yuhka-unoの日記

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同調圧力と世代間コミュニケーション

どうする?40代からのファッション&生き方 「年齢差による居心地の悪さ」って何だ?

周囲との年齢差を意識する(特に若い人との)ということは、
 
その場における自分の異質さを意識する、
ということなのです。

「おばちゃん」たちがあちこちで賑やかなのも、
常日ごろ、他世代(特に若い世代)との間に
自分の「異質性」を感じて居心地が悪いから、
同世代・同性で集まると思いきり弾けてしまうのかもしれない。
女子高生みたいに。

同世代のおっさんたちが遠い - 24時間残念営業
 
 ま、いずれにせよ同世代のおっさんとはノリがあわないわけなんだが、そうすっと外見や年齢としゃべってることのミスマッチってのが発生する。店のなかにいるときはいい。俺は「そういう人間」ということで通用してるわけだから。でも外に出るとそうはいかない。つまり、会議で俺と似たような年代のおっさんが集まってる場所だ。

 実はこういう「ミスマッチ」についていちばん許容度が低いのは、まさに同性同世代の人たちだと思う。「同じようなもんだ」という前提で話しかけるとぜんぜん違うから「なんだこいつ」っていうのがひとつ。あとは「なに無理して若ぶってんだよもうそういう年じゃねえだろ」っていうのがひとつ。つーか特に必然性もないスマホ持って不自由そうに使ってるおまえのほうがよっぽどがんばって若ぶってるわ! 俺は市場にそれが存在しつづける限りガラケーから離れねえよ!

 
これらの記事を読んで、なるほどと思った。若者に対する壁を感じさせない人は、逆に同年代の人と上手くいっていない人が多いような気がする。10代20代の若い頃から、他の同年代の人たちの中で「異質」な存在だった人は、同年代の人より若者のほうが感覚が合うか、あるいは、もともと自分が異質な存在であることに慣れてしまっているかなのかもしれない。
同世代間で「異質」な人が若者と接する場合は、どこかお互いに「私とあなたは違う」ということが前提になっているから、「この人はそういう人なんだ」ということで、異文化コミュニケーションができるけれども、なまじ同性同世代の場合は、勝手に「同じだろう」と思われてしまうから、そこで食い違うのかもしれない。
これは多分、女同士の関係で「異質」な存在になりがちな女性にとっては、男性といる時のほうが楽な感じがしたり、あるいはその逆という現象にも当てはまるだろう。
 

「東京は希望」「東京には何もない」山内マリコ×中條寿子の女子と地方 - サイゾーウーマン
 
山内 それが私にはよくわからないんです。「SOUL SISTER」の世界が。あのセンスなり趣味に染まれないと、地元では、はみ出し者になってしまうのかも。高校卒業して地元に残った人って、ギャル要素のある子が多い気がするんですよね。田舎の中学はヤンキーがヒエラルキーの頂点だから、カワイイ子がヤンキーになり、高校でそのままギャルにスライドするんですけど、その子たちは地元に友達も彼氏もいて充実してる。結婚も早いし。つまり都会に出て行く理由がない。
中條 じゃあ、大都会に出て行くのは?
山内 私もなんですけど、地元で輝けなかった、ヒエラルキーの下の方の人たちでしょうか(笑)。しっくりくる居場所やコミュニティに属せなかったので、都会に行けばそれが見つかるかもって期待して、高校卒業まで我慢してる。

この、高校でヒエラルキー上位のヤンキーやギャルが地元に残り、ヒエラルキー下位の「異質」な人が大都会に出て行くのも、似たような構図なのだろう。同世代の輪から出るのも、地元から出るのも、自分が元々属していたコミュニティから出て行くということなのだから。
そういえば、「海外ニート」という、地元どころか日本から出て行った人もいたっけ。
 
こういうタイプの人は、世間一般的に最も輝いている時期と言われる10代20代のうちは、あまりパッとせず、地味で目立たなかったか、あるいは、目立つことは目立つものの、個性が強すぎて奇異に見られていたか、いずれにせよ同世代の中で「異質」な存在で、しかし、その逆境の中でも何とか自分の立ち位置を確保しようとしてきた結果として、年を重ねるごとに良くなっていった人が多い気がする。もしかしたら、他の同世代の人に比べて、「若い頃は良かった」という思いも希薄かもしれない。
なので、同世代に馴染めなくて色々としんどい思いをしている若者は、逆に40代になってから楽になれるかもしれないということで、希望を持っていても良いのかもしれない。ただし、これはいじめや虐待の連鎖と同じで、いじめに遭っていた者のうち、自分はいじめをしないよう気をつけるようになる者もいれば、それが原因でいじめ加害者になってしまう者もいるように、若者時代にヒエラルキー底辺だった者が、それが原因で、若者に攻撃的な老害になってしまうこともあると思う。
若い頃から「異質」な存在だった者は、そうならないように気をつける必要があるし、今のうちから逆境にめげずに努力して、自分の中で何かを積み重ねていったほうが良いのだろう。
 
世代間コミュニケーションといえば、いつも思うことは、若者に話を合わせようとして、若者の間で流行っているものの情報を押さえておくとか、そういうのってする必要あるんだろうか、ということだ。まぁこれは、もともと私が昔から若者の流行に疎い子だったというのもあるかもしれないが。
私は年長者のことを、若者の流行とか知らなくて当たり前だと思っている。だから、年長者に対して、若者の流行について知っていることを求めていない。たぶん、年長者も、若者は人生経験が浅くて当たり前なのだから、若者に対して豊富な人生経験を求めたりしていないと思うしね。
私自身のことで言えば、若いうちから「若者の流行」に疎く、「みんなと一緒」ができなかったので、それが自分にとって普通の状態だった。むしろ、「流行を知っているのが当たり前」という同調圧力があった学生時代よりも、「若者の流行とか知らなくて当たり前」という年齢に移行していっている今のほうが、ある種の開放感すら感じる。もう私は、ほぼ同世代の子しかいない空間で、会話に混じるために、特に自分が好きでもないものを好きなフリをしなくても良くなったのだ。
 

思春期の恋愛における“他者評価”の面倒くささについて - 想像力はベッドルームと路上から
 
また、ひとつ確実に言えるのは、思春期の男子連中が語る「女の子の評価」ほど周りに流されやすいものもない、ということ。集団では「あいつはブス」とか「あれはナシ」とか言うが、集団から離れて個人的な意見を聞くと「実は結構可愛いと思ってた」とか「あれ?お前も?」なんてことになるのもしばしば。友達同士で「クラスの誰が好きか」という話をしている時に、自分が本当に好きな子の名前は言えずに、あえて他のみんなからの評価が高い子の名前を挙げた、なんて経験がある人も結構いるんじゃないだろうか。

これ、男子だけじゃないよね。そして、「女の子の評価」だけじゃない。思春期は、恋愛対象もそうだけど、好きな芸能人や音楽やファッションといったことも、同調圧力要素になってしまう。
そう考えると、若くなくなっていくというのは、同調圧力から開放されて、無理に流行を追いかける必要がなくなって、自分は本当は何が好きなのか、何をやりたいのか、何が似合うのかを考えられるようになって、自分自身になっていくということなのかもしれない。人との付き合い方も、自分自身対自分自身、個人対個人になっていく。それが自立していくということであり、大人になっていくということなのかもしれない。
 
フレッド・アステアジンジャー・ロジャース「Isn't this a lovely day」―

フレッド・アステア大好き。
 
 
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