yuhka-unoの日記

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集団主義における個性の発揮のされ方

【2-2-1】Grace Open Mind(偏見のない広い心)なお母さん : ここヘンJAPAN - ライブドアブログ
http://koko-hen.jp/archives/795832.html
 
あと印象的に残っていることで「日本人は集団主義だと聞いたけど、その場合、あなたの個性はどうやって活かされるの?」と聞かれました。そして「会社や組織の役割って、それぞれ違う能力や背景を持った人達の良い点を引き出すことでしょ。集団主義で個人の個性が発揮出来なければどうやって仕事を進めるの?」と不思議がっていました。集団主義の日本人として、この問いにはみなさんどのように回答しますか。

 
これについて少しばかり考えてみた。確かに、集団主義は全く無個性というわけでもなく、個人の個性が発揮される場面はある。
集団主義の代表的なものといえば日本の会社だが、会社内において個人の個性が発揮される場面といえば、上司から能力を認められて抜擢される、という形がまず思い浮かぶ。それ以外の場面においては、基本的には個性を消し、自分を会社に合わせることになる。
 
つまり、集団主義においては、個性を発揮する際、その集団の許容が必要になるということではないだろうか。社内での抜擢も、社員の個性が会社の利益になると判断されたから、個性を発揮することが認められるのである。
となると、集団主義においては、いきなり自分の個性を発揮することはできず、まず周囲を見渡してみて、「自分の個性は、この集団内で許容されるだろうか」ということを考えて、様子を伺いながら発揮してみる、ということになる。
 
そう考えてみると、昨今、年長者が若者に対してよく言っている「挑戦せよ」「自分の意見を言え」「自分で考えて行動せよ」といった言葉の数々に、非常に矛盾や違和感を感じる理由もわかる気がする。全て言外に「ただし、その集団が許容する範囲内で」という本音が込められているからだ。

なぜ「自分の頭で考える」ということが難しいのか - ガ島通信
http://d.hatena.ne.jp/gatonews/20110114/1294931700
 
ツイッターでのやり取りでもあるように「自分で考える」と言われながら、正解を求めてしまうのは大学生に限らず社会人でも起きていることです。それは、これまでの「考えてみろ」が、指示している上司の気持ちを斟酌しろであったり、組織の空気を分かれ、にあったことが原因でしょう。「最近の若者は考えない」と言っている人は自分の意見に賛同してないということかもしれないし…「考えろ」と言うのは簡単ですが根深い問題が横たわっていそうです。

「若者は内向き」の欺瞞 - 科学政策ニュースクリップ
http://d.hatena.ne.jp/scicom/20110111/p1
 
 もう一点言いたいのは、果たして今の日本は、リスクを負って行動した人たちを尊重する社会なのか、ということだ。

 リスクを負うということは、他人と違う行動をするということだ。そして、一握りの成功者の影には、多くの失敗した人がいる。

 今光が当たっているのは、リスクを負って成功した人たちだけだ。そういう人がほめたたえられるのは当然だが、挑戦し、失敗した人はどうなるのか。

 「無謀なことして」「親が泣いている」「無駄な時間を過ごした」

 などとけなすだけではないのか。

内向き志向を超えて - 科学政策ニュースクリップ
http://d.hatena.ne.jp/scicom/20110117/p1
 
 失敗してもいいじゃないか、と気軽に人は言うけれど、実際失敗したときに「社会に迷惑をかけた」と非難の声を投げかけるようでは、そうおいそれと挑戦などできないではないか。

 挑戦する人は「空気」を乱す人。乱された空気を社会が許容できないのなら、気安く挑戦を奨励するな、といいたい。

 
大抵の場合、その人の意図は、言葉よりも態度で判断される。
例えば、教師が口では「生徒を守ります」と言っていながら、実際は生徒よりも自分の面子を守ることに一生懸命になっていたら、その教師は「生徒より自分の面子が大事な先生」と判断される。「国民の利益を守ります」と言っている政治家が、実際は自分の利益ばかりを守ろうとしていたら、もちろん「国民より自分の利益を優先する政治家」と判断される。
言葉によるメッセージも大事だが、それ以上に態度によるメッセージが大事なのだ。
「挑戦せよ」「自分の意見を言え」「自分で考えて行動せよ」…口ではこう言っていても、態度で「失敗するくらいなら挑戦するな」「こちらの意に沿わない意見を言うな」「こちらが何も言わなくても、こちらの望む行動をせよ」というメッセージを発していたなら、やはりそのメッセージを受け取った者はそのようにするであろう。
 
よく日本人は失敗に対して不寛容と言われるが、集団主義と失敗に対する不寛容さは、親和性があるのかもしれない。
 
 
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