yuhka-unoの日記

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自立とは、自分の心の赤ちゃんのお守りを自分ですること

愛国心と赤ちゃん願望』でも述べたが、人は「誰からも愛されたい。誰からも受け入れられたい。誰からも特別扱いされたい。誰からも否定されたくない。誰もが自分の望み通りに動いて欲しい。」という願望(幼児的万能感)を、多かれ少なかれ誰でも持っている。食欲・睡眠欲・排泄欲が身体の根源的な欲求とするならば、この願望は精神の根源的な欲求だろう。
この願望は、例えて言うなら自分の心の中の赤ちゃんだ。心という家の中に、大人の自分(理性)と赤ちゃんの自分(感情)が一緒に住んでいるようなものだ。
 
精神的に自立するということはつまり、自分の心の赤ちゃんのお守りを自分でできるようになるということだ。赤ちゃんの話をよく聞いてやり、落ち込んでいたら抱き締めて慰めてやり、怒りを抱いていたら適切に発散できるよう取り計らう。
たまには、誰かに慰めてもらったり励ましてもらったりと、赤ちゃんの世話を他人に手伝ってもらうこともあるが、その場合にも適切な方法が取れるということ。そして、他人に手伝ってもらったとしても、自分の赤ちゃんの世話をするのは、基本的には自分であることに変わりはない。
真に理性的な人とは、自分の感情を認識し、向き合える人のことだ。
 
精神的に自立できていない人は、自分で心の赤ちゃんのお守りができないので、他人に赤ちゃんの世話を押し付けることになる。
感情が噴出していながら、自分のことを理性的で自立していると言い張る人は、自分の心の赤ちゃんの存在を認識していない。認識していないから、育児放棄状態である。育児放棄された赤ちゃんは、いつまでも泣きわめいて暴れる。その結果他人に迷惑をかけることになり、他人からそのことを指摘されても、こういう人は「うちには大人の自分しかいない!赤ちゃんなんていない!」と言い張る。
「論理的=格好良い・感情的=格好悪い」という価値観に取り付かれた人ほど、自分の心の赤ちゃんを育児放棄して、無意識に感情をまき散らしている人が多い。
 
自分の中の「甘えたい」という願望に無自覚な人は、他人に押し付ける形で甘えるようになる。しかも大抵自分より下の立場の人間を支配しコントロールする形で甘える。自分の甘えを正当化するために、様々な理屈をこねるようになる。
わかりやすいところで言うと、自分が親だというだけで子供に感謝される権利があると思い込んだり、自分のほうが地位や年が上だというだけで、目下の者から尊敬される権利があると思い込んだりするような甘え方だ。
こうなると、本当は自分がわがままなのに、自分がわがままだとは思わず、自分は当然のことを言っていて、自分の言うことを聞き入れない相手がわがままなのだと思い込む。そう思い込んでいるのだから、相手に際限なく甘え続けて感謝もしない。

甘え下手で要求をしないのならば、それだけなのですが、それを
「○○すべき」と話をすり替えるわけです。

これは、自分の責任で要求するのではなく、社会規範や正しさを
ふりかざす、つまり他人の要求の形で自分の要求をする、ずるい
やりかたです。つまり責任転嫁です。
http://www.556health.com/archives/2009/06/070.html

こういうことを続けていると、自分自身に向き合うことからはどんどん遠ざかるが、自分の甘えを正当化することだけはどんどん上手くなる。
 
子供は、自分が「甘えたい」という欲求を抱いていることを自覚しているので、素直に甘えることができる。だが大人になるにつれ、いい年して「甘えたい」という欲求を持つことが恥ずかしいことなのではないかと思えてくる。そして、「甘えたい」という欲求を無自覚の奥底に押し込めるようになっていく。そこがやっかいだ。
本来「甘えたい」という欲求を持つこと自体は恥ではない。誰にだってそういう欲求があるのだから。「甘えたい」という欲求に無自覚で、無自覚ゆえに他人を抑圧することが恥なのだ。大人になるということは、「甘えたい」という欲求がなくなることではなく、「甘えたい」という欲求を自分でケアできるようになるということだ。
無自覚ゆえに他人を抑圧するくらいなら、いっそ自覚して素直に甘えてしまったほうが良い。自分より下の人間を追い詰めるような形でわがままをまき散らし、際限なく甘えて感謝もしないよりは、自分より上の立場の人、精神的余裕のある人に、相手に負担にならない範囲で甘え、甘えさせてもらったら感謝する、というふうにしたほうが良い。