yuhka-unoの日記

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元いじめられっ子のいじめっ子

いじめられた経験がある人間は、いじめられる辛さを理解しているので、他人に対して優しくなる―こう思っている人は多いかもしれないが、現実は残念ながら必ずしもそうではない。かつていじめられっ子だった者がいじめっ子になってしまうケースは、それほど珍しくないことなのだ。それは、自分の身の安全を守ろうとしてしぶしぶ加害者側に回るというレベルに留まらず、中には率先していじめを行う無慈悲なリーダーになってしまう者すらいる。
 
特に男性はそういう傾向にある。私が学生だった時も、積極的にいじめに関わる男子の中には、かつてのいじめられっ子や、男子の間でいじめられている男子が、更に弱い女子のいじめられっ子をいじめるという構図が見られた。
これはおそらく、男の子がいじめに遭った場合、女の子よりも「いじめられるなんて情けない、恥ずかしい、格好悪い」「やられっぱなしで悔しくないのか。男だったらやり返せ」などと言われるためだろう。
こういう言葉を掛けられることによって、その子は、「被害者でいるのは情けなくて恥ずかしくて格好悪いことなんだ。加害者でいるほうが強くて正しいことなんだ」と思い込む。そして、いじめる側に回ることで、いじめられていた頃の惨めで情けない自分を払拭しようとするのだ。
 
こういう心理状態になった者にとっては、加害者の立場になることが、かつていじめられていた自分を乗り越えることになっている。しかし、その強さは表面上のハリボテのようなもので、心の中核の部分は、未だ膝を抱えて蹲るいじめられっ子のままだ。もう周囲に自分をいじめる者はいなくなったのに、大人になった自分だけが、子供の頃の自分を「お前は情けないやつだ、恥ずかしいやつだ」といじめ続けている。
本来なら、情けなくて恥ずかしくて格好悪いのは、いじめられる側ではなくいじめる側の方である。本当に乗り越えるということは、「あの頃は『自分が悪いからいじめられる』と思い込んでいたが、実はそうではなかった。自分は不当なことをされたのだ」ということを認識し、その頃に抱え込んだ怒りや辛さを適切な方法で発散させることだ。そして、大人になった自分がかつての自分を抱きしめ、「辛かったね、悔しかったね」と言ってあげることだ。
こういう方向で乗り越えた人が、「いじめられた経験がある人間は、いじめられる辛さを理解しているので、他人に対して優しくなる」タイプだ。
 
しかし、加害者になる方向に行った元いじめられっ子は、今現在いじめられている人間に対して非常に無慈悲だ。子供の頃のいじめられっ子だった自分を「情けない、恥ずかしい」と思い込んでいるのだから、目の前のいじめられっ子も同じように「情けない、恥ずかしい」存在なのである。
得てしてこういう人間は、「いじめという体験が自分を強くしてくれた」という論理で、子供の頃の惨めさを払拭しようとしているので、「鍛えてやってるのだ」という論理で、自分より弱い者を積極的にいじめるようになる。自分の「しごき」に耐え抜いた者に「加害者仲間」になる資格を与え、「しごき」に耐え切れない者は「お前みたいな根性なしはいじめられても仕方がない。自業自得だ」という論理で「そいつはいじめても良い」ということになる。
 
ある種体育会系のマッチョな世界で、上の者から下の者への「しごき」が伝統と化している集団には、このような心理状態が根付いているのだろう。この構造は、学校の部活動やブラック企業児童虐待など、様々なところで見られる。ブラック企業の経営者が、社員に対する「しごき」を微塵も悪いと思わないことや、子供を虐待する親がそれを「躾」だと思い込むのもそうだ。彼らの論理では、目下の者をしごいてやるのは、相手を成長させるための「思いやり」なのである。
これは他人を使った自己肯定のやり方で、「いじめという体験が自分を強くしてくれた」という自分の人生観を、他人に自分と同じ人生を歩ませることで肯定しようとするものだ。自分の不幸や惨めさに真正面から向き合うことができない人は、よくこの方法で自己肯定しようとする。
 
こういう意識を持つ者たちにとって、いじめられっ子が他者に救済されることは「ずるい」ということになっている。苦労して自分で「加害者の立場」に這い上がることを「成長」だと思っている彼らにとって、いじめられっ子が他者に救済されることは、「いじめという体験が自分を強くしてくれた」という自分の価値観が全否定されることを意味する。また、自分が救済されることなく必死で耐えてきたものを、他人がその境遇から逃れることに対する嫉妬心もある。
彼らはしばしば、他者に救済されようとするいじめられっ子に対して激しい怒りを覚え、「あいつはずるい」「抜け駆けするな」と叫んで足を引っ張ろうとする。
いじめが蔓延している集団で、「チクる」という行為が「ずるい」「恥ずかしい」とみなされるのは、いじめっ子が自分にとって有利な環境を保っておきたいという目的だけでなく、このような心理もあるのではないだろうか。
 

痛めつけられて「タフ」になった彼らは、悲しみや、痛みや、正義や、人間らしい感覚を切断して、自己を鉄の塊のような「タフ」のイメージにつくりかえることに、自己刺激的なこだわりを持つ。自分が殺したり、大けがを負わせたりした被害者の家族を前にして何も感じるところがなく、無表情ににらみつけ続けることは、弱く傷つきやすい人のこころを失い(克服し!)、人間を超えて鉄の塊のようになった強さのイメージをもたらす。

これこそ「タフ」の真骨頂である。彼らが「世渡り」をする社会(「世間」)では、十分に「タフ」になった者が「タフ」になれない者を「玩具」にして「遊ぶ」ことは「正しい」ことであり、生徒たちは、自分たち「なりの」社会のなかでこの「権利意識」を持つようになる。いじめを耐えた体験が大きければ大きいほど、この「権利意識」も大きくなる。「きれいごとを言ってくる連中」からの、この「権利」の侵害(不正)に対しては、激しい怒りをぶつける。自分自身が迫害されるなか、必死で「世渡り」をして生き延びてきたという「タフ」の自負(生存の美学)と、「世間」とはそういうものだという秩序感覚が、このような事態を生んでいる。
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「いじめられるのは、その子に悪いところがあったからだ」という言説や、いじめられることを「情けない、恥ずかしい、格好悪い」と認識する社会は、いじめを再生産させることになる。