yuhka-unoの日記

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我侭な人ほど、自分は「普通」で「一般的」で「多数派」だと思い込む

まともな人ほど「私はこう思う」と言い、我侭な人ほど、自分は「普通」で「一般的」で「多数派」だと思い込む。これはもう法則と言っても良い。
我侭な人は、「私はこう思う」と、自分個人の意見として言いたくない。なぜなら、批判されてしまったら、「私」が批判されていることになるからだ。我侭な人は、自分が批判されることに耐えられない。自分が批判されることをとことん避けたい。
だから、「普通はこうする」「これが常識だ」と言う。自分は「普通」で「一般的」で「多数派」なのだと思い込めば、批判してくる相手は、「私」ではなく「普通」や「一般」や「多数派」を批判しているのだと思える。自分自身を世間という大きな存在と一体化させててしまえば、自分に批判してくる相手は、普通じゃない非常識な人間なのだということにできる。こうして、常に自分のほうが正しいかのような幻想を形成する。
 
このような人が何か言う場合は、終始「私のほうが多数派だ」という根拠を持ち出すことに熱心になるという形を取る。だが、もともとの根拠となるものが怪しいということが多く、また、持ち出してきた根拠自体は正しかったとしても、我侭な人は、自分にとって都合の良いように解釈するので、結果として全く根拠になっていないことが多い。
そもそも人は、どのようなものを見聞きしても、自分の判断で認識し解釈するものだ。しかし、我侭な人は自分の判断に責任を持たない。もし自分が誤解してしまったら、それは常に誤解させるようなことをした相手が悪いということになる。
えてして我侭な人ほど、思い込みが激しく、何でも自分にとって都合の良いように解釈するのだが、我侭な人は、自分を誤解させた本が間違っている、ウェブサイトが間違っている、あなたが間違っていると言う。とことん、自分が間違っているという事実から逃げ続ける。だから反省も成長もしない。
我侭な人は、自分で判断することを避ける。実際は自分で判断していることも、自分で判断したということにしたくない。他人が判断したということにしたい。なぜなら、もし間違ったとしても、それは他人が間違ったのであり、自分のせいではないと思いたいからだ。我侭な人は、このような思考回路で、とことん責任転嫁する。
 
我侭な人は、大きく二つの勘違いをしている。
一つは、自分が言っていることは自分個人の意見に過ぎず、何ら「普通」でも「一般的」でも「多数派」でもないということ。人は常に、自分の判断で物事を認識し解釈している。
もう一つは、多数派であるということは、何ら正しいことの証明にはならないということ。世の中、少数派のほうが正しいことなんていくらでもある。歴史上、価値観や認識が変化していく過程においては、当時は少数派であったものが、やがては多数派になるということはいくらでもある。歴史とはその繰り返しだ。もし「普通」で「一般的」で「多数派」であることが絶対的に正しいのなら、世の中の価値観や認識は、永遠に変化しないということになる。
だが、我侭な人ほどこの事実を受け入れられない。この事実を受け入れるということは、自分が間違うこと、自分が批判されることを引き受けることだからだ。そもそもそれを避けたいがために、自分は「普通」で「一般的」で「多数派」だという幻想を形成しているので、心が強くならないことには、決してこの事実は受け入れられない。
 
まともな人は、自分の認識は主観に過ぎず、自分の意見は自分個人の意見に過ぎないという自覚がある。それがまともな人の謙虚さだ。だから、自分の意見に責任を持って「私はこう思う」と言う。
一方、我侭な人は、自分自身を世間という大きな存在に一体化させているので、どこまでも傲慢だ。だが、このような人は、自分個人の意見を言う人に対して、「世間の常識に逆らうとは、なんて非常識で傲慢なヤツなんだ」と思い込む。実際に相手が逆らっているのは、世間でも常識でもなく、我侭な人本人なのだが、我侭な人には、この事実がどうしても受け入れられない。
 
このような気質は、差別主義者、ストーカー、ハラッサー、DV加害者、虐待加害者などに多く見られる。そして、このような傾向がより強い、およそ「普通」で「一般的」で「多数派」から外れた人ほど、皮肉なことに、自分のことを、より強固に「普通」で「一般的」で「多数派」だと思い込んでいる。他者の認識と本人の認識が反比例している。
このような人は、誰が見ても我侭な人であることももちろんあるが、表面上「普通の人」に見えることも決して珍しくない。何せ、彼らは「普通」で「一般的」で「多数派」であること、そして、自分が批判されないことに必死なのだから。なので、「ソト」では普通に振舞うが、「ウチ」では我侭を爆発させていたりする。
 
我侭な人は大きな赤ちゃんだ。赤ちゃんは自分で判断しなくて良い。何の責任も負わなくて良い。赤ちゃんのことを判断して責任を負うのは、周囲の人間の役目だ。赤ちゃんは、周囲の人間から常に受け入れられていて、いつもご機嫌を取ってもらえて、一切批判されたりしない。
我侭な人とは、永遠に赤ちゃんでいたい人である。我侭な人の努力と熱心さは、終始、自分が赤ちゃんの立場でいることに費やされる。
 
 
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