yuhka-unoの日記

旧はてなダイアリー(http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/)からの移行

善意が暴力に変わるとき―伊達直人騒動について―

Togetter - 「「伊藤直人」に違和感を感じてしまった元入所者のpostまとめ」
http://togetter.com/li/88205

 
実は、前回の記事『甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち』を書いたのは、昨今起こっている伊達直人関連の騒動があったからだ。親からの好意を受け取ることを強要されてきた私は、一連の伊達直人騒動にずっと違和感を抱いていた。上の元児童養護施設入所者の人の意見はもっともだと思う。
 
「人の善意に対して素直になれ」みたいなこと言ってる人がいるけど…「素直になれ」って、どういう意味なんだろう。私が父から趣味じゃない服を貰った時の素直な気持ちは「これ着たくない」だった。元入所者の人の意見も、実に素直な気持ちだと思う。でも、その素直な気持ちを言ったら「素直じゃない」「素直になれ」と言われる。「素直になれ」ってどういう意味だ?もし「いらない」「欲しくない」「迷惑」という気持ちを抱いたとしても、それを押し殺して喜んだふりをするというのが「素直になる」ということなら、それは「私の望みどおりの反応をしろ」という意味なんじゃないのか。
 
「そんなこと言うから寄付に対するハードルが上がるんだ」という意見は、一見もっともなように思える。でもよく考えたら、「寄付する側」の気持ちのほうが「受け取る側」の気持ちより優先されるって、おかしくないか?
寄付する側のハードルが上がることは気にするのに、寄付される側が「いらない」「欲しくない」「迷惑」ということを表明するハードルが上がることは気にしないのか?
 

どうせ煽るなら、マスコミも「こんな美談が!」という話だけじゃなくて、児童養護施設の運営の実際に迫ってみるとか、もう少し掘り下げていってほしいのよなあ。たぶんそういうことがない現状に、違和感があるんだと思う……たぶん。いまいち正体を把握しきれてないのだけど。

本当に相手に喜んでもらえるものを贈りたいって思うのなら、相手の事情が気になるものだよね。これは普段身近な人に対して贈り物をするときも一緒で、相手が普段どういうものを身に着けているのか、どういうものが好みで、どういうものを使っているのか、ライフスタイルはどんな感じなのか…ってことを気にするよね。贈り物をする相手が児童養護施設の子供たちなら、当然「児童養護施設で暮らす子供たちって、実際どうなの?」ってところが気になるはずだ。
まぁ、実際に贈り物をした全国の伊達直人さんたちは、そこんところはちゃんと気にしていたかもしれない。しかし、少なくともマスコミに関しては、相次ぐ伊達直人の出現と、ランドセルを受け取って「たいがーますくさんありがとう」なんて言って喜んでる子供達を映して終わり、ってところがほとんどで、『児童養護施設の実際』を取り上げるところがほとんどない。本当は児童養護施設の子供には全然興味なくて、自分たちが気持ちよくお手軽に消費できる『感動』や『美談』に酔い痴れたいだけなんじゃないのか。それは大人の身勝手な欲望でしかない。
 

足りないのはまずいと思います。施設の方針にもよるとