yuhka-unoの日記

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仮面学校―「キレる良い子」を生む、きれいな虐待―

Togetter - 「はるかぜちゃん @ harukazechan が語る小学校でのいじめの実際」
http://togetter.com/li/125610

Togetter - 「はるかぜちゃんが語る、現在の小学校のすがた」
http://togetter.com/li/133863

 
これ、はっきり言って児童虐待なんじゃないのか。この「休み時間は遊び係のきめた遊びを全員でやらなきゃいけないルール」は、虐待の温床になる機能不全家庭そっくりだ。家庭内の人間が、不満や問題があっても表に出さず、「良い家庭」を演じているような、仮面夫婦が作り出す仮面家庭のようだ。
こういう家庭では、子供は常に「良い子」を演じなければならず、家族みんなで仲良くしなければならず、親に反発することも兄弟喧嘩もできない。子供は不満が圧殺され、問題を起こすことは認められない。
こういう家庭になる原因は、親が「理想の家庭」という幻想に縋り付いているからだ。「理想の家庭」を保っていれば幸せになれると信じている。だから、子供に「問題を起こすな」という圧力をかけるのだ。現実に向き合っていない。こういう家庭でストレスを溜めた子供が、親の見ていないところで兄弟をいじめるというのは、よく聞く話だ。「キレる良い子」はこうして育つ。
 
たぶん、この奇妙なルールを作った大人は、意識上では「子供のために、いじめをなくそうと思ってやったこと」と思っているのだろう。でもこれ、子供のためじゃなくて大人のためのルールだよね。もしいじめが目に見える形で現れていたら、大人はなんとかしなければならなくなるから。表面上でも問題を起こさないようにしてくれたら、大人に見えさえしなければ、なんとかするという責任から逃れられるから。
仮面家庭の親は、意識上では、子供をものすごく愛している。ともすれば他の親より愛しているつもりでいる。他の「理想の家庭」じゃない家庭と比べて、「うちはああいう家庭とは違うから、自分の家庭は大丈夫」と思っている。子供を無意識に抑圧していて、子供が自分の前では「良い子」に振舞うものだから、自分のことを「良い親」だと信じて疑わない。たぶん、この奇妙なルールを決めた大人も、こういう心理状態になっているのではないか。
この学校は「モデル校」に選ばれているようだけれど、まるで仮面家庭の親が、子供目線から見た「良い家庭」ではなく、ご近所様や世間様から見た「良い家庭」を目標としているようだ。
 
それにしても、これだけ「良い子がキレる」と言われて、ひきこもりが問題になって、子供の心の闇がどうのこうのと言われているのに、よりによって、そういう子供を生み出すような家庭を、学校で再現してしまうのだなぁ…と思ったけど、今の家庭や社会が抱える問題が、学校に現れただけなのかもしれないね。
でもこれでわかるのは、児童虐待が決して特殊な出来事ではないということだ。虐待は「ものすごく悪い親がものすごく悪いことをする」ものではなく、普通の大人が普通にすることだ。この奇妙なルールを決めた大人だって、児童虐待のニュースを見ると、たぶん「子供に対してこんなことをするなんて、信じられない!」などと言って憤っているのだろう。
虐待について「信じられない!私はそんなふうに子供を傷つけることなんてできない!」と言う親御さんを見ると、私は不安になる。虐待する親と自分とを切り離し、「私は違う」と思いたいのだろう。実は仮面家庭の親ほどそう思い込む。自分の家庭は、ああいう家庭とは違う、理想的な良い家庭なのだから…と。
「なぜ虐待に至ったのか」を見つめ、「私も知らないうちに子供を傷つけているかもしれない」と思う親御さんのほうが安心だ。
 
