yuhka-unoの日記

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迷ったり悩んだりしたままでやっていくということ

「私には何もできない」という現実―震災後数日間の私の思考―』で書いたが、東日本大震災で感じたことのひとつは、迷ったりどうしたらいいのかわからない状態は、非常にストレスになるということだった。そういう時、人は、相手のために行動するというよりは、迷う苦しみから逃れたくて行動してしまう。その時提示された「答え」らしきものに、簡単に飛びついてしまう。その結果として、「自粛・不謹慎」とか、デマメール拡散とか、支援に協力的でないように見える人を責めるとか、おかしなことになってしまうのだろう。わからないことを、わからないままで抱えておけない、人間の心の弱さを実感した。
 
「失われた20年」の日本社会に疲れてくると、人々は救世主願望を抱いて、自分たちの状況を劇的に変えてくれる存在を夢想するようになるのかもしれない。オヤジたちが「若者よもっと怒れ」「若者よ立ち上がれ」と言うのも、若者に救世主願望を投げかけているからなのかもしれない。しかし、今この国の中核を担っている世代の人たちになんとかできないものは、若者にだってそうそうなんとかできるわけがないのだ。「龍馬伝」や「坂の上の雲」が受けるのも、同じような理由で、救世主願望なのだろう。
そう考えると、この国の総理大臣がコロコロ変わるのも、救世主願望なのかもしれない。あれだけリーダーが変わっても良くならないということは、リーダーが悪いというよりは、組織構造が悪いのではないだろうか。でも、組織構造を変えるのは、リーダーを変えるより難しい。リーダー一人のせいにしておけば楽だ。
 
坂本龍馬は現れない。尾崎豊も現れない。スーパー総理大臣も現れない。海外の優秀な若者は日本を変えてくれない。日本を劇的に変えてくれる存在はいない。もしいるとすれば、それはヒトラーのようなものだろう。この現実を受け入れなければならない。何か大きな力を持った存在が現れて、一気に自分たちを助けてくれる物語は、水戸黄門と共に終わった。いつまでも救世主願望を抱いたままでいると、ヒトラーみたいな存在が現れたら、容易く先導されてしまうだろう。
大抵の場合、「チェンジ」は一気になされないものなんだろう。一気になされるのは例外的な事件で、大抵は、あまり目に見えない形で、少しずつなされていく。少しずつ着実に良くしていって、それを正直に言うリーダーと、一気に変えていってくれる(ように見せかける)リーダーと、どちらを望むのか。
 
おそらく、独裁者というのは、救世主願望を抱いている人々の心の隙間に入り込むものなのだろう。迷う苦しみから逃れたい時に、提示された「答え」らしきもの。人々はそれに飛びついてしまう。それは麻薬のようなもので、一度飛びついてしまったら、なかなか手放すことはできない。手放すということは、また迷う苦しみに戻るということ、答えが見つからない状態に放り出されるということなのだから。人々は独裁者の存在に、安心感を覚える。
私は、現実を踏まえたものを「希望」と呼んでいて、現実を踏まえていないもの、現実逃避的なものを「幻想」と呼んでいる。「幻想」は、例えるなら麻薬のようなもので、その時は良い気持ちにさせてくれるが、将来的には破滅に繋がるものだ。人気を取りたい政治家は、「幻想」という麻薬を散蒔く。政治家が提示しているものが「希望」なのか「幻想」なのか、それが問題だ。
一気に変えてくれると信じていたリーダーが否だったとすれば、どういう政治なら是なのかがわからなくなる。でも、わからないものは、わからないままでいるしかないんだろう。わかるようになるまで。自分の答えが出るまで。迷ったり悩んだりすることを、怠けてはいけない。迷いや悩みを抱えたままで、やっていくしかない。
 

「橋下は」ではなく「私は」何をするのか、と言いなおしていく - キリンが逆立ちしたピアス
 
 それぞれの持ち場で、地味にやるしかない。学者という生き物がいるのではなく、それぞれの領域で、それぞれの研究をしている。抽象化してしまえば、「政治家VS学者」の構図で、学者に勝ち目はない。なぜなら、政治家は勝つためのプロだからだ。政治家は、何が真実で何が正しいのかよりも、何を言えば勝てるのかを考えている。丁寧にものごとを読み解こうとすればするほど、政治家に負ける。だから、勝負には背を向けるしかないだろう。そして、たとえ負けたとしても、一人でも多くの人に、こちらの言っていることに耳を傾けてもらえるように、語りかけるしかない。政治家は、人々の望む現実を描いてみせる。学者は、人々の望まない真実を描こうとする。人々は、前者に飛びつくかもしれない。けれど、どこかでいつも後者を求めている。その良心に訴えるしかない。

 
 
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