yuhka-unoの日記

旧はてなダイアリー(http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/)からの移行

いち若者の立場から、若者が何も主張しない理由を主張してみる

格差と若者の非活動性について (内田樹の研究室)
 
Q1.現在、世界では、経済格差(世代間格差ではなく、金持ちとそうではない人との格差)や社会への不満に対して、多くの若者たちが声を上げ、デモを起こし、自分たちの意見を社会に訴えようと行動しています。翻って日本ではここ数十年、目に見える形での若者の社会的行動はほとんど見られません。これだけ若者たちにしわ寄せが行く社会になっているのに、そして政策的にも若年層に不利な方向で進んでいるのに、若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのでしょうか? それは特に不満を感じていないからなのか、それともそうした行動に対して冷めているのか。あるいは社会的に連帯するという行為ができないのか。ネットにはけ口が向かっているだけなのか。内田さんはどのようにお考えでしょうか? 

 
なぜ若者が何も言わないのか? 答えは単純。「言っても無駄だと思っているから」。
過去にブログで何度か書いたけれども、私の育った家庭は機能不全家庭で、家庭の抱える問題のしわ寄せが私に来る構造になっていた。そういう環境で育った私から見ると、今の日本社会の構造は機能不全家庭そっくりだ。そういう家庭に育った子供は親に主張しない。言っても無駄だと思っているから。この国はいわば機能不全社会なのだ。
 
機能不全家庭の親は、自分が子供にしてあげたことはよく覚えていて、過大評価する一方で、自分が子供に与えた悪影響は、過小評価するか、記憶から削除する。自分がうまくいかない原因を子供のせいにする。子供のことを勝手に決めつけ、一方的に評価し判断し、子供の気持ちを無視し続けておいて、いよいよ子供との関係に問題が表れると、「子供が何も言ってくれない!子供のことが何もわからない!」と言う。これでは子供が親に何か言おうという気になるわけがない。今の若者もこれと同じだ。
そういう段階になった時に、親が取りがちな行動としては、まず、「努力が足らん!根性が足らん!」「せっかく育ててやったのに!」と、あからさまに子供のせいにする方向がある。これは非常にわかりやすい。もう一つは、あからさまに子供のせいにするのは親として良くないという意識は辛うじてあるので、子供のことなど何もわかっていないのに、「私はあなたの味方よ」というポーズを取る方向がある。これは、子供のことを理解するよりも、「良い親でありたい」という欲望のほうがまだ優先されている状態だ。若者のことをわかっていない年長者も、だいたいこの二つのタイプに分けられるのではないかと思う。
 
今現在「若者」と言われている世代のうち、上のほうは、酒鬼薔薇聖斗や17歳少年バスジャック事件などの少年犯罪が、マスコミでセンセーショナルに報道され、「17歳が危ない」「キレる良い子」などと言われ、犯罪者予備軍扱いされた世代だ。下のほうは「ゆとり世代」で、私の認識では、学力が低下した世代というよりは、大人たちから「ダメだダメだ」と言われて育った世代だ。
人は普通、自分より立場の強い人間が、自分のことを最初から「ダメ人間」と見なしてくる場合、本心を隠して適当にやり過ごすという対応をするものだ。生き生きと自分の考えを語ったり、伸び伸びと自分の実力を発揮したりするのは、その人がいなくなったのを見計らってからだ。若者のことを「ダメ人間」と見なして叩いてきた年長者の目に見える場所でなど、社会的活動をするわけがない。本心を隠して適当にやり過ごすのみである。人間は誰だって、自分の考えを聞いてくれそうな人にしか、なかなか本音を話そうとはしない。当たり前のことだ。
自分の自己満足のために無意識に部下を抑圧する「ダメ上司」を思い浮かべてみて欲しい。個人レベルではともかく、社会全体レベルでの年長者の態度とは、そのような「ダメ上司」と同じだった。もし若者が本当にダメになってしまっているとしたら、その最大の原因は、学習指導要領にあるのではなく、若者を勝手に決めつけて一方的に評価し判断し叩いてきた、年長者の態度にある。
 
ネットの可視化、リアルの不可視化―近頃の若者の「わからなさ」について―』でも取り上げた、2011年1月10日の成人の日の朝日新聞の社説だが、

成人の日の社説がウザい件 - テラの多事寸評
 
 しかし電車でゲームや携帯に没頭する君たちを見ると大丈夫か、と心配が先に立つ。世間の情勢を知れば、暗くなるからと、現実から目をそむけているのではないかと疑いたくもなる。

