自分が嫌われないために気を遣う人は、身内を潰す。
『相手のための気遣いと、自分が嫌われないための気遣い』に、予想外にブックマークが沢山ついた。で、
id:ekirei-9
理屈はわかるけど具体例がほしい
という意見を頂いたし、ちょうど書きそびれたなと思っていたこともあったので、続きを書こうと思う。
母は、家に人が来るとなると、家の中を完璧に片付けていた。私の担任になった先生は、大抵誰でも「yuhka-unoさんの家は綺麗だね」と言ったものだし、その中の一人は、「yuhka-unoさんの家は、生活感がない感じやね」と言った。
学校の先生が来る時に家の中を綺麗にするのは当然として、母は消防署の人が火災報知器の点検に来る時や、電気屋の人が家電を修理しに来る時でさえそうだった。
母が留守で、私が火災報知器の点検に立ち会うことがあった日、私は布団を押入れに仕舞わず、畳んで部屋の角に置いておいた。火災報知器は、押入れの中にも設置されているからだ。押入れに布団が入った状態では点検がやりにくいと考えた。だが、帰ってきた母は、布団を出しっ放しにした状態で消防署の人を部屋に入れたことについて、気に入らなかった様子だった。
宅配便が来たとき、私がすぐ行って玄関のドアを開けると、母に怒られた。玄関に出ている靴をきちんと揃えてから出るように、と。だが、宅配業者の配達員が、玄関の靴が散らかっているかどうかを、そんなに気にするだろうか。私が配達員なら、靴を揃えるよりすぐに出てくれるほうが有難いと思うのだが。他所の家の玄関の見た目より、外が暑かったり寒かったり雨だったり、荷物が重かったりするほうが、配達員にとっては重要な問題だと思うのだが。
引越し祝に、母方の祖母と伯母が新居に来ることになった。母は相変わらず家の中を完璧に掃除し、いつもより豪華な昼食を作った。昼食の内容は、ニシン丼と、3〜4種類ほどおかずがあった。
昼食の用意をする際、私は全員分のご飯を盛ってニシンを載せた。私は、他におかずが沢山あるのだからと、ニシン丼の量をいつもより少なめにした。
母は食べる段階になって、「ニシン丼の量少ないやん。もう、この子自分が食べる量で考えてるんやからー。もっとご飯入れたるわ。少ないやろ?」と言いながら、祖母と伯母のニシン丼に手を伸ばした。祖母と伯母は首を横に降って、「もうこれで十分やで」と言った。実際、二人はニシン丼のおかわりはしなかった。
母は、二人が帰ったあとも、ニシン丼の量について「あんたなぁ、いっつも自分の食べる量で考えるやろ、あれは少ないで」と言っていた。私は、他人の家でご馳走になる場合、最初から多めに盛られて残してしまうより、残さず食べられる量を盛られておかわりをお願いするほうが、心理的負担は少ないんじゃないのかと反論した。
お隣さんが「足を悪くして自治会の集会に行くのがしんどいのよね」と行ったところ、母は代わりに『私が』行くことを引き受けた。その話し合いの場に私はおらず、その取り決めの間、私に何の連絡もなし。別に代わりに集会に行くこと自体が嫌なのではない。私の行動を決めるのに、全く私の意思が入っていないことが嫌だった。母は、まるでお隣さんに親切に自分の「モノ」を貸し出しているような感覚なのだろうか、と思った。
ちなみに、そのお隣さんが『他人に対して気を遣って丁寧に接する母と、それができない私の話』で書いた、「お母さんよりあなたのほうが話しやすいわね。あなたのお母さん気を遣う人だから…」と言った人である。
その他にも、母の前で目上の人と話したときは、後から言葉遣いや言った内容について細かく注意されたり、親戚の集まりなどの場で気を配ることなど、様々あるものの、わかりやすい具体例はだいたい上記の通りだ。尚、来客がある時に家を片付ける作業は、私が小さい頃はもちろん母がやっていたが、私が成長するにつれ、その作業の大部分を私がやることになっていった。
母は、家の外の人に対しては親切に振舞ったが、私に対しては親切とは言えなかった。他人の評価目線から身を守るための「鎧」として気を遣っていた母にとって、家の中ではその「鎧」を着る必要はなかったのだ。他人と母とでは、他人が母を評価するという関係だが、母と子供とでは、母が子供を評価するという関係なのだから。
他人に対して気を遣ってしまうと言えば聞こえは良いが、そういう人は、自分がほぼ完全に支配下に置いておける人間に対しては、逆にほとんど気を遣わず、まるで自分に属する「モノ」のように、他人から良く思われるための道具にしてしまうという暗黒面があると思う。
母は上記のことを「普通」「常識」「皆こうしている」と言っていた。理想が高い人は、自分は理想が高い人なのだという自覚がない。私もまた、母の理想が普通の人と比べて高いことにはっきりと気がついたのは、成人してからだった。
