yuhka-unoの日記

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「自由か強制か」ではなく「自立か適応か」

Togetter - 「橋下府知事(t_ishin)の教育についてのツイをきっかけに乙武 洋匡さん(h_ototake)が「僕が教員時代に最も頭を悩ませた問題でもあった」とツイート」
http://togetter.com/li/147955

橋下知事の教育観に乙武氏が自問する、という内容なのだけれど、これって一見「自由か強制か」の話に見えるけど、本質は「自立か適応か」の話なんじゃないのかなぁと思う。
 

@t_ishin 橋下徹
人間の本能のままに生きられる人はごく一握りの才能ある特殊人間。普通の人は、本能と正反対のプレッシャーの中でストレスを感じながら生きていかざるを得ない。このストレスに耐えられるようにするのが教育。
http://twitter.com/#!/t_ishin/status/79772285501833217

もしかして橋下知事って、自由に生きるということを、本能のまま好き勝手に生きることと勘違いしてるんじゃないだろうか。実は、自由を使いこなすには、鍛えられた自立心と自制心が必要だ。
一方で、下っ端時代にストレスとプレッシャーの中で生きてきた人ほど、立場が上になるにつれ、それまで溜まっていた不満や怒りが噴出して、本能のまま傍若無人に振舞うようになる人が多い。こういう人の不満や怒りの噴出先は、かつて自分を押さえつけていた存在ではなく、自分より下の立場の者だ。『元いじめられっ子のいじめっ子』で書いたような、ある種体育会系のマッチョな集団で、上の者から下の者への「しごき」が伝統と化しているような社会のことだ。橋下知事のメンタリティは、かなり体育会的マッチョだと思う。
 
これまでの日本は、強制して適応させるようなやり方だった。親に、先生に、学校に、職場に、世間に、社会に自分を合わせるやり方は、少なくともバブル期までは良かった。良かったというよりは、上昇した雰囲気に弊害が覆い隠されて見えなくなっていたと言うべきか。不況の今の時代では、もう強制して適応させるやり方は通用しない。通用しなくなったから、鬱病やひきこもりや退職後欝という弊害が表に現れてきているのだ。
これからの子供たちに対する教育は、自立心と自制心を身につけさせ、自由を使いこなせる人間を育てる方向で行くべきだと思う。
 
これまでの日本は、多くの人が「世間のお墨付き」を求めていた。一番わかりやすい「世間のお墨付き」は、「良い学校に入り、良い会社に就職すれば、良い人生が歩める」というものだ。
なぜ人が「世間のお墨付き」を求めるのかというと、間違いや失敗が怖いからだ。世間は色々と、「こうすれば安心安全で幸福になれる」というものを言ってくる。だが、「世間のお墨付き」が与えてくれるものは、一時的な安心感とある種の優越感であって、実は本当の安全も幸福も与えてはくれない。「世間のお墨付き」を求めて失敗しても、世間は責任を取ってはくれない。
 
「世間のお墨付き」を求めるのではなく、「自分にとって何がベストなのか」という観点で生きることだ。そういう観点で生きるには、徹底して自分に向き合う必要がある。とはいえ、人間自分のことは自分でもよくわからないので、間違いや失敗をすることもある。しかし、「世間のお墨付き」を求めていても、どうせ間違いや失敗はあるのだ。「世間のお墨付き」を求めている人は、間違いや失敗が怖いのだから、失敗した時の覚悟がない。失敗した時に「こんなはずじゃなかった」という気分になる。
「世間のお墨付き」を求めず、間違いや失敗を覚悟して「自分にとって何がベストなのか」という観点で、自分の人生を切り開いていく。それが自由ということだ。だから自由はそんなに甘いものではない。
 
適応した人間は、一見とても上手く人生を歩んでいるように見えることがある。ともすると自立的に見えることすらある。高度に発達した適応は自立と区別がつかない。しかし、適応した人間の心の奥底には、抑圧された甘えの願望があり、また他人に対しても抑圧的な面がある。
「自分にとって何がベストなのか」という観点で生きている人は、「相手にとって何がベストなのか」を考えられる人だ。しかし、適応した人間は、自分個人の意見に過ぎないものを「これが常識」「普通はこうする」と言って押し付ける。そして、自分に従わないだけの者を「世間に反した非常識な人」と認識する。
 
「自分で考えて行動できる人間になって欲しい」という言葉を、自立した人間は「常識に囚われず、集団から独立した視点を持って欲しい」という意味で言い、適応した人間は「こちらが何も言わなくても、こちらの思い通りに動いて欲しい」という意味で言う。

@daijapan 為末 大
ある世代以上のスポーツ指導者層は、従順を謙虚と呼び、同調をチームワークと呼び、盲目的追従を素直と呼ぶ人が多い
http://twitter.com/#!/daijapan/status/32605083157929984

適応した人間は、自分より上の立場の者には「自分を認めて下さい」という態度で接するが、自分より下の立場の者には「自分を認めなさい」という態度で接する。適応した人間が心の奥底に押し込めている甘えの願望は、このような形で噴出する。
私は前回、『自立とは、自分の心の赤ちゃんのお守りを自分ですること』という記事を書いたが、こういう人は、自分で自分の「甘えたい」という願望をケアできず、無意識に他人に押し付ける。
 
ひきこもりのようにおかしくなってしまった子供を、「甘やかされて育ったんだろう」で片付けて思考停止してしまっている人は多い。おそらく橋下知事もそうだと思うが。しかし、実態はそれほど単純なものではない。むしろ、親に十分に甘えられず愛情不足で育ったことによってひきこもりになる例は多い。

