yuhka-unoの日記

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実は誰よりも国を否定している「愛国者」たち

愛国者」を名乗る人の中には、「日本」というロゴがこれ見よがしについたブランド物を身に纏い、「ほら、私ってすごいでしょ?私を認めなさいよ!」と言っているような人が少なくない。私はそのような人を「国の威を借る狐」と呼んでいる。
当然、こういうブランド信者にお近づきになりたいと思う人はあまりいない。ブランド信者はそれを「あの人には所詮、このブランドの価値がわからないのよ」と解釈する。本当はブランド物ではなく自分自身に問題があるから人が離れていくのだが、その現実を受け入れられない。
自分の劣等感をブランド物で埋めようとしている人は、身に纏っているブランドを否定されると怒り出す。しかし、「あなたが着ているブランドはすごいけど、あなた自身は全然すごくないね」と言われると、もっと怒り出す。
 
ブランド物を着て嫌味にならない人は、ブランド物を着る前に自分自身を磨いている。自分を磨く手間をサボりたいが、自分自身を良く見せたい、他人から賞賛されたい、そういう願望からブランド物を着る人は、態度が嫌味になる。
ではなぜ自分自身を磨こうとしないのか。それは自分自身を見たくないからだ。自分を磨こうとすると、嫌でも現実の自分を直視せざるをえない。現実の自分は、理想とする自分からは遥かに落差があり、欠点や劣等感まみれの存在だ。直視すると精神が崩壊してしまいそうなほどに。
そんな自分は嫌だ、そんな自分は見たくない。自分はもっと素晴らしい存在でいなければならない。素晴らしいブランド物を身に纏う素晴らしい存在こそが自分。こうして現実から目を背け、誇大妄想に溺れていく。
 
当然ながら、身に纏うブランド物は、自分を素晴らしい存在だと思わせてくれるだけの素晴らしいものでなければならない。そのブランド物が「日本」である場合、日本は絶対に素晴らしい国でなければならない。なので、「国の威を借る狐」たちは、日本の現実から目を背け、誇大妄想で塗り固めた虚構の日本を崇める。
しかし、そのような行為は、現実の日本に対する否定に外ならない。本当の意味で愛するという行為には、根底に現実の受け入れがある。子供の現実の姿を見ず、自分の自己愛を満足させてくれるような素晴らしい子供でいないと愛さないという親は、およそ子供を愛しているとは言えない。
皮肉なことに、彼らは自分こそが誰よりも国を愛しているつもりでいるが、実は誰よりも国を否定しているのだ。
 
彼らは現実を指摘する人間を受け入れられない。誇大妄想を現実と認識している彼らにとって、本当の現実の指摘とは「悪口」である。「そんなにこの国の悪口ばかりを言うのは、この国が嫌いだからだろう」という論理で、現実を指摘する人間を「非国民」と認識し、排除する。
太平洋戦争も日本全体でこのような精神構造に陥ったし、「原発安全神話」などもこの構図だ。現実から目を背け誇大妄想に溺れた集団が、現実を指摘する人間を「反乱分子」として排除してきたから、ある時点で、それまで目を背けてきた現実が一気に襲いかかって来ているのだ。
現実から目を背け、誇大妄想に溺れる行為は、いずれある時点で現実が一気に襲いかかってきて、身を滅ぼすことになる。
 
私個人はこの国に愛着を持っているが、国というのはそんなにピュアでキレイなものではない。自称愛国者たちは、日の丸や君が代が完全にピュアでキレイな存在でないと愛せないような人が多い。少しでも汚れが付いているとすぐ絶望してしまうので、そうなるのを恐れて汚れを見ないようにしているのだろう。汚れを指摘する声があると、「汚れなんてない!」「国の悪口を言うな!」という反応である。まぁ、完全にピュアでキレイな存在ということにしておきたいのは、国よりもまず自分自身なんだろうけど。
良いところも悪いところも直視して、その上で受け入れるというのが、本当に愛するということなんじゃないですかね。
 
愛国心を持つのは良いが、「国の威を借る狐」になってはいけない。素晴らしい集団に属していると、自分も素晴らしい人間になったような気になるのかもしれないが、もちろんそんなことはなく、いくら国が素晴らしくても自分がダメだったらダメだ。
国だとか国旗だとか国歌だとかの前に、まず自分自身を磨く努力をするべきだ。結局はそういう人間が国のためになる。愛国心教育とは、自分自身を磨くことを怠って、国に劣等感や自己愛を埋め合わせてもらおうとする人間を大量生産するものであってはならない。そういう教育は、「国の威を借る狐」たちの自己愛や優越感を満たすためにしかならず、長期的に見ると国益を損なうことになるだろう。
 
「国の威を借る狐」は、他人を従わせるのに自分の実力ではなく国の権威を利用する。ただ単に自分に従わないだけの人を「国に従わない非常識なやつ」と認識するようになる。
国であれ何であれ、自分の実力ではなく、誰かや何かの権威を利用して他人を従わせようとする行為は、自分の目を曇らせる。そういうことをしていると、いつまでたっても自分自身が成長しない。
他人を従わせる手段として国を利用し、自分に相手を従わせるだけの実力がなかったことの言い訳を国に求めることは、国を尊重したり愛したりする行為からは程遠い。スネ夫ジャイアンを尊敬していない。
 
 
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