yuhka-unoの日記

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今一度、「なんで選挙に行くの?」と、自分自身に聞いてみる

前回記事『選挙に行かない人に「なんで行かないの?」と聞くこと自体が、何か違うんじゃないのか』の続き。
 
さて、この手の話でよく言われるのが「投票しないなら文句言うなよ」だが、こんなこといつ決まったのだろう。「投票しないなら文句を言ってはいけないルール」なんて、「投票しないなら文句言うなよ」と言っている人たちが勝手に作り出した幻想に過ぎない。私自身はほぼ毎回投票に行っているが、投票を棄権したら政治に文句を言う権利を失ってしまう社会なんて嫌だ。
学校に文句を言って良いのは、学校に行っている子だけなのだろうか。そんなはずはないと思う。私は中学時代、担任教師がいじめにまともに対応しなかったので、抗議的意味も込めて数日間学校に行かなかったが、私は学校に文句を言ってはいけなかったのだろうか。むしろ、学校側は私の文句をちゃんと聞くべきだったと思っている。学校側は何も変わる気がなく、こちらが何を行っても、結局「じゃあ学校に行け」としか言われないのがわかりきっているのに、「なんで学校に来ないの?」と聞かれたって、本音なんか話すはずがない。
あるいは、働いている人でないと、企業や労働のあり方に文句を言ってはいけないのだろうか。これも、そんなはずはないと思う。私はひきこもりで働いていないが、このブログでも書いている通り、文句を言いまくっている。ひきこもりになって初めてわかったことも沢山あるからだ。内閣府の調査によると、ひきこもりの数は全国で70万人に上ると推定されるらしい。ここまでひきこもりが多いのなら、ひきこもりは個人の問題ではなく社会の問題だ。それと同じように、選挙に行かない人が40%にもなるのなら、これは個人の問題ではなく社会の問題だろう。ならば、選挙に行かない人の文句は、聞いたほうが良いのではないだろうか。
あと、最高裁国民審査については、棄権している人や、よくわからないから無記入で出しておくという「実質棄権」な人も、実は沢山いると思うのだけれど、じゃあその人たちは裁判に文句を言ってはいけないのだろうか。私は「最高裁国民審査わかりにくすぎ!」と文句を言いたいが。
 

2012-12-16 - 岡村日記
 
そしてそれ以上に、この年でまだ一度も選挙に行ったことが無いがゆえに
投票所でモタモタしていい年して恥をかいたらどうしようという
後ろ向きな怖さがあった。

これは、不登校に対する偏見があるせいで、不登校の子がますます登校しにくくなったり、ひきこもりや生活保護受給者に対する偏見があるせいで、ひきこもりや生活保護受給者がますます職に就きにくくなるのと同じではないだろうか。私は、不登校の子と学校に行く子は対等だし、ひきこもりや生活保護受給者と職に就いている人は対等だと思っている。ならば、選挙に行く人と行かない人も対等だろう。
いい年して働いていない私は、自分のことを恥ずかしいと思っていないので、いい年して選挙に行ったことがないのも、恥ずかしいことではないです。もし不安なら、「私、最近この辺に引っ越してきたばかりなんですよ?前の投票所と違うから、勝手がわからないんですよ?」という顔をして行くのはどうでしょうか(笑)。ちなみに、私がいい年して働いていない自分を恥ずかしいと思っていない理由は、『ひきこもりの品格―精神的扶養家族からの脱却―』で書いた。
まぁ、投票自体はわりと簡単だよね。私は自分の地区の投票所しか知らないのだけれど、投票というのは障害者からお年寄りまでするものなので、投票所はわかりやすくスムーズに投票できるように工夫されていると思う。難しいのは全て投票所に行く前のことだ。
 

特別寄稿・小田嶋隆  生まれ変わるための便所掃除のすすめ <衆院選・特別コラム>(gooニュース) - goo ニュース
 
 ただ、「反省」という言葉は使いたくない。というのも、投票を「モラル」みたいなことにしたくないからだ。

 若い人たちが選挙に行かない理由のひとつに、投票が「市民の義務」であり「公共のモラル」であり「当然のマナー」であり「守るべきルール」であるみたいな世間の風潮があると思う。私自身そうだったが、若い人というのはとにかく強制が大嫌いなのだ。

この国では選挙は義務ではなく権利だ。権利である以上、別に行かなくても構わないはずなのに、なぜ自分は選挙に行っているのだろう。選挙に行く理由が「市民の義務だから」「公共のモラルだから」「当然のマナーだから」「守るべきルールだから」としか答えられないとしたら、まるで「お母さんに言われたからピアノを習いに来た」みたいなものじゃないか。自分の意思で行っていたわけではなかったということだ。これでは選挙に行かない人を説得できるわけがない。選挙に行かない人から見て、「選挙に行こう」と呼びかける人の話す内容が、全く求心力も説得力もなく、押し付けがましさしか感じられないのは、本当のところ、選挙に行っている人自身が、なぜ自分は選挙に行くのかを、自分でもよくわかっていないからなんじゃないだろうか。だとすれば、場合によっては、選挙に行かない人よりも、選挙のことについて考えていないのかもしれない。
 
そう考えると、選挙が義務ではなく権利である意味も明確になってくる。「選挙権」とはつまり、「誰に言われたわけでも強制されたわけでもなく、自分の意思において政治に参加する権利」ということなのではないだろうか。これこそが、先人たちが命を掛けて勝ち取ったものなのではないだろうか。
選挙権が「自分の意思において政治に参加する権利」ということは、独立した一個人として自分の頭で考え、政治参加せよということなわけで、国民の成熟が求められているということだ。これは民主主義の根幹ではないだろうか。
だとすると、「市民の義務だから」「公共のモラルだから」といった理由で選挙に行かなければならない空気になっているのは、むしろそっちのほうが、選挙権の「形骸化」なのではないだろうか。
 
選挙に行かない人に「なんで選挙に行かないの?」と聞く前に、今一度、自分自身に「なんで選挙に行くの?」と問いかけてみるのも良いと思う。それを考えた結果として、選挙に行かないのも良いし、考えた上で選挙に行くとしたら、次からの選挙で投じる一票は、以前までの一票よりも、より自分にとって意味のあるものになっているのではないだろうか。
そして、他人に「選挙に行かない理由」を聞く前に、自分が「選挙に行く理由」を語ってみてはどうだろう。「とにかく選挙に行け」「選挙に行かないなら文句言うな」と言うよりも、「自分はこういう理由で選挙に行くんだ」と語るほうが、ずっと説得力があると思う。そもそも、選挙ってそういうものなんじゃないだろうか。私だって、ただ候補者名を連呼して「入れてください!お願いします!」としか言わない候補者のことは、うるさいとしか感じない。それよりも、きちんと自分がしたいことを語っている候補者に票を投じたいと思うものだ。自分が候補者を選ぶ時にはそう思うのに、選挙に行くことを呼びかける時には、なぜ同じことができないのだろう。
 
―愛と平和の街―

 
 
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