「俺を傷つけないような言い方をしろよぉ!」という、抑圧者の甘え
「ベビーカーで電車の乗るな」という傲慢さ!それなら他人が産んだ子に将来の年金や社会福祉の負担を押しつけるな | 川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」 | 現代ビジネス
どちらの記事についても、「言い方が悪い」「書き方が不快」「憎悪に満ちている」などのブコメがついているが、ああこれは典型的な差別あるあるだな、と思った。まずそもそも、マジョリティのマイノリティに対する抑圧があるせいで、マイノリティが不快な思いをさせられたり苦痛に耐えたりしてきて、マジョリティに対する「配慮」を強いられ続けてきたにも関わらず、そこをすっ飛ばして、「俺らを悪く言う被害を感じる」とは、典型的な差別あるあるだ。こういった差別あるある的態度を取る人は、これまで自分たちがマイノリティにしてきたことを丸ごと無視して、今現在、マイノリティから責められているということだけを感じて、被害者意識を持つ。
世間によくある、「男性は自尊心を傷つけられたくない生き物だから、女性は配慮してあげて」という言説は、白人が黒人に対して、「白人は自尊心を傷つけられたくない生き物だから、黒人は配慮してあげて」と言うようなものだ。女性だって黒人だって、自尊心は傷つけられたくないに決まっている。彼らが言っていることは、つまりこうこうことだ。「俺たちはお前たちを傷つけるが、お前たちは俺たちを傷つけてはならない」。
そもそも、こういった反応をする人たちは、自分たちが抑圧してきたことや傷つけてきたことに対する自覚があまりないのだろう。それは、前回のエントリ『犯罪行為であるという意識が希薄になる空間について』で書いたような、加害者側の無自覚さがあると思う。その抑圧が存在することが「普通」の状態になっている空間では、抑圧する側は、自分たちが抑圧しているという意識が希薄になるものだ。
こういった、被害者側や抑圧されている側が配慮や権利を主張する場合、なぜか被害者や抑圧されている側が「感情的」だと見なされるが、それもそのはずで、加害者側や抑圧する側というのは、ストレスなく精神が追い詰められずにいられる立場を享受できているからだ。ブラック企業に追い詰められて心身を壊した人には「冷静」になれる余裕がないが、ブラック企業の経営者は「冷静」でいられる。だが、「俺を傷つけないような言い方をしろよぉ!」という甘えた心性は、十分に感情的だ。
虐待や機能不全家庭やアダルトチルドレンの分野で、バイブル的な存在となっているものに、「毒になる親(スーザン・フォワード著)」という本がある。ネット上では、子供を追い詰める親のことが、この本のタイトルから「毒親」と呼ばれている。
私は、このブログの中で、機能不全家庭の構造は、そのまま組織や社会に当てはめることができると言って来た。「毒親」の概念も、そのまま「社会的毒親」として当てはめることができると思う。「社会的毒親」とは、子供や若者などの次世代を大事にしようとせず、それどころか、次世代をバッシングすることで自分の憂さを晴らす。にもかかわらず、将来、次世代に見捨てられる覚悟はなく、次世代に養ってもらって当然と思っている、毒親のような大人のことだ。この「社会的毒親」は、いわゆる「老害」と親和性が高い。
私が「老害」たちを見ていて思ったことは、たとえ自分で子供を育てていなくても、ある程度の年齢になったら、社会的には「親」なんだな、ということだった。老害を叩いている若者でも、子供たちに対しては、社会的な親としての責任があるのだ。ベビーカーに乗っている子供に対して、社会的な親としての責任を放棄するようでは、たとえ20代の若者でも、それは老害だと思う。
実際、「俺を傷つけないような言い方をしろよぉ!」という抑圧者の態度は、毒親の態度としては非常にありがちなのだ。それまで子供に対して、一方的に自分に対する理解と配慮を求め続け、自分は子供に対しては理解も配慮も満足にしてこなかった親に限って、子供がそれについて親に訴えると、子供の傷つきを考えるより先に「子供に攻撃されている!」と受け取り、なお自分への配慮を求める。こういう親の元では、子供はいつも親を「あやして」あげなければならなくなる。
親子間の虐待も、夫婦間の抑圧も、社会の中のマジョリティとマイノリティの関係性も、同じ構造なのだ。いずれも、力関係の強い者と弱い者との間で起こることで、「俺を傷つけないような言い方をしろよぉ!」という態度は、無意識な抑圧者が取る典型的な態度だ。
私は、虐待は「異常な、特にひどい親」だけがするものではなく、普通の親も十分にする可能性のあるものだと言っているのは、ここにも理由がある。子供を追い詰める親がする行為を、社会の中で、普通の人たちが普通にしているからだ。