yuhka-unoの日記

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他者を使った自己肯定―子供に自分と同じ人生を歩ませたい親―

自分は実際のところ、不幸で不本意な人生を歩んでしまっている。しかし、今更自分は不本意な人生を歩んでしまったとは認めたくない。認めるのはあまりにも酷だ。自分の人生は幸せだったのだと思いたい。
このような親の中には、子供に自分と同じような人生を歩ませようとする親がいる。子供に自分と同じ人生を歩んで欲しい、そしてそれを子供自身が幸せだと思って欲しいという願望を持っている。そういう子供を見て、自分の人生は間違っていない、自分の人生は幸せだと確認したいのだ。
これは、子供を使った自己肯定だ。このような子供は、子供自身のためではなく親のための人生を歩まされる。その一生をかけて、親に対して「ほら、あなたと同じ人生を歩んでいる私は、こんなに幸せなんですから、あなたの人生も間違っていないし、幸せなんですよ」と言い続けるために存在させられる。
 
このような親は、子供が自分とは違う方法で、子供自身の人生を歩んでいこうとすると、自分が否定されたような気分になり、子供に嫉妬さえする。そして、子供を自分と同じ道に引きずり込もうと画策する。
しかし、親は自分の願望には気付かない。気付くということは、認めたくない自分の現実に向き合うことだからだ。あくまでも、自分が幸せになった方法なのだから、子供にとってもそうするのが幸せで、子供の幸せを願ってのことなのだと思い込んでいる。子供が親と違う人生を選ぼうとすると、「そんな道を選んだら、子供が不幸になる!」と思い込む。実際に不幸になるのは、子供ではなく自分のほうなのだが。
親を振り切って自分の人生を歩める子供なら良いのだが、無自覚のままに親に誘導され、親の思い通りの人生を歩んでしまった子供は、自分の子供にも同じことをしてしまう。こうして、親の自己肯定のために生きる人生は、世代関連鎖していく。
 
このような親が作る家庭は、仮面家庭になりやすい。仮面家庭は、自分の真実に向き合えない親が、幸せな家庭という「型」を作って自分を守ろうとするものだ。子供にもまた、自分を歪めてこの「型」にはまることを強要する。
このような親に、子供が真実を突き付けようとしても、親は頑なに拒否する。自分の真実に向き合えない親は、子供の真実にも、家庭の真実にも向き合えない。真実は時に残酷で醜い。親はそれに向き合うことから逃げ、ひたすら「良い自分」と「良い家庭」という虚像を維持しようとする。残酷で醜い真実に向き合う過程を経ないことには、本当に「良い自分」にも「良い家庭」にもなれないのだが。
 
そもそも、本当に自分にとって良い生き方を選んで、自分の人生に満足している親は、子供に押し付けたりはしない。子供が自分で人生を選びとって、子供にとって良い生き方をすることを望む。
本当に「自分にとってはこの方法で良かった」と思えた人は、自己完結する。そして、「相手にとって良い方法」を考え、尊重する。他人もまた、自分と同じ方法で幸せにならないと不安な人は、他人が自分と同じ方法で幸せになることによって、自分の方法は正しい・自分は幸せだと確認したい欲望がある。他者を使った自己肯定だ。
 
このような他者を使った自己肯定は、いじめの連鎖でも同じことが見られる。『元いじめられっ子のいじめっ子』でも書いたが、自分の心の傷に向き合うことなく、「いじめという体験が自分を強くしてくれた」と思い込む方向に行ってしまった人は、他人をいじめることによって自己肯定しようとする。虐待もそれと同じで、加害者は自分のやっていることを悪いことだとは思わず、むしろ相手の成長のために必要なことをしてあげていて、「鍛えてやっている」「躾」だと思い込んでいる。
熱心な宗教の勧誘者も、他者を使って自己肯定したがっている。本人は、自分が信じている宗教に入信すれば、相手もきっと幸せになれると、相手のためを思って誘っているつもりでいる。しかし、本当のところは、相手も自分の宗教を信じてくれると、自分の信じているものが正しいと認められたような気になれるからだ。
この「他者を使った自己肯定」は、社会レベルでも行われることがある。それらは大抵、「常識」や「道徳」や「秩序」などと呼ばれることが多い。
 
 
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