yuhka-unoの日記

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「辛い経験は糧になる」という言葉に感じる違和感

他人からの励ましやアドバイス』にも少し書いたが、私は「辛い経験は糧になる」という言葉に違和感を感じる。
結局、トラウマにしかならない経験だってあるんじゃないのかと思うし、乗り越えられるかどうかは、本人の努力ももちろんあるが、運の要素もある。周りの人の助けが得られる環境かそうでないかは大きい。
「辛い経験は糧になる」という言葉が広く世間で言われているのは、基本的に、乗り越えられた人しか世間に出て来れないからなんだろう。私の中にも、乗り越えられた部分と乗り越えられていない部分があるが、乗り越えられた部分については、世間に向かって語れるけれど、乗り越えられていない部分については、なかなか世間に向かって語ることはできない。
世間から見えるのは、乗り越えた人だけ。結局トラウマにしかならなかった人は、世間からは見えないということだ。
 
それから、「辛い経験は糧になる」という言葉は、『元いじめられっ子のいじめっ子』でも書いたように、ある種の体育会系マッチョ集団の中で、「しごき」を正当化する言葉として使われるからというのもある。こともあろうに加害者が、「俺のおかげで成長できただろ?」と言うのだ。
冗談じゃない。加害者がやったことはただのいじめだ。そこを乗り越えて立ち上がったのは被害者の功績である。こともあろうに加害者は、この言説によって、厚かましくも他人の功績を横取りしようとする。加害者ばかりでなく第三者が、「その人のおかげで今のあなたがあるってことなんでしょ」などと言う。
私自身、いじめや親の抑圧などを経験して、そこから色々考えるようになって、それは今の私の重要な要素のひとつになっていることは確かだが、だからといって、いじめや親の抑圧を肯定したりはしない。
自分の人生を肯定することと、自分がされたことを肯定することとは違う。
 
それに、今まさに辛い経験の真下にあって、そこから抜け出す道筋も見えない状態にある人に、「辛い経験は糧になる」と言っても、その言葉は届かないと思う。余計に傷つけるだけで。
人は誰だって、トラウマにしかならなかった人より、乗り越えた人を見るほうが楽だ。美談に酔って感動するのは心地良い。「辛い経験は糧になる」という言葉は、時に、本当に落ち込んでいる人のその状態を拒否する言葉になる。「今のあなたの状態は、私には受け入れられない。私に美談を提供できる状態になったあなたしか受け入れられない」という本音が隠されてはいないか。
 
そう考えると、「辛い経験は糧になる」と言う言葉は、乗り越えた段階で言える言葉なのかな。基本的には、乗り越えて糧にした本人が言う言葉であって、あんまり他人が言う言葉ではないのだろう。
乗り越えられた人たちの影に、乗り越えられていない人たちがいるということ、乗り越えられたように見える人の心の奥底に、乗り越えられていない部分があるかもしれないということに、想像力を働かせる努力をする必要がある。
 

「悲惨な隣人殺しの戦争や艱難辛苦によって、現在のオシム監督が得たものが大きかったのでは?」
「確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが……。ただ、言葉にする時は影響は受けていないと言ったほうがいいだろう。
そういうものから学べたとするならば、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……。」
 
(「オシムの言葉」より)

 
 
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