yuhka-unoの日記

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「救世主」になりたい人は、「迷える子羊」を求めてさ迷う

時々、複雑な家庭環境に育ってしまったせいで、親に対する葛藤を抱えている者に対して、「親を憎んで生きるより、感謝して生きたほうが、楽になれるし、生きやすくなるよ」などと言ってくる人がいる。しかし、このような人は、自分のことを「人間的にできた、良い人」「優しくて親切で慈悲深い人」と思いたいがために、そう言ってくるだけということが多い。
 
自分のことを「人間的にできた、良い人」だと思っていたい人は、親に対する葛藤を抱えている者に対して、直接的間接的に「あなたが親のことを許して感謝できないのは、まだあなたが人間的に未熟だからなのよ」と言うことによって、「私ってなんて、人間的にできた、良い人なんでしょう!」と、ナルシスティックな願望を満たそうとする。そのような人は、自分が普段からしているという感謝でさえ、「与えられた環境に感謝できる私は、なんて人間的にできた、良い人なんでしょう!」という質のものに過ぎない。
「良い人でありたい」という願望が強い人が、他人にアドバイスする場合は、「私って、なんて良い人なんでしょう!」と思いたいからであって、本当は相手のことなど考えていない。「良い人でありたい」という願望が強い人にとって、他人(特に弱者・被害者的立場の人)は「私って、なんて良い人なんでしょう!」と思うための道具に過ぎない。ナルシスティックな自己イメージの形成のために、他者を利用する。
 
このような人は、自分のことを救世主だと思っている。だがその本性は、羊を食らう狼だ。
自分が救世主でいるためには、常に「迷える子羊」が必要なので、こういう人は「迷える子羊」を求めてさ迷っている。そして、都合良く「迷える子羊」を手に入れることができたら、その人をずっと「迷える子羊」にしておく必要があるので、相手を自立させたがらない。直接的間接的に「あなたは私がいないとダメで無力で何もできない、迷える子羊なのよ」というメッセージを発し続け、相手を無力化して自分に依存させてしまう。
だが、これをやっている本人は無自覚だ。あくまでも、自分は100%善意で「迷える子羊」を助ける、「優しくて親切で慈悲深い人」なのだと思っている。
このような人が親だった場合は、子供にこういう態度で接してしまい、子供を支配してしまう恐れがある。
 
こういう人との遭遇は、一見とても穏やかで人の良さそうな宗教の勧誘者に、我が家に押しかけられたようなシチュエーションを連想させる。
こういう人は、こちらのことを「迷える哀れな子羊」という設定で接してくる。こういう人と遭遇してしまうと、私はいつも、「私は、あなたのやり方が正しいことを証明したり、あなたの『優しくて親切で慈悲深い人』という人物設定を補強するための材料じゃありませんから」と思う。だからこちらは、伸ばされてきた手を跳ね除けるわけだ。しかし、こういう人は、こちらが跳ね除けると「被害妄想」だと言う。そして、「あなたは『迷える哀れな子羊』だから、人の親切を素直に受け取れないのね」という解釈をする。
自分のことを救世主だと思っているから、跳ね除ける相手に問題があると思うのだ。実際は、救世主という皮の下の、羊を食らう狼の本性が相手に見えたから、跳ね除けられただけだ。
こういう人に遭遇すると、私はいつも、「私などよりも、まずご自身を救う努力をして下さい。私を助けにきたつもりなのでしょうが、本当はあなた、私に依存しに来ていますよ」と思う。
 
自分が抱いてる葛藤や不幸や満たされなさを「ないもの」扱いして、やたら自分は幸せだとか感謝の気持ちが大事だとか言うのは、どこかで歪みを生む。そんな状態で他人を助けることに一生懸命になっても、相手にとっては的外れでありがた迷惑になりやすい。なぜなら、自分のネガティブな気持ちに向き合っていない人は、他人のネガティブな気持ちに向き合えないからだ。自分のネガティブな気持ちを押さえ込んで、無理矢理ポジティブになっている人は、相手に対しても、ネガティブな気持ちを無理矢理押さえ付けて、「ポジティブになれ」と言うからだ。相手の辛さや苦しさを「ないもの」扱いしてしまうのである。
 
そういう人は、本当は自分の辛さや苦しさに向き合うことから逃げてるのに、「私は辛さや苦しさを乗り越えて、感謝できる境地になったんだ!私は幸せなんだ!」と思ってるから、今まさに辛さや苦しさに向き合っている人を見ると、自分は相手より先んじている立場で、自分のほうが先輩だと思い込むが、実際は相手のほうが、自分の辛さや苦しさに向き合っているだけ、ずっと進んでいるのだ。
本当に自分のネガティブな気持ちに向き合う作業を経て、感謝できる境地になって、本心から自分は幸せだと思えた人は、過程を経ることの大切さをわかっているから、他人のネガティブな気持ちに向き合う作業を、無理矢理押さえつけて「感謝しなさい」と言ったりはしない。
 
本当は感謝していないのに「感謝する人」のつもりになる、本当は幸せではないのに「幸せな人」のつもりになる、本当は許していないのに「寛容な人」のつもりになるのは、自己欺瞞だ。それは、単に偉そうにして「偉い人」のつもりになったり、頭が良さそうなことを言って「頭が良い人」のつもりになったりするのと変わらない。
 
尚、このような人は、『他者を使った自己肯定―子供に自分と同じ人生を歩ませたい親―』で書いたような、相手に自分のやり方を押し付けることによって、自分のやり方が間違っていないことの確認をしたがる傾向がある。
 

メサイアコンプレックス - Wikipedia
 
なぜこのような論理になるかと言えば、幸せな人は不幸な人を助けて当然という思い込みを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」という理論を構築できるためである。本来は人を援助するその源としてまず自らが充足した状況になることが必要となるのだが、この考えは原因と結果を逆転させており理論的には無論無理がある。

結局のところそういった動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また、相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。しかも、その結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である。このようなことは宗教などの勧誘にも見られる。

 
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