子供の頃、学校で「どこかのグループに属していないといじめられる」という圧力を感じて過ごした人は多いと思う。本当に仲の良い、気の合う者同士のグループではなく、ただ自分が排除されないようにするためのグループ。
そのグループ内では、少しの軋轢も許されない。絶えず相手の機嫌を伺い、仲の良い友達を演じなければならない。相手に見せる笑顔の下に、排除される恐怖を抱えている。
集団がそういう雰囲気になったとき、排除される恐怖から逃れる一番手っ取り早い方法は、誰か一人排除される役割を作ってしまうことだ。
その子が排除されている間は、自分は黙ってやり過ごしていれば、排除されずに済む。ストレスのガス抜きにもなるし、集団内の共通の話題ができる。もう一生懸命共通の話題を見つけようとしなくて良い。とりあえず「あの子ムカつくよねー」と言っておけば、それが共通の話題になる。
つまり、表面上の仲良しごっこは、いじめの温床になりやすいということだ。
 

じっさいは、そこまでわかりやすく親切にいじめてくれる子はいません(ω)いじめは、いじめられた本人にしかわからないから、こわいんです(ω)

虐待も同じ。実際は、そこまでわかりやすく親切に虐待してくれる親は少ない。虐待は、虐待された本人にしかわからないから、怖い。仮面家庭の親は、外から見ると普通の人。ともすると普通以上に良い人だ。なぜなら「良い人」を演じているから。でも子供は、その親に抑圧されて、対人関係に色々問題が出ている。傍目には、親は何の問題もなく良い人で、子供がおかしいように見えるから、親を知ってる人に虐待を訴えても、「良い親御さんじゃない。なんでそんなに悪く言うの?」って言われるだけ。
 

でも、いまぼくは悩んでいます(ω)今まで自由なクラスで自由に過ごしたことがなかったぼくたちの中に、休み時間を自由に過ごすことができない子や、全員で遊ばないことを悪いことと思いこんじゃってる子がいるのです(ω)

機能不全家庭で育った人も同じ。社会に出て、自分で自分の進む道を決めていかなければならなくなったとき、それができない。だからひきこもりになる。
ひきこもりにならなかったとしても、生き方が「自分にとってどうか」ではなく「世間から見てどうか」になる。世間的に良い学校、世間的に良い就職先、世間的に良い恋人、そして世間的に良い家庭、世間的に良い子供…と、自分の親と同じような家庭を築いてしまう。
自分で決められないから、親の代わりに世間に決めてもらっているようなもの。そしてこういう人は、世間的な価値基準から外れた人を「悪い人」だと思い込む。
 

休み時間に1人でいる子を見つけては、先生にちくりに行くことが、いい事だと思ってる子もいます(ω)

たまには一人で本を読んで過ごしたい時だってあるのにね。一人でいる人、他の人と違う行動をする人を認めるということが、いじめをなくす上では基本中の基本なんだけどな。こういうことをしていると、他の人と違う行動をする人を集団で凶弾するような大人になる。
一人でいることそのものが問題なのではなく、その子が一人でいたいから一人でいるのか、本当は皆と遊びたいけど一人でいるのかが問題なのに。
 
「みんな仲良く」なんてできるわけがない。大人だってできないのに。「みんな仲良くしましょう」より「いじめがあったら、みんなで止めましょう」のほうが良い。
誰かがいじめられていたら、みんなで止める。いじめを見かけた時に、自分一人だけしかいなくて、止めに行くのが怖かったら、友達や先生を呼んで止めに行く。誰かが「あの子無視しようよ」って言っても、いじめには参加しない。そういうふうにするのが、本当に自分にとってもみんなにとっても安全安心なことだ。
自分たちが排除されないために、誰か一人排除される人を作るというのは、かりそめの安心感でしかない。集団内の力関係が変われば、いつ自分が排除される立場に転落するかわからないのだから。
人は、手間の掛かる本当の安心安全よりも、手間のかからないかりそめの安心感のほうを選んでしまいがち。本当の安心安全は、一人一人の努力によって成り立つものだ。
「自分たちがいじめを止める」ということを、学校内における自分の役割だと自覚して育った子供たちは、「自分たちが差別や虐待を止める」ということを、社会における自分の役割だと自覚する大人になってくれると思う。
 
 
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