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「奴隷狩り目線」からの開放―NOセクハラ・YESエロス―

椎名林檎と「女ぎらい」からの解放 - 熊田一雄の日記
http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20110623/p2
 
 音楽家椎名林檎が、ファッション誌『Lips』(6月23日発売号/マガジンハウス)で“女性の生き方”について語っている。「本来、女性は誰もが変幻自在な存在だと思うんです。自分次第で何者にもなれるはずなのに、社会だったり男性の目線だったり、余計なことに捕らわれて不自由になりがち。それはもったいないと思う」と持論を展開する椎名は、先のことは分からない大変な時代だからこそ「思い切り我が侭に生きて欲しいなと思います」と提言する。

 「女性って20代までは大変ですよね」と語る椎名は、「意中の男性とかクライアントとか対象あっての存在という感じがするでしょう。『それやったらモテなくなるよ』みたいな情報に縛られて消耗してしまったり、正直で居られなくなる」。デビュー当時はスカートを履くことを拒否するほど「女性として中途半端に対象物になることへ抵抗していた」という彼女だが、30歳を過ぎる頃から素直に“女性である自分”を楽しめるようになったという。

うーん、私は実際のところ、椎名林檎という人が自身の女性性をどう捉えているのかは知らないけれど、これはかつて『「女」は捨てないけど「女像」は捨てるよ』という記事で書いた、「女としての自分は好きだけど、『女』の部分しか見ていない欲望の目線や、『女の子なんだから』という押しつけは大嫌いだ」という私のジレンマと似ているのではないかと思った。椎名林檎氏の場合も、「女ぎらい=自己嫌悪」からの開放ではなく、「社会だったり男性の目線だったり」からの開放なのではないだろうか。
 
私はエロ妄想が大好きだ。オナニーもけっこうやる。しかし、もし私が実社会でこのことを表明したらどうなるか。もちろん、同じ趣向の人が見つかって、共通の話題で盛り上がれるというのもあるだろうけど、実害もけっこうあるのだろうなぁと思う。私に関する他の要素を省いた「エロ女」としてしか見られなくなったり、勘違いした男から「俺でも良いんだな」と思われて、セクハラされることだってあるだろうしね。未だに「オナニーする女は欲求不満」という言説を信じている人いるしねぇ。ネット上ですら、「オナニーの話したらセクハラメールが来た」という体験を持つ女性は多い。
私はエロは大好きだけど、セクハラは大嫌いだ。欲求不満であろうがなかろうが、こういうタイプの男とするのは絶対に嫌だ。「好きな妄想でするオナニー>>>(越えられない壁)>>>好きでもない男とのセックス」に決まってる。そして、その勝手な思い込みを拒否すると「エロいことが好きって言ったじゃないか嘘つき!」と言われるんですねわかります。
この手の話になる度に思うのだけれど、「私はエロいことが好き」と言う女に対して、「じゃあ俺でも良いんだな」と思い込む男は、「私は服が好き」と言う人に対して、「じゃあ服なら何でも良いんだな」と、自分のどうでもいい古着をあげたりするんだろうか。
 

胸が大きくて得する事は何一つ無い
http://togetter.com/li/80752
 
生まれ持ったモノを呪っているのではなく、幻想を押し付けられる事を拒否しているのだ。「私」の身体を私は愛してますが?もー。

この一言に尽きる。しかし、これがわからない人が多いんだな。相手の体や性に対して勝手に幻想を押し付ける事を、「褒めてあげているのに」「むしろ欲情してあげなきゃ失礼」「求められ必要とされるだけマシ」って言う人(特にヘテロ男)多いしね。自分は褒めているつもりだから、相手が自分の「褒め言葉」を拒否すると、「素直に喜べば良いのに、喜べないということは、自分に劣等感を持っているんだな」と思い込んで、「そんなに自分を嫌うことないのに」などと言って下さる。「俺は君の魅力を見出してあげてるんだよ!」というつもりなのかもしれないが、こっちは痴漢やストーカーやセクハラオヤジに目を付けられたような気分だ。
 
例えば、筋骨隆々のスポーツ選手に「すごい筋肉だねぇ」と言う。よくある光景だ。自分を人間として、スポーツ選手として敬意を払って「すごい筋肉だねぇ」と言って来る相手に対しては、当のスポーツ選手もあまり悪い気はしないのではないだろうか。
しかし、奴隷狩りが「君は奴隷としての適性がある」という意味で「すごい筋肉だねぇ」と言った場合はどうか。これを喜ぶ人はまずいないだろう。しかも「どうして嫌がるの?褒めてあげてるんだよ。その筋肉なら奴隷として良い働きができるよ。俺、君みたいな奴隷が欲しいなぁ」「俺は君の奴隷としての才能を見出してあげてるんだよ!」なんて言った場合はどうか。
 
奴隷狩りは、相手の筋肉は自分たちのためにあるものであり、筋肉の持ち主自身のものであるとは考えない。筋肉を鍛えていながら、その筋肉を自分たちのために使うことを拒否し、当人自身のために筋肉を使う人に対して、「俺たちに筋肉を見せつけておきながら、奴隷にならないなんて!」と、勝手に裏切られたような気分を抱く。性欲を表明したり、セクシーな格好をする女が、自分の欲望や幻想を拒むと、「俺に性を見せつけておきながら、やらせてくれないなんて!」と、勝手に裏切られたような気分を抱く男、いっぱいいるよね。
性対象にしろ奴隷要員にしろ、相手の人格を無視して、己の欲望や願望を満たしてくれるかどうかでしか判断していない目線は不快だ。痴漢やストーカーやセクハラオヤジに目を付けられるのは、奴隷狩りに目を付けられるようなものだ。
 
筋肉は鍛えたいが、それをやると奴隷狩りから、「こいつは奴隷にしてもらいたがってるんだな」と勝手に思い込まれて目を付けられるというジレンマ。その思い込みを拒否すると、これまた勝手に「裏切られた!」「嘘つき!」とか言われて、的外れな恨みをぶつけられるジレンマ。かといって、奴隷狩りに目を付けられない振る舞いをする者は、奴隷制が当たり前の社会では「役立たず」「可愛げがない」「生意気」と言われるジレンマ(つまり『それやったらモテなくなるよ』だ)。
こういうジレンマが発生する原因は、全てが「奴隷狩り目線」だからだ。評価軸が「奴隷として適しているか適していないか」しかない。当人の自由意思が無視されている。このような「奴隷狩り目線」がまかり通っている環境では、人は自由かつ正直に生きることができない。
椎名林檎氏の言う「思い切り我が侭に生きて欲しいなと思います」の「我侭」とは、本当の意味での「我侭」ではなく、奴隷狩りが勝手に決めた尺度での「我侭」という意味なのだろう。
  
ちなみに私は、エロスでエレガンスなディタ・フォン・ティースのパフォーマンスが大好きです。
もっと日本で有名になれば良いと思うよ!(・∀・)

 
 
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