再びジョンをミミ夫婦のもとへあずけ、一緒に暮らすことはしなかった。アルフレッドもまた行方がわからなくなってしまう。この体験によって負わされたジョンの深い心の傷が、本曲の「母さん、いかないで!父さん、戻ってきて!」という叫びに現れている。また、「子供達よ、僕の過ちを繰り返すな。僕は歩けもしないのに走ろうとした。」というメッセージも添えられている。

どこか私に似ていると思った。私の母の場合は、私への依存であり過干渉だったが、過干渉とは、本来の子供の姿をネグレクトすることだ。母は私に「お姉ちゃん」を求め、「私」には無関心だった。私は母のことを「振り向いてくれない人」だと思っていた。
この曲は、彼がオノ・ヨーコと共に受けた、「原初療法」という、自分が人生の中で受けてきた苦痛の記憶を、幼少期まで遡って掘り返す作業によって、「自分のそもそもの苦しみは、母親を失ったことだった」と気付いたことにより、生まれたものらしい。
この曲によって、私の中でのジョン・レノンの認識が、漠然とした愛と平和の伝説的音楽家から、生身の人間としての存在感を持った、「生きていた人」に変わった。
 
戦時中、カボチャばかり食べなければならなかったという体験をしたので、今ではカボチャを全く口にしないという人の話を聞いた。この人の感覚は至極正常である。ならば、親感謝ソングが受け付けない私の感覚も、至極正常である。
この曲を知った時の、私の正直な気持ちは、「親に感謝する気持ちなんて、大多数の人が共有できるものなんだから、他人と気持ちを共有するのが難しい、少数派のための歌こそ存在していて欲しい」だった。
「Mother」は当時、「狂っている」と言われて、アメリカで放送禁止になったらしい。親に感謝するという、とても「正しい」曲も、誰かを傷つける。一方で、「狂っている」と言われて放送禁止になった曲に、救われる人もいる。表現とは、そういうものなのかもしれない。どんな表現でも、どんなものでも、人によっては「カボチャ」になりえるのだ。
 
 
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