 年配者の杞憂(きゆう)であれば幸いだ。

これを読んで私が思ったことは、「ご自身が世間の情勢に不安感をお感じになるのはわかりますが、それを若者にぶつけないで頂けますか。現実から目をそむけたいのは、貴方のほうなのではありませんか」だった。
もしかしたら、物心ついた頃には既に不況で、それが現実だった私の世代よりも、今日より明日のほうが良くなる、未来は明るいと信じていた年長者世代のほうが、「こんなはずじゃなかった」感が強いのかもしれないが。
現代の若者は、年長者の社会不安の「受け皿」としても機能している。経済的な面だけでなく、心理的な面でも、若者世代にしわ寄せが行っている。
 
内田樹氏が「解毒」の責任を感じて下さっているのは、まぁお気持ちはそこそこ嬉しいのだけれども、現実には、その「社会的責任」は果たされずに、そのまんま若者の問題として下りてくるのだろうと思っている。今の日本が抱えているもろもろの問題も、ここであえていちいち列挙しないけれども、前々から「何とかしなければ」と声は上がっているものの、そのまんま何ともならずに、若者に下りて来るのだろうと思っている。
だから若者は、この国で生きていく限りは、それらの問題を背負い込む現実を受け入れないといけないし、できるだけ次の世代への連鎖を食い止めないといけない。
そういう意味では、日本は本当に機能不全社会なのだ。機能不全家庭に育った子供は、親が変わってくれることを期待するのを諦めて、親に働きかけるのをやめて、親に向けるエネルギーと時間を、自分自身を何とかしていくために使ったほうが良いと悟るようになる。それと同じことが起きているだけだ。
 
もちろん、個人レベルでは、若者のことを理解してくれる年長者もいるし、そういう人は有難いのだけれど、社会全体レベルではどうだろうか。現実には若者にしわ寄せが行くようになっているのだから、つまりはまぁ、そういうことなのだろう。私は、どの世代でも自分が可愛い人間は一定数いて、その割合は大して変わらないと思っている。自分が可愛いのは若者世代だって同じなのだから、しょうがないよね。
それでも私は、自分の世代に原因がないことで叩かれる体験してきたので、自分より下の世代には、せめて同じことはするまいと思っている。団塊世代を叩きながら、ゆとり世代を叩く人がいるが、そういう人は若くして既に老害だ。
 
ちなみに、最近の若者の行動パターンとしてよく言われる「自分から行動しない」「黙っていて言われたことしかしない」は、甘やかされた子供だけでなく、虐待された子供の特徴でもある。自分の判断能力を否定されて育った子供は、このような行動パターンを身に付けるようになる。
 

親が子どもの話を聴く力の度合いに応じて、子どもは親に話を持って来てくれるかどうかが決まるのです。お子さんが不適応になった場合に親御さんがよく言われるのが、「子どもが何も話してくれない。どうしてこんなになったかわからない。だからどうしていいかさっぱりわからない。」というようなことを言われます。
(中略)
その中でも、非常に大事なことの1つが、『親が聴かないから子どもが何も言ってくれないのである』ということです。『子どもが親に何も話さないのではなくて、その前に、子どもの話に耳を貸さない親がいるだけだ。』ということが解ってきました。だから、「親が子どもの話を聴く力をつけるにつれて、子どもは沢山話してくれる。」、「親の聴く力は常に子どもから試されている。」ということです。
http://www.ijimesos.com/toraumakaeshi.htm

 
まぁそれでも、私は今の時代に生まれて良かったと思っている。いくら景気が良くても、今よりジェンダー観が固定的で、セクハラパワハラアルハラが酷くて、「いじめられるほうが悪い」という言説がまかり通り、「外国は児童虐待が酷い。日本は家族を大切にするからそんなことはない」と無邪気に信じて児童虐待を見過ごしてきた時代より、今の時代のほうがずっとマシだ。そういう面では非常に恩恵を受けているし、そういうことを頑張ってきた年長者には感謝している。
 
 
[追記]

続きを書きました。
若者は何も言わず、ただ去るのみ
 
 
【関連記事】
本音では、自分で判断することを許していない教育者たち
「生きる力」とは、自分の人生を自分で決めていく力