私は元来マイペースな人間だ。幼稚園の頃、参観日に親が来ると、教室で私の姿だけが見えない。先生に尋ねると、私は別の部屋で一人で絵を描いていた。それくらいマイペースだ。そんな私に、両親(特に母)は「弟の面倒をよく見る、しっかりした良いお姉ちゃん」という、ものすごく高いハードルを要求した。我が家は、父、母、私、弟二人の五人家族で、こういう家族構成なら、普通は父母が親で私と弟二人が子供という立ち位置になるはずだが、我が家は父母と私が親で、弟二人が子供という立ち位置に近かった。そのため、本来なら親の責任や役割であるべきことまで、私が担わされることもあった。両親が離婚してからは尚更そうなった。
私は、頑張ってもなかなか母の言う「普通」のレベルに到達できなかったので、「私はどんくさい子なんだ」「私は、ものすごく頑張らないと、他人とちゃんと付き合えないんだ」という自己イメージを持つようになった。その一方で、「でも、そこまでする必要ないんじゃないの?」という疑問もうっすらと持っていた。
親子関係は人間関係の基礎だ。働くようになると、私は失敗する度、「こんなに失敗して怒られるのは、自分だけなんじゃないのか」「他の人は、きっと私より上手くできるんだろう」と思い込んだ。母に「あんたがそんな態度だと、私が悪く思われてしまう!」という恐怖感から怒られていた私は、上司や先輩に怒られる度、「私があまりにできないので、きっと、すごくイライラさせてしまっているんだろう」と思い込んだ。この頃が私の今までの人生の中で一番の暗黒期だった。
その後、お隣さんの「お母さんよりあなたのほうが話しやすいわね。あなたのお母さん気を遣う人だから…」という言葉と、カウンセラーの「気を遣う人に接すると、こっちも気を遣うからね」という言葉がきっかけで、母に植え付けられた洗脳を振り解き、新しく自分なりの他人との関わり方を構築し直すようになり、その過程で段々楽になっていった。「母は、他人に嫌われないために気を遣っているのであって、他人に対する思いやりからじゃない」ということに気付いてからは、「もっとテキトーに生きて良い」「母のように完璧にしようと思わなくて良いから、相手にとって居心地が良ければそれで良い」と思えるようになった。例えば、親しい友人が家に来た時などは、「喉乾いたら、冷蔵庫の中の飲み物、勝手に飲んで良いからね」で良いんだよね。
実際、悪くは言われないけれど、相手が気を遣ってしまうような接し方って、相手のためじゃない。本当は、相手に気を遣わせないようにするのが、思いやりってもんなんじゃないだろうか。素直で気さくな人のほうが接しやすいもんね。
そういう過程を経て、お客さんが来るときに掃除をするのは、相手にとって居心地良くするためであって、後で「あの人の家、散らかってたわね」と言われないようにするためではない。親業は、子供が自分の人生を歩んでいけるようにするためであって、「良い親」という自己イメージを保つためにするのではない。自分の知性を成長させるには、純粋に問題そのものに向き合い、好奇心や探究心で行動することであって、「頭が良い人」という自己イメージを保つことではない。良い作品を作るのが目的であって、その作品を作っている自分が良く見られることが目的ではない。というふうに考えるようになった。
で、「ちちんぷいぷい」の中で、大吉アナが失敗して怒られているのを見て、「ああ、ああいう失敗は誰でもするものなんだな。私だけじゃないんだ」と思えたこと。大吉アナを指導する上司や先輩たちが、本心から大吉アナを受け入れ、彼の成長を願っているのがわかったこと。色々失敗しても、その失敗が経験としてきちんと積み上がって、大吉アナが成長していっていること。これらのことが、番組を見ることによって、自分が自問自答しながら構築した認識や価値観が、客観的な視点から再確認できたことが、私にとっては発見だったので、ブログに取り上げることにしたのである。
まぁ、積み上がっていく失敗と積み上がっていかない失敗ってあるよね。私は母に洗脳されている頃、積み上がっていかない失敗ばかりを繰り返していた。母のやり方は、私を成長させる部分が多少はあったかもしれないが、それ以上に私の成長を停滞させることになった。
そりゃ、元来一人で絵を描いているようなマイペースな人間を、「弟の面倒をよく見る、しっかりした良いお姉ちゃん」に仕立てあげようとするなんて、最初から無理がある。母は私を褒めることはあったが、それは母の望む「良いお姉ちゃん」でいられた時に褒めていたのであって、それは褒めてはいるが私を認めてはいない。誘導するための手段として褒めているだけだ。だから私は、「褒めて育てる」という、一見耳に心地良い子育て法も、危うい面を持っていると思っている。
認めて育てるべきは、一人で絵を描いていたマイペースな私のほうだったのだ。だから私は、そっちの自分を自分自身の手で育てていくことにした。
[追記]
続きを書きました。
群がる「親」という名の感謝乞食たち
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