yuhka-unoの日記

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学校という殺人隠蔽組織と、カルト集団との共通点

【学校が人を怪物にさせる】大津いじめ自殺事件についての内藤朝雄さんのコメント - Togetter

いじめ自殺を隠蔽しようとする学校組織や教育委員会は、外部から見ると、ものすごく非常識で、なぜわざわざ不名誉なことを重ねるんだと思うわけだが、腐敗した組織というのは、外部からの視線より内輪からの視線のほうが恐怖になっている。隠蔽が行われる組織は、日本の中に、小さな独裁国家があるようなものだ。外部から何を言われようが、その国の国民として生き残っていくためには、内輪の不利益になるようなことはせず、その国の国民らしく振舞わなければならない。その集団に逆らって、自らの良心に基づいた行動を取るということは、集団からの私刑や、外部への亡命を覚悟でしなければならないことになる。内部の人間は、そもそも自分たちがおかしいのだという自覚が無いし、もし自覚があって良心を痛めている人がいたとしても、簡単に言える状況ではない。
 

高学歴なのに「教祖は宙に浮く」と信じたカルトの罠(1/2ページ) | ニコニコニュース
 
 カルト宗教とそうでない宗教(従来の伝統宗教)の違いについて、瓜生氏は「ひと言やふた言で説明するのは非常に難しい」としながらも、「信者の人権を侵害しているか否か」がその境目であるとの見解を示した。弁護士の紀藤正樹氏も「人権侵害が著しい団体は、当然、社会問題になり、どう考えてもカルトとしか言いようが無い」とし、
 
「信者の人権を大事にしないということは、団体外の人権も大事にしないという発想につながって、暴発につながって行く」
 
 との考えを示し、子供の人権、女性の人権、労働者の人権を無視するような「カルト現象」の兆候のある団体を放置すれば、団体の外部に対しても危害が及ぶ可能性が出てくると指摘した。

これはカルトの構造と共通している。内部の人の人権を尊重しない組織は暴走する。オウム真理教も、組織内で起こった殺人を隠蔽したことから、暴走に歯止めが効かなくなったらしい。
赤軍の「総括」も、オウムの「ポア」も、もともとそういう概念が先にあって殺人が起こったというよりは、組織内で起こった殺人を正当化するための後付けの言い訳として、そういう概念が生まれたということらしい。「ポア」という、外部から見たら狂っているとしか思えない概念が、もともと組織内で起こった殺人の言い訳として生まれたと知ったとき、私は納得がいったような気がした。
オウムの事件の時、「高学歴な人が、なぜカルトなんかに嵌ったのか」と言われたらしいが、そもそも学校という場そのものが、カルト的な集団だということなのだろう。外部からの目線より内部からの視線のほうが恐怖で、外部を敵視して遠ざけたり、あるいは攻撃したりして、いじめ自殺を組織ぐるみで隠蔽しようとするところは、カルトと共通している。

ポア (オウム真理教) - Wikipedia
 
ポア(Phowa)とは日本のカルト宗教であったオウム真理教における教義のひとつである。

殺人を正当化する為に使用したものとされる。

総括 (連合赤軍) - Wikipedia
 
総括(そうかつ)とは、日本の新左翼党派である連合赤軍の行動様式の一つ。

オウム真理教のポアと並び、戦後日本が生んだ閉鎖的犯罪集団の殺人正当化の論理である。

 
この国では、殺人とその隠蔽は、宗教団体よりも、学校組織で最も頻繁に見られる現象かもしれない。学校という場は、赤軍やオウムとそれほど変わらない、かなり異常で危険な集団なのかもしれない。それに気付くか気付かないかだけで。
いじめの隠蔽なんて、全然珍しくもなんともないと思う。かつて私自身も中学時代に経験したことだ。学校側は、自分たちが「隠蔽」しているという意識すらないと思う。だからこそ、あれだけ非常識なことを堂々とやれるのだろう。むしろ、なぜ自分たちがこんな目に遭わなければならないのかと、被害者意識を持っているかもしれない。そういうものだと思う。それが隠蔽行為だということがわかるのは、外部の人間と、内部の抑圧された良心的な人間だけだ。赤軍やオウムも、自分たちが殺人の隠蔽をしていたという意識はなかっただろう。「ポア」や「総括」は、隠蔽という意識がないことを表している。
学校のいじめ放置・隠蔽というのは、安全神話の代表みたいなものだと思う。いじめ自殺というのは、「他所の学校では起こるかもしれないが、うちの学校では起こらないこと」になっている。安全神話状態に陥ったところは、必ず最悪の事態が起こる。そして、その体質が治らないうちは、最悪の事態が何度も何度も起こる。学校組織はもうずっと治っていない。
だから、いじめ自殺者が出たとき、学校が隠蔽するのは、ある意味では当たり前だと思う。なぜなら、そもそも最初から学校がそういう体質だったからだ。だからいじめが発生しやすいし、いじめが起こっても放置するし、いじめ自殺者が出ても、最後まで「なかったこと」にする。最初から、いじめ自殺者を出すような体質になっている。
 

暴力の現場を見かけたら、その場で一個人が即警察に通報するというのは、ごく当たり前のことだが、学校という場においては、なぜかそれをしてはいけないことになっていて、そういうことは教職員に任せることになっている。なぜなのかと改めて問われると、なぜなのかわからない。この「なぜかそれをしてはいけない気がする」というのは、私たちに植え付けられた「洗脳」と言える。
学校の内と外では、これほどまでに常識が違う。学校内部においては、自らの良心に基づいて行動することが推奨されていない。いじめ自殺が起こったとき、学校や教育委員会が、外部から見て理解できないほど非常識な行動を取るのは、ある意味では当たり前だ。カルト集団や独裁国家が、外部から見て理解できない行動を取るのと、同じ構造なのだから。
学校は教育という名目の下の治外法権だ。これは、日本の企業が治外法権になっているのと同じだと思う。日本の企業が労働基準法からの治外法権になりがちなのは、日本の学校教育が下地にあるからなのかもしれない。日本の企業も、労働者の人権を軽視しがちだし、過労死や過労自殺が起こっても、隠蔽しようとする傾向がある。
 
日本は、法律よりも集団組織の「空気」や「慣習」のほうが力を持ちやすい。そして、人権が十分に守られていない。集団組織の内部が治外法権になりやすい。これはカルト的と言える。だから、私たちがカルトに嵌るのは、何ら不思議なことではなく、むしろ嵌って当たり前のことなのだ。というよりも、私たちは、既にカルト的な集団の中に身を置いていて、それに特に疑問も持たずに過ごしている。
今の日本人には、独裁者が現れても、それを止めることはできないだろう。「法律があるんだから、独裁になんてならないし、できるわけがないよ」と言う人がいるけれど、法は、一人一人にそれを維持し運用していこうという意識がなければ、形骸化してしまうものだ。現に日本の学校や職場では、法律が機能していないのだから。要するに日本人は、大日本帝国時代から何も変わっていないのだ。
子供たちをカルトやいじめから守るために必要なのは、人権教育と、集団組織の「空気」や「慣習」よりも、自らの良心と法を重視する姿勢である。しかし、現代の教育機関は、子供たちにこれを教育することができるのだろうか。
 

高学歴なのに「教祖は宙に浮く」と信じたカルトの罠(1/2ページ) | ニコニコニュース
 
「カルトは宗教概念ではなく団体概念から生まれてきたもの。カルト=宗教と考えると間違う。あまり宗教というような枠組みで捉えてはいけない」

 
 
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