yuhka-unoの日記

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あがり症と心の傷

私が通っていた中学校では、音楽のテストを期末に実施していて、実技試験と筆記試験に分かれていた。実技試験は、クラスの皆の前で歌を歌ったりリコーダーを演奏したりという内容のもので、当時いじめられていて、クラスのほぼ全員から無視されていた私にとっては、非常にハードルの高いものだった。いじめられている人間にとって、その環境下で人前で何かするというのは、いわば「見せしめ状態」になるわけだ。
 
私は、歌は特別音痴でも特別上手くもなく、おそらく十人並だと思うのだが、楽器演奏が苦手で、それでも音楽のテストがある日までは、何とか通して演奏できるようになるまでは練習した。
でもやはり、本番になると、いつもぐちゃぐちゃになってしまった。皆、普段は無視するくせに、私が人前で何かやる時はクスクス笑うのだ。こういう時は、皆ある程度は緊張していて、声は小さくなるし、音は控えめになるのだけれど、私の緊張の質と度合いは、そういうものではなかった。
音楽の先生は、本番で全く上手くできない私の番が終わった時、「こうやって人前で何かするということも、将来必要なことだから」と言った。おそらくそれが先生の意図というか、教育方針なのだろう。確かに、それはそうかもしれない。大人になったら、緊張を乗り越えて、皆の前で何かやる機会は多いのだから。
しかし、いじめられている環境下で、はたしてこれが当てはまるのだろうか。私に関しては、逆効果だったように思う。
 
いじめは中学一年生の頃が最も酷く、そして最も酷い担任に当たった時だった。一週間ほど抗議的意味を込めて登校拒否した後、保健室で過ごしていた私に、担任教師は、クラスの皆の前で話をするように言ってきた。「言いたいことを言ってすっきりして来たら良い」という趣旨らしい。聞けば、その場に担任教師は立ち会わないという。私は「吊るし上げ」という結果の予想がついたので、嫌だと言った。
当時所属していた部活の顧問の先生から、「手紙を書いて渡して、先生に皆の前で読んでもらったら」という提案を受けて、それなら良いと思い、手紙を書いて渡したのだが、担任教師は聞き入れず、無神経な無邪気さで「真剣に話せば、皆ちゃんと聞いてくれる」と信じきっていた。
結局、私は担任不在の状況で、クラスの皆の前で一人で話をするということになり、結果は私の懸念していた通りになって、その時の状況は、最も酷いいじめの出来事として記憶に残ることとなった。
 
これらの出来事が原因で、私はあがり症になり、人前で何かをするということが非常に苦手になった。それはやはり自分でも何とかしたかったので、本番前に人一倍沢山練習するというやり方で、あがり症を乗り切ろうとしていた。
ある日、心理系のサイトを巡っている時に、偶然下のページにたどり着いた。

疾病利得(しっぺいりとく) ( 心理百科事典 ) | ピュアハート・カウンセリング
 
そこにあるのは、失敗を恐れる弱い心があるわけではありません。

そこには、失敗が許されなかった過去の事情があるだけです。

もっと正確に言うと

失敗して苦しい気持ちになったときに、身近な人に気持ちを大丈夫にしてもらえなかった

という経験から来るイメージがあるだけなのです。

 
なるほど、私が人前で緊張するのは、あの時、辛い気持ちを一人で耐えるしかなかったからなのか。「見せしめ状態」になった後、誰かに辛い気持ちを受け止めてもらえていたら、まだマシだったのかもしれないな。
そう思った私は、中学生の頃の自分に戻って、わーっと泣いてみた。泣きながら、心の中で、自分自身に「辛かったね。悔しかったね。よく頑張ったね」と言ってみた。私はあの時、こういうふうに声をかけて慰めてくれる大人が必要だったのだ。
これであがり症が治ったわけではないけれど、少しだけ心の傷が軽くなったような気がした。
 
あがり症の人にプレッシャーをかけるのは、かえって逆効果だと思う。そもそも、プレッシャーを過剰に感じるのがあがり症の原因なのだから。昔、いつも上手く発表ができない私に、「絶対ここ失敗しないで。ちゃんとやって」と言ってきた人がいたが、その時は、まぁ見事に大失敗をやらかした。もちろん、本番前に練習するということは大事なのだけれど、私の場合、本番では逆に開き直ったほうが上手くいく場合が多い。
仕事ができない「過真面目」な人について』でも似たようなことを書いたが、緊張度が高いから失敗してしまう人に、緊張度を上げるようなことをするのは逆効果だ。逆にリラックスしてテキトーになり、緊張度を下げるようにするのが良いのだろう。