yuhka-unoの日記

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頭が良い人になるには、「頭が良い人だと思われたい」という願望を捨てること

「頭が良い人だと思われたい」という願望を強固に持った人ほど、頭の良さから遠ざかってしまうのではないかと思う。「良い親だと思われたい」という願望を強固に持った親ほど、良い親から遠ざかってしまうように。
なぜなら、こういう人は「論理的=格好良い・感情的=格好悪い」という価値観に取り付かれやすく、自分の感情的な面を認められなくなるからだ。「良い親だと思われたい」人ほど、自分の悪い面を認められなくなるように。
「頭が良い人だと思われたい」という願望は、れっきとした感情なのだ。しかし、「論理的=格好良い・感情的=格好悪い」という価値観に取り付かれた人は、この感情を自覚できなくなる。自分の感情的な面はなかったことになり、理屈の下にある自分の感情を掘り起こすより、辻褄を合わせるために正当化の屁理屈ばかりが上手くなってしまう。
 
「論理的=格好良い・感情的=格好悪い」という価値観に取り付かれた人は、自分の感情的な部分を無くし、論理的で理性的な部分だけで生きようとする。だが、生きている以上は、どうあっても感情は無くなるものではないので、ただ単に自分の感情を認識できなくなるだけだ。「自分は論理的で理性的であり、感情的な自分などいない!」と言い張っているだけの人になる。
このような自己イメージを持つ人は、相手と向き合った時、相手の感情は見えるが、自分の感情は見えないという状態になるので、あくまでも自分は理性的で論理的であり、相手が感情的なのだと認識する。だが相手からは自分の感情が丸見えだ。つまり裸の王様なのである。
真に理性的で論理的な人は、自分の感情の存在をしっかり認識している。自分の感情を見つめて向き合っている。自分の感情も相手の感情も見える人が、本当に頭が良い人だ。
 
子供が幸せに生き生きと自分の人生を歩むことと、「良い親」という自己イメージを保っておくことと、どちらかを天秤にかけた場合、良い親は前者を取り、悪い親は後者を取る。悪い親は、子の幸せよりも、「良い親」という自己イメージを保っておくことを優先するが、自分では誰よりも子の幸せを願っているつもりでいる。自分のことを「良い親」として扱わない子供に不機嫌になり、理想像ばかりを見て現実を見ない。だから親として成長しなくなる。
「頭が良い人だと思われたい」人もこれと同じで、ひたすら「頭が良い人」という自己イメージを保っておくことばかりに固執してしまい、思考力が成長することがない。他人から「頭が良い人」として扱われないと不機嫌になり、理想像ばかりを見て現実を見ない。
こういう人は、全てにおいて「自分が頭が良い人だと思われるかどうか」で考え、行動してしまうようになる。そのため、何か問題に取り組む時も、「自分が頭が良い人だと思われる」ことが最優先であり、問題の解決は二の次になる。目的や優先順位を間違えるのだ。
 

妻が発狂しました : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://b.hatena.ne.jp/entry/komachi.yomiuri.co.jp/t/2011/0705/423417.htm

この夫も、「自分が頭が良い人だと思われる」ことが最優先であり、妻が精神的に落ち着き、子供にとって良い環境になることは二の次である。
この夫がやったことは、現場の状況を知ろうともせずに「あれをしろ、こうすべき」とだけ言って仕事をした気になっているダメ上司と同じだ。まず現場の状況を把握して、それに基づいた現実的な対処法を考えるということをしていない。現場の状況に基づかない正論は所詮空論であり、現場を追い詰めるだけで何の役にも立たない。
このケースでは、妻のほうがはるかに現状に即した現実的な対処をしている。むしろ夫のほうが虐待親のメンタリティに近い。
「頭が良い人だと思われたい」願望が強い人ほど、なぜか「自分は実際の現場の状況を知らない立場なのだ」という自覚がない。そしてこういう人ほど、「女は感情的だから、冷静で論理的な男(俺)のアドバイスなんて聞かないんだよ」などと思っている。
 
また、こういう人は現状維持派になることが多い。現状を変えようとする者に対して「お前たちは現実を知らないんだよ。現実を知ってる賢い俺が、現実を知らない愚かなお前に、現実を教えてやろう」と言うことで、頭が良い人になったような気分を味わえるからだ。
自分で問題を掘り下げて考えた結果としてたどり着いた結論ではなく、「どちらの側に付けば頭が良い人だと思われるか」で考えた結果なので、実は「現実を知らないお前」より現実を知らない場合が多い。しかし、本人はそのことに無自覚である。やはり、「自分は実際の現場の状況を知らない立場なのだ」という自覚がないのだ。
自分はそれほど現実を知らず、自分の意見が感情から来ているものだと自覚しないで的外れな意見を言う者よりは、自覚した上で的外れな意見を言う者のほうが、その点でずっと賢い。

つまり、こういう人にとっては、冷静であるかどうかより、冷静に見えるかどうかが重要なのである。なので、何かしようと一生懸命になっている状態を「ムキになっている」と認識し、何もせず何も考えないことを「冷静」と認識する。

@NATSU2007 ナツ
いじめっ子が「ちょっとからかっただけだろ、何ムキになってるんだよ」とヘラヘラすること→「理性的」、その「上から目線」に敏感に反応するいじめられっ子→「感情的」。「女のくせに」と絡んでくる男の言う所の「理性的・感情的」とは、常にこのレベルの話に終始しているから笑える。
http://twitter.com/#!/NATSU2007/status/43745371565981697

「頭が良い人だと思われたい」という願望が強くなればなるほど、表面上のことしか認識できなくなる。
 
また、こういう人が陥りがちなのが、「自分は〜だから頭が良い」という考えだ。よくあるのが「男は論理的で女は感情的。だから男の俺は論理的」「自分のほうが学歴が高いから、自分のほうが正しい」という思考である。しかし、意見の正否を、意見の内容ではなく、意見を言った人の性別や属性で判断すること自体が、既に非論理的だ。
こういう考え方は、自分で努力して思考力を磨かなくても、属性だけで頭が良い人になったような気分になれるので楽だ。自分自身を磨かずにブランド品を身に纏うことで、自分が何か凄い存在になったような気になるのと同じだ。当然ながら、努力しないのだから思考力の成長は止まっているのだが。
 
おそらくは、真に頭が良い人ほど、「頭が良い人だと思われたい」という願望の優先順位を低くすることができるので、その結果、本質を認識することができるのだろう。逆に「頭が良い人だと思われたい」という願望を強固に持てば持つほど、その願望に囚われ、本質を認識できなくなるのだろう。
 
 
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