yuhka-unoの日記

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社会は虐待の加害者です。

しんどいよな|くわばたりえオフィシャルブログ「やせる思い」 by Ameba

くわばたりえさんの、子育てのしんどさについての話。
ここで言う「手を抜く」というのは、「キャパオーバーしないように最適化する」という意味だろう。自分ができる範囲を把握して、物事に優先順位をつけて、手を抜けるところは抜いて、自分自身をコントロールするというのは、自分が壊れてしまわないために大事なことだ。これは育児でも仕事でも何でもそうだと思う。
鬱になってしまう過程としてよくあるのが、世間や周囲の人が言う正論を、非常に真面目かつ素直に受け取って、その結果、「このレベルのことをしなければならないんだ」と思い込んでしまい、それらほぼ全てを実行しようとしてしまうケースだ。しかし、それは自分にできる範囲を超えているため、段々追い詰められ、「自分にはできない。自分はダメな人間なんだ」と思い込み、とうとうキャパオーバーしてしまうことになる。
かつて、私は「仕事」でこれをやってしまい、精神破綻した。もしこれが「子育て」で起きていたらと思うと、ぞっとする。私にも、子供を虐待する素質は十分にあるのだ。
いくら周囲の人間が正論を言って来ても、自分にできることは限られている。現場でその正論に割けるリソースが無い場合、その正論は実行不可能だ。「手抜きに文句を言うならリソースをくれ」ということなのだろう。
 
私は、親はできるだけ子供の犠牲にならない方向に努力したほうが良いと思っている。なぜなら、自己犠牲的な親は、子供に罪悪感を抱かせ、その罪悪感は子供を縛ることになるからだ。
子供は、「親に心配をかけない道」と「自分の人生をより良くしていく道」の、二つのどちらかを選ぶ時、「自分の人生をより良くしていく道」を選ぶべきだ。それが親から自立した一人の人間として、自分の意思と判断で選択して行動していくということだ。
しかし、親に対して罪悪感を抱いてしまっている子供は、「親に心配をかけない道」を選んでしまう。自分の人生を生きるのではなく、親の希望のために生きてしまう。
 

子育てがしんどい人は自分の感覚を疑ってみよう - ハックルベリーに会いに行く
 
だから、もし子育てをしんどく感じている人がいたとしたら、その人にはこう質問するといい。「子育てを、楽しいもの、心からやりたいと思うものと誤解していませんか?」と。そして、もしそう誤解していたのだとしたら、「その考え方が間違いなのです。子育ては、もともとつらく、苦しいものです。だから、そういうふうに誤解していた自分がバカだったと反省してください」と言うといい。そうすれば、その人は自分の間違いを認めなければいけない大変さはあるものの、子育ての「しんどさ」からはすっかり解放されるのである。

ちょっとこれは、突っ込まずにはいられなかった。「子育てしんどい」ということすら言わせない社会がしんどい、子供を連れて電車に乗った時、「邪魔だ」「こっちに迷惑かけるな」という態度を取る世間がしんどい、という話なのに。
「子育てしんどい」と言っただけで、これだけ批難されるのなら、世の親御さんたちは、「しんどい」という気持ちを内側に溜め込んで、世間に対して「良い親」を演じるようになるだろう。そうなった時、子供がどうなるか考えてみれば良い。親が世間に対して「子育てしんどい」と言えない社会というのは、つまり、親が子供を虐待してしまっている時に、助けを求められない社会ということだ。
 
私はかつて、明らかに自分に向いてない仕事でも、「働くのはもともとしんどいものなんだ。みんな努力して我慢してるんだ」と思って辞めず、「みんなができることを、私はできないんだ。私は努力が足りない怠け者のダメ人間なんだ」と追い詰められて行き、精神破綻してしまった。これまでブラック企業に当たらなかったのは、幸運だったとしか言いようがない。もしブラック企業に務めていたら、私は逃げられずに過労死していただろう。
最初からしんどいものだと思っていたところで、しんどさが消えるわけでもなければ、解放されるわけでもない。むしろ、そういう「悲愴な覚悟」が、自分自身を追い詰めてしまい、視野を狭くしてしまう場合がある。
 
社会は虐待の加害者だ。親に向かって、「こっちに迷惑をかけるな」「『子育てしんどい』なんて、ひどい親だ」「冷凍食品なんて子供がかわいそう」と圧力を掛けて追い詰め、孤立させる。虐待被害者に対して、「子供を愛さない親なんていないよ」「親御さんも辛かったんだろうから、わかってあげて」「それでも養って貰ったんだから、そこは感謝しましょう」と言って傷を抉り、「切っても切れない親子の絆」という感動物語を提供してくれと求める。
にもかかわらず、社会は自らの加害性に無自覚で、児童虐待のニュースを見ると、「なんて酷い親なんだ。子供が可愛くないのか」と言って、自分はあんな親とは違うんだと、無根拠に思い込む。はっきり言って、何も違わない。社会が親子をネグレクトしている。自分の感覚を疑って反省すべきなのは、まず社会のほうなのだ。
最近問題になった大阪維新の会条例案は、発達障害に対する項目が誤解と偏見まみれで問題になったが、虐待の項目についても、そもそも社会が虐待の加害者であるという認識がなく、「けしからん親が増えたので、児童虐待が起こる。親を教育してやらなければならない」という意識だったことには、根底の認識からして、大いに問題があると思った。
 
子供を虐待から救うために一個人ができることというと、虐待の疑いがある場合は通報というのが、世間一般の人の認識だと思う。もちろんそれは大事なことだが、しかし、それ以前の問題として、親が安心して「子育てしんどい」と言える社会にすること、親が助けを求めやすい社会にすることが必要だと思う。そして、これは今すぐに始められることだ。
 

読売新聞 人生案内「昨年産んだ息子に憎しみ」への反応まとめ - Togetter
 

しつけと虐待について語ろう〜いま、私たちにできること〜
 
しかし、大人は一般にプラスの感情を好みます。そしてマイナスの感情は遠ざけます。よくない、ダメだ、とフタをしてしまう。重症な場合は、マイナスの感情を“否認”する。「マイナスの感情は、自分にはない」と、本人にも気づかない状態です。虐待するお母さんたちの共通点はこの“否認”という感情が強く働くところです。

「子どもが言うことをきかなくて、大変で、ときには疎ましいと思う気持ちがある。夜泣きがひどくて泣き止んでくれればいいのに、この子なんていなければいいのに‥‥という気持ちがある」。なのに、そんなことまったく思っていない、と否認するのです。

すると、そのフタをしたマイナスの感情の器は知らぬ間にどんどん膨れ上がっていきます。やがて、フタを閉められないくらいいっぱいになって、いっきにこぼれ出てきます。これが“破綻”なのです。

 
 
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