yuhka-unoの日記

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社会が押し付ける「良い親であれ」というプレッシャー

「もしも、自分が障害のある子を授かったら....みなさんはどう思いますか」・・乙武(h_ototake)さんの連続ツイート - Togetter

 
これは障害児だけでなく、広く「虐待」というものを考えさせられるテーマだ。
結論から言うと、私は乙武氏のスタンスに疑問を持っている。なぜなら、子供を虐待する親のパターンとして、「良い親でありたい」という気持ちが強い人が多いからだ。だから、このような「良い親になってください」という形の呼び掛けは、逆に危険なのではないかと思う。

なぜ虐待は起こる?
1 育児についての理想が高い:
  意外なことに子どもを虐待してしまう養育者(特に母親)の多くは、「良い親でありたい」という気持ちが強い人達です。
  そのためにかえって子どもの発達や「しつけ」について高い理想を持ち、その理想どおりにいかない現実の子育てにいらだちます。
  さらに、「こんなことではいけない」と自分を責めることで自分自身を追いつめ、気持ちのゆとりを無くしてしまう傾向があります。

 
「もしも子供を授かったら、受け入れよう」そんなこと、ほとんどの人がそう思っているだろう。ところが、いざ子供が生まれてみると、子供を受け入れられない。子供が可愛いと思えない。それは欠点だらけの完璧でない一人の人間として、誰にでも有り得る話だ。
「もしも子供が授かったら」という視点で考えるのでは、不十分だと思う。「もしも子供を授かって、受け入れられなかったら、可愛いと思えなかったら」という視点が必要だ。子供を受け入れられたほうが良いということぐらい、受け入れられないと悩む親自身もわかっているだろう。
児童虐待のニュースを見て、子供を産んで育てたわけでもないのに、「自分の子供を可愛いと思えないなんて、信じられない!」と言う人がいる。しかし、自分がいざ子供を産んでみて、子供を可愛いと思えて、きちんと子育てができる保証なんてどこにもない。やったこともないのにできるつもりでいる。そんなものは、何の裏付けもない「素晴らしい自分像」に過ぎない。
 
本当は子供を受け入れらてないのに「子供を受け入れ愛する親」のつもりになっている親と、子供を受け入れられない自分を自覚しつつ、悩みながら受け入れようと努力する親とでは、後者のほうが子供にとってはずっとマシだ。
子供を虐待する親は、ともすれば、他の親よりも良い親のつもりでいることがある。誰よりも子供を愛し子供を思う親のつもりでいる。自己イメージと現実の自分が剥離しているのだ。
私が、児童虐待のニュースを見て「子供を虐待するなんて、信じられない!」と言う人に対して不安感を感じるのは、そういう理由だ。なぜ虐待に至ったのかを考え、「虐待は自分もしてしまうかもしれないものだ」と考える人のほうが、ずっと安心だ。
 
この社会には、自分が障害者を受け入れているわけでもないのに、障害者の家族に「明るく優しく幸せな障害者の家族像」を押し付ける人が沢山いる。おそらく、「明るく優しく幸せな障害者の家族像」を押し付けられた親御さんは、そういう親にならなければならないというプレッシャーを感じるだろう。ここで、子供を虐待する親のパターンとして、「良い親でありたい」という気持ちが強い人が多いという問題が起こる。加害構造が「社会→親→子供」になっている。親だけの責任ではない。
 
4歳の発達障害児を殺してしまった母親の件を思い出した。あの母親は確か、「子供を受け入れられない」「障害を受け入れる明るいお母さんになりたい」というようなことを言っていた。
あの時私は、「最初から『障害を受け入れる明るいお母さん』になれるなんて、どんなスーパーお母さんだよ!」と思った。最初からそんなスーパーお母さんになれる人のほうが、珍しいんじゃないのか。
いきなり「良い親」にならなければいけないと思ってしまったのだろうか。大抵の人は、受け入れられないと悩みながら、努力しながら、色々乗り越えて、「良い親」に近付いていくものだと思う。最初から「良い親」になれる人なんて、そんなにいない。
あの母親は、この社会が押し付ける「明るく優しく幸せな障害者の家族像」に、押し潰されてしまったのだろうか。
 
「子供が可愛いと思えないなんて、信じられない!」「子供のことを受け入れてあげて!」と言っている社会と、「子供が可愛いと思えない時だってあるよね」「受け入れられないことだってあるよ」と言っている社会とでは、どちらが親にとって助けを求めやすい社会だろうか。
社会に向かって良い顔をしようとする親は、そのストレスの捌け口を子供に向ける。社会に向けて吐き出せる親は、子供に向かうストレスを減らせる。だから社会は、親の吐き出し口としての役割を担わなければならない。親に対して「こちらに常に良い顔を向けいていろ」と要求する社会は、間接的に児童虐待に加担している。
 
「いっそのこと、子供を殺してしまいたいと思う時がある」というのも、親としての現実だろう。親がこういうことを言った時に「酷い親だ」と叩く社会では、親は社会に助けを求められない。
「酷い親だ」と叩くのは、「私はあんな親とは違う」と思いたいからだろう。「私はあんな親とは違う。だから私は虐待をしないし、していない」と思うその根拠は、どこにあるのだろう。私の親も、勉強や習い事などで子供を縛り付ける他所の家庭と比べて、「私はあんな親とは違う」と思っていた。実際はそれほど違わなかったのだが。
虐待は、特に酷い、狂った親がするものだと思い込み、私はあんな親とは違うと思って、勝手に安心してしまわないでほしい。虐待は誰でもする可能性があるものだ。そう認識することが、悩みを抱えた親が助けを求める心理的ハードルを下げることに繋がる。社会に住む一人一人が認識を改めるのも、虐待防止に貢献することだ。

なぜ虐待は起こる?
2 周囲の援助を求めることが苦手:
  核家族化によりただでさえ孤立しがちな現状の中で、特に周囲との関係を作ることが苦手な人が虐待に向かう傾向が多いようです。
  周囲の援助を求めるためには、自分も気持ちを開いて悩みや弱さを相手にさらけださなければなりませんが、それは簡単に出来ることではありません。
  これは、自分の弱さをさらけ出したときに相手から軽蔑されたり、援助を拒まれることをおそれる気持ちが原因になっています。まして、自分が虐待しているという事実をうち明けることは大変勇気がいることです。

 
「障害者を受け入れるキレイなワタシ」という自己イメージを持つよりも、「本当に全ての障害者を受け入れることができるのか」と自分自身に問いかけるほうが良いと思う。虐待親も、自分が後生大事に抱いている「良い親」という自己イメージを捨てて、自分の醜い部分を認めないことには、本当に良い親にはなれないからだ。自分の醜い部分を認めてはじめてスタート地点に立てる。そこから一歩づつ、地に足をつけて、本当に良い親になっていくのだ。
「障害者を受け入れるキレイなワタシ」という自己イメージを抱いてしまった人は、厳しいことを言うと、子供を虐待する親になる素質がある。そして、このような人は珍しくない。だから虐待は珍しいことではない。誰でもする可能性があるものだ。人間は誰だって、自分のことを「良い人」だと思っていたいものだから。もちろん私も。
 
 
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