yuhka-unoの日記

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味方を装ったいじめっ子と、周囲の人間との共犯関係

前回記事、『味方を装ったいじめっ子』について、「そうそうその通り!」と思うブコメをいただいた。

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ある程度経験のある大人ならば「超迷惑」と思って済むのだが、子どもの場合はこの手の「味方を装った」人を最初のうちは本当に味方だと思ってしまうから余計に傷つくんだよね。

そう、子供は「なんとなく嫌だ」と感じていても、その違和感の原因がわからずに、「この子は味方なんだ。感謝しないといけないんだ」と思い込んでしまうんだよね。この手の人は突っぱねてしまって良いということがわからない。「嫌だ」と感じてしまう自分が悪いのだと思い込む。それは、周囲の人間がそう思い込ませるからというのもある。担任教師も、クラスメイトも、親ですらも。
 
実は、「味方を装ったいじめっ子」は、周囲の人間にとっては利益をもたらしてくれる存在だ。
まず担任教師。先生も、こういう一見味方に見える子がいてくれたほうが安心だ。ただし、ここで言う「安心」とは、いじめられっ子にとって心身が安らぐ環境になるという意味の「安心」ではなく、担任教師としての自分の手間が省け免責されるという意味での「安心」だ。
もちろん、「味方を装ったいじめっ子」の表面上の関係しか見えなくて、水面下でどういう関係になっているのかということが見えていないということもあるが、その水面下の関係に気付きたくないというのもある。気付いてしまったら、責任が生じ、何とかしなくてはならなくなるからだ。
「その他大勢」の周囲の子達にとっても、「味方を装ったいじめっ子」の存在は、「いじめられっ子を仲間に入れてあげなければならない」という手間が省け免責されるので安心だ。いじめられっ子には、一緒にいてくれる子が既にいるのだから、自分たちはいじめられっ子を放っておいても責められることはない。
 
このように、周囲の人間にとっては、「味方を装ったいじめっ子」は、自分達が嫌がることを率先して行ってくれる、とてもありがたい存在だ。本人もまた、自分をそのように評価して優越感を感じている。
しかし、「本当は嫌なんだけど、可哀想だから一緒にいてあげるのよ。有難いと思いなさいね」という態度は、周囲の人間と同じく、所詮はいじめられっ子を見下したものであることに変わりは無い。いじめられっ子にとっては、そんな態度で近づかれるくらいならいっそ放っておいて欲しいと思って当然だが、「味方を装ったいじめっ子」の存在によって利益を得ている周囲はそれを認めない。
もしいじめられっ子が、この手の「味方を装ったいじめっ子」を突っぱねようものなら、先生や周囲の子達からも「あの子はあなたの味方をしてくれているのに、どうしてそんな態度を取るの?」と言われて、「そんなひねくれた態度だからいじめられるんだ」となるわけだ。そしてますます「いじめられるほうに原因がある」という言説が強化され、ますます担任教師や周囲の子達は免責される。
 
つまり、どちらに転んでも周囲の人間にとって利益になるようにできているわけだ。「味方を装ったいじめっ子」は、担任教師や直接のいじめっ子や何もせずに見てみぬふりをしておきたい人達の利益に、すっぽりはまる立ち位置を確保している。決して周囲の人間に変わることを求めず、いじめられっ子のほうにのみ変わることを求めるという意味においてもだ。
こうして、「味方を装ったいじめっ子」の存在によって、いじめはますます温存され、全貌は目に付き難い水面下に沈む。そういう意味で、「味方を装ったいじめっ子」はタチが悪い。
 
 
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