yuhka-unoの日記

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自己基準と他者基準―「競争しろ」より「吸収しろ」のほうが良い―

「競争を拒む」若者の心理と意外な孤独感:日経ビジネスオンライン

 
そりゃ「競争しろ競争しろ」とだけ言われても、やる気になるわけがない。これは、親から「勉強しろ勉強しろ」とだけ言われるのと同じだ。親から「勉強しろ勉強しろ」と駆り立てられてした勉強が、はたして自分の血肉になるのだろうか。何か、肝心の部分が成長していないような、早く成長したわりには中身が空っぽの竹のような、そのような結果にしかならないような気がする。
 
「競争しろ競争しろ」と駆り立てられると、ひねくれ者の私は、「あなたたちから見て、熱心そうに見えれば満足なんですか?それがお望みなら、私、熱心なふりだけしますけど」と思ってしまう(笑)。「競争しろ競争しろ」と言うのは、精神論根性論だ。精神論は「見かけ」を重視する。実際に熱心かどうかではなく、上司や監督などから見て、熱心に見えるかどうかが大事なのだ。
実際、日本の「カイシャ」は、仕事をしているふりになりがちだと、よく言われている。わかりやすいところで言うと、効率良く仕事を終わらせて定時で帰る人より、残業を沢山する人のほうが仕事熱心だと見られてしまう、というような話だ。
 
本当は、欲しいものも生きたい人生も人それぞれなのに、なぜか「これを手に入れなければならない」「こういう人生を生きなければならない」という幻想が存在していたのが、バブル期以前だったのかもしれない。
おそらく、マイホームやマイカーやブランド品、出世や良い学校への入学というのは、「ニンジン」だったのだろう。バブル期以前世代の人たちは、目の前に「ニンジン」をぶら下げられて、「競争しろ競争しろ」と言われて育ったのかもしれない。お受験戦争や企業戦士などがそうだろう。これは競走馬の育成方法だ。だから、上の世代の人たちは、自分が育てる側になると、競走馬を育てる教育方法しか知らないのかもしれない。
でも今の若者世代には、もう「ニンジン」は無いに等しい。強いて言うなら「内定」が「ニンジン」だ。目の前にぶら下げる「ニンジン」が無いのに、「競争しろ競争しろ」とだけ言われても、やる気になるわけがない。となると、モチベーションは本人の内側から発掘するしかない。その発掘方法がわからないのが問題なのだろう。
 
そもそも、勉強は何のためにするのだろうか。「良い学校→良い就職先→良い人生」というレールに乗るためにするのだろうか。まぁ、そのために勉強することもあるだろう。しかし、勉強が最も楽しく、最もやる気になる時は、知識が身について思考の幅が広がって、自分が成長できている実感が持てる時だ。そういう目的からした勉強は、しっかりと自分の血肉になってくれる。
仕事のモチベーションもそれと同じではないだろうか。お金のため、そして、そのお金で欲しいものを買うため、あるいは出世して偉くなるため、そのためだと割り切って仕事を頑張るのも、もちろんありだ。しかし、仕事が最も楽しく、最もやる気になる時は、やはり、知識や経験や技術が身について、自分が成長できている実感が持てる時だろう。そうやって得たものは、形は無いけれど、何物にも代え難い自分の財産だと思う。
そしてそれは、「勉強しろ勉強しろ」「競争しろ競争しろ」と駆り立てられて身につくものではない。むしろ逆効果だ。
 
私はよく「アスリートと奴隷拳闘士の違い」という例えをする。同じことをしていても、自分の意志でやっているか、やらされているかの違い、つまり自己基準と他者基準の違いだ。「競争しろ競争しろ」と言われると、奴隷拳闘士にさせられているような気分になる。つまりは競走馬だ。
マイホームやマイカーやブランド品を手に入れるために「競争しろ」というのは、他者基準なのだ。会社としては他社との競争は大事だが、人は皆、結局は自分のために生きるものだし、頑張るのは自分自身のためだ。自己基準で生きたいのだ。
「競争しろ」と言われるより、「吸収しろ」と言われるほうが良い。「吸収しろ」なら自己基準という感じがするし、自分の成長のためという感じがする。そもそも、新人の仕事は「競争」じゃなくて「吸収」だと思う。
 

@daijapan 為末 大

多くの人が限界を作らない事が、モチベーションは無尽蔵に湧いてくる事だと勘違いしている。限界に挑もうとする人ほどモチベーションが全てだと知っている。モチベーションは乱暴に扱えば途切れる。知ってる人は井戸を涸らさないように大事に大事に扱う。

http://twitter.com/#!/daijapan/status/96398522550714369

さすが、競争が本業の人の言うことには、説得力がある(笑)。