閉じこもってしまった人は、生活も対人関係のルールもめちゃくちゃになってしまっていることが多いので、「基本的なしつけもできていない」と見られがちですが、事実は逆です。幼い頃からマナーやルールを守るよう親からやかましくいわれて、本人も「守らなければいけない」と頑張りすぎた人がとても多いのです。

http://blog.goo.ne.jp/rw_hisako/e/3315abe2f137b756bd1d24b34dc261ab

甘やかされて育った人も脆いが、甘えさせてもらえずに育った人も脆い。愛情がないということは、挫けそうになった時の心の支えがないということだ。まず愛情という土台を作っておかなければ、躾という建物は立たない。
愛情不足で育った人は、「甘えたい」という願望が十分に満たされていないため、大人になってからも、「甘えたい」という願望を満たしてくれる存在を求めるようになる。そのため、他人にコントロールされるか、他人をコントロールするかの関係になってしまいがちだ。
 
また、『甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち』でも述べたが、虐待関係にある親子が、一見すると普通の親子より仲良く見える、ともすると親が子供を甘やかしているようにさえ見えることも珍しくない。これは、親が子供に、自分の与えるものは必ず受け取って喜ぶよう強要しているからだ。例えるなら、「俺の酒が飲めないのか!」と言う上司である。
「俺の酒が飲めないのか!」と言う上司のような親を持ってしまった子供は、自分にとって受け入れたくないものでもニコニコして受け入れ、必死に親のご機嫌取りをするしかなくなる。「キレる良い子」とは、親にとって都合の良い子、不満が圧殺された子のことだ。
こういう親子関係は、傍から見ても表面上は仲の良い親子に見えるが、当の親自身も、自分と子供の間には何の問題も無く、むしろ自分は他の親より良い親だと思い込んでいる。「俺の酒が飲めないのか!」と言う上司が、自分自身を良い上司だと思い込んでいるように。
 
ちなみに、とても良い人に見える人が子供を抑圧するケースもある。これは、根っからの思いやりで他人に親切にする人と、他人に嫌われるのを恐れて親切にする人との違いだ。前者タイプの親は、他人に対しても自分の子供に対しても思いやりを持って接する。しかし、後者タイプの親は、家の外の人に対しては親切そうに振舞うが、自分の子供に対して親切とは限らない。
上記「適応した人間は、自分より上の立場の者には『自分を認めて下さい』という態度で接するが、自分より下の立場の者には『自分を認めなさい』という態度で接する。」とは、つまりはこういうことだ。
 
「甘やかされて育ったんだろう」で思考停止してしまうのは、そういうことにしておきたい大人の「きれいごと」だ。子供の話をよく聞いてやり、適切に愛情を注ぐのは手間がかかる。強制するほうがずっと簡単だ。なぜなら、子供の話をよく聞くということは、子供から自己反省を迫られるということだからだ。強制していれば、それで子供がおかしくなっても、「お前の根性が足りないからだ」と、子供のせいにしてしまえば、子供から自己反省を迫られずに済む。「甘やかされて育ったんだろう」で思考停止するのも、自己反省からの逃避だ。「社会を知らない子供のお前に、社会を知ってる大人の俺が、社会の厳しさを教えてやるよ」という優越感も満たせて美味しい。
実は、橋下知事の一連のツィートを読んでまっ先に思い浮かんだのが、『社会に出たら病』だった。もしかしたら橋下知事は、かなり抑圧された子供時代を過ごしてしまったのではないだろうか。強制的な育てられ方をした人は、子供の自由が許せない。
 
私は、大人になることは自由になることだと思っている。「子供の頃は自由で良かった」と言う大人は多いが、子供の頃の自由など、所詮、たまたま自分の親が、自分を入れておく鳥籠を広めに設定してくれていただけに過ぎない。親によっては、非常に狭い鳥籠の中に子供を押し込める親もいる。
大人になるということは、鳥かごの外に出て生きていくということだ。だから教育とは、子供に鳥かごの外で生きていく術を身に付けさせるということだ。狭い鳥籠の中に押し込められた子供は、飛び方を身につけられない。なので、「世間のお墨付き」という名の鳥籠の中に自ら入って、自由を捨てる代わりに、かりそめの安心感と優越感を得る。そして、自由に空を飛ぶ者に対して、「自分はこんなに我慢して頑張ってるのに、あいつらは好き勝手しやがって!」という嫉妬心を募らせ、足を引っ張って自分たちと同じ鳥籠の中に引きずり込もうとする。
 
こういう人たちは、これから育つ子供たちにも嫉妬している。子供が自由に飛ぼうとするのを妨げ、自分たちと同じ鳥籠の中に押し込め、鳥籠の中で生きることこそが幸せなのだと、子供を洗脳しようとする。こういうことを「教育」「あなたのために」「あなたが心配で」の名のもとに行う。だが本当の目的は、子供を自分の自己肯定のための道具にすることだ。
自分の人生に不満を持っているが、その不満に真正面から向き合えていない親は、子供に自分と同じような人生を歩ませ、その人生を子供が幸せだと思うことによって、自分の人生はこれで良いのだと確認したがる。子供に自分の人生のお墨付きになって欲しいのだ。
子供の性質がたまたま合致していたなら幸運だが、そうでない場合は悲劇だ。ひきこもりやキレる良い子はこうして出来上がる。もっとも、子供の性質が合致していた場合も、子供の子供に問題が先送りにされるのだが。
自分で勝手に鳥籠に入っているだけなら良いのだが、他人を巻き込まないで欲しいものだ。
 
 
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