yuhka-unoの日記

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「自粛」「不謹慎」という同調圧力

未曾有の大震災があってから数日、今、日本は国全体が一つの方向に向かっている。それは、もちろん良いことでもあるのだが、ともすればこの一体感は、良いことばかりではないのではとも思う。なんだか、今、日本は「善意」で埋め尽くされているような気がするけれど、その「善意」の中には、窒息しそうな「同調圧力」も含まれているのではないか。
もしかしたら、戦時中の日本も、これに似た雰囲気だったのではないか…どこかしら、そんなことを考えてしまう。被災者のために行動しない(ように見える)人を「不謹慎」だと言うのは、お国のために行動しない(ように見える)人を「非国民」だと言うのに似ている。もちろん、戦時中に「非国民」だと言われた人が、国を思っていなかったとは限らないように、今「不謹慎」だと言われている人が、被災者のことを思っていないとは限らない。
 

さて今回の場合、被災地での救助活動や原発への対策は非常に専門性が高く、多くの人にとって「感謝するくらいしかできない」のが実情だと思います。このことは、強い心理的緊張(もどかしい気持ち)をもたらすものになっていることは確かでしょう。
 
そうすると、たとえば「どういった点で貢献できるのかをある程度把握できている人」と「感謝と祈りと募金くらいしか手段はない」と考えている人を比較した場合、「不謹慎な人」に対する不快感がより高まるのは、後者の人びとではないか、という仮説が成り立ちます。
http://togetter.com/li/112174

「何かしなければいけない」のに「何もできない」と感じている人が、被災者の気持ちに寄り添ったつもりになって「自粛」するのだが、自分と同じように「自粛」しない人がいると、その人に不快感を感じる。そしてその人を「不謹慎」と言って攻撃してしまう。

もどかしい気持ちでいる人が不謹慎な人を不快に感じるのは、その気持ちの適切な発露の手段がないからだと考えられます。だとすれば「不謹慎にも寛容を!」と説得するより、「こんな人にはこんな手段で貢献ができる」という情報をたくさん流す方が効果的です。
http://togetter.com/li/112174

「何かしなければいけない」のに「何もできない」と感じている時、「あなたにもこれができるよ!」というものを提示されると、ポンと飛びついてしまいたくなる。もどかしい気持ちから逃れられるから。でもその結果が、善意からのデマの拡散であったりするわけで…難しい。
 
こういう時、娯楽は真っ先に「不謹慎」「自粛」と言われるが、世の中には娯楽を提供することを仕事にしている人がいるわけで、そういう人たちは「自粛」されてしまうと仕事がなくなる。彼らにだって生活がある。しかも、娯楽の提供を仕事にしている人の中には、どんなに辛くても悲しくても、笑っていなければならない人もいる。
別にそれを「自粛」したからといって被災者のためになるわけでもない、節電になるわけでもないものを、「自粛しろ」「不謹慎だ」と言ってやめさせるのは、自分のもどかしい気持ちを解消するために、自分が思いやりのある良い人になりたいがために、他人の行動を制限しているだけだ。
 
そもそも、この大震災が起こる前から、世界には色んなところで災害や紛争や飢餓があった。世界どころか国内でさえも、毎年のように台風による被害があったはずだ。私たちは、その間何をしていただろう。普通に暮らしていたんじゃないのか。
なら、今普通に暮らせる人は、普通に暮らせば良いのではないだろうか。今だけ「不謹慎」とか「自粛」とか言うのなら、今まで世界中であったはずの災害や紛争や飢餓は何だったのか。私たちは、それらを気に掛けていなかったということなのか。…まぁ、はっきり言うと、気に掛けていなかったのだろうけど。
普通に暮らしながら、関心を持ち続ければ良いのではないだろうか。国内のことも、国外のことも。この震災は確実に長期戦になるのだから、今だけ気持ちが盛り上がって、一ヶ月二ヶ月もすれば熱が冷めてしまうよりも、細く長く関心を持ち続けたほうが良いのではないだろうか。
 
ただし、セ・リーグのナイターは自粛したほうが良いと思うよ。