yuhka-unoの日記

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「物」ではなく「物でできること」を買っている

「若者が物を買わなくなった」と言われて久しい。これについて私が思うことは、私たちは何であれ、「物」ではなく「物でできること」を買っているということだ。テレビ、洗濯機、エアコン、車、ブランド品、PC、携帯電話、iPod、全て「物でできること」を買っている。そして、「物でできること」には、時代によって求められているニーズが変化してくるものだ。一昔前の若者は、スポーツカーでできることを買っていたのだし、現代の若者は、iPhoneでできることを買っている。
ネットの可視化、リアルの不可視化―近頃の若者の「わからなさ」について―』でも書いたが、特にIT時代の現代は、「物でできること」が不可視化されやすい時代だと思う。車などは、それで何をしているのかということがわかりやすいが、PCなどは、それで何をしているのかということがわかりにくい。
「若者が物を買わなくなった」というのは、表面的に「物」だけを見ているから、そういう考えになるんだと思う。単純に「物」という物質だけを見るのではなく、その向こうにある、「物でできること」という見えない領域を考えないと、本質は見えてこないのではないだろうか。

TECH SE7EN : 私たちは時代に足りないものを求めている
 
若い人はその時代に足りないものに対してハングリー。今の経営者や管理職の人は若い時、お金やモノに対してハングリーだった。今の若者は共感や社会を良くしたいとの思いに対してハングリーだ。上の世代が「若者に元気がない」と感じるのは、自分たちがかつて渇望したものを今の若者が求めないからだ。

 
ところで、前回記事『「若者の○○離れ」と言われた「若者」としては』で既に述べたように、業界が衰退していく過程には、ある共通項があると思う。「殿様商売」「消費者敵視」「押し売り」のセットだが、その前段階として、「物でできること」ではなく「物」を売ろうとするようになる、という過程があるのではないかと思う。
「物」を売ろうとする手法は、成功すれば一時的に業界内バブルになるが、やがてその手法そのものが衰退の原因になる。「物でできること」を考えるということは、必然、時代の変化や消費者のニーズを考えるということだから、そこの感性が劣化すると、時代が過ぎた途端、あっという間に流行遅れになってしまう。その時に「物」を売ろうとすると、やり方が姑息になる。
「物でできること」ではなく「物」を売ろうとするから、「殿様商売」になる。そして、業界内バブルが過ぎ去った途端、「消費者敵視」になり「押し売り」するようになる。「物」を売ろうとするようになったら終わりだ。
確かに、業界衰退の原因は、時代の変化もあると思う。(例えば石炭業界などは。)でも、こう考えると、まず「物でできること」ではなく「物」を売ろうとしたことが原因で、時代の変化は二次的なものでしかない分野も、けっこうあるのではないだろうか。つまり、業界内バブル時代に、「物」を売ることに特化してしまい、時代の変化に対応できない売り方をシステム化してしまったことで、時代が変化した途端、一気に業界内バブルが崩壊するということだ。
 
「物」を売ろうとするということは、自分のところの商品を粗末にするということだ。とにかくその場で商品が売れれば良い。だから、どうすればその場で商品が売れるかということばかりを考えるようになって、客がその商品を買った後のことを考えないようになる。極端に言えば、商品が売れさえすれば、客が買ったその足でゴミ箱に商品を投げ捨てても構わないという売り方だ。浄水器を押し売りする訪問販売員は、その場で売ることだけが全てで、客がその後浄水器をどのように使うかなどは考えないものだ。
何十万円もする着物を押し売りする店員は、口では「着物は一生ものだから」などと言うが、客がその着物を持て余し、一生着ないまま箪笥の肥やしにして虫食いだらけにしたとしても構わないという売り方をしている。客の側としては、「着物」に払う金はあっても、「箪笥の肥やし」に何十万円も払うのはバカらしい。そのような店は、「着物屋」ではなく「箪笥の肥やし屋」である。
つまり、買い手が商品を「無価値だ」と言う前に、既に売り手が商品を無価値にしているのだ。自分のところの商品を粗末に扱うとはそういうことだし、押し売りとはそういうことだ。
 

音楽聴くなって音楽業界が言ってる感じだよね : web-g.org
 
世の中にイイ音楽を探している人はとても沢山いると思う。だけど、みんなどこで自分好みの音楽を探したらいいか分からない。音楽業界は本来そういう人に「この曲とかどう?」と良質な音楽を作って紹介してくれればいいのに、ヒット曲が出るとそれと似たような曲を乱発して押し込んでくる。そんな姑息な手段にウンザリしてる。

音楽CDにも、たぶん同じことが言えると思う。「音楽」ではなくCDという「物」を売るのが目的になっている場合は、とにかくCDが売れさえすれば、客がその後、曲を一回も聴くことがないまま、光る円盤を鳥よけとして畑にぶら下げようが、投げて犬にくわえさせようが、構わないという売り方になる。
客の側としては、音楽と、それについてくるジャケとか歌詞とかを見る楽しみ、そういうものに払う金はあっても、ただの「光る円盤」に払う金はない。そりゃ、そんな売り方したら「CDいらない」って言われるよね。
 
「物でできること」を売ろうとすれば、商品は自ずと適正な価格になるし、売り手も適正なプライドと自負心を持てると思う。「物」を売ろうとすれば、商品の価格は適性でなくなる。売り手も変なプライドが身について、客をバカにして見下し、売れないのは客が悪いのだと、消費者を敵視するようになる。そうやって身についた変なプライドは、どうにも変えられないので、後はただ衰退の道を行くしかなくなる。
「着物」を売っているのか「箪笥の肥やし」を売っているのか、「音楽(+ジャケや歌詞を眺める楽しみ)」を売っているのか「光る円盤」を売っているのか、それが問題だ。「着物屋」ではなく「箪笥の肥やし屋」になってしまったところや、「音楽屋」ではなく「光る円盤屋」になってしまったところは、そりゃ衰退して当たり前だろう。
 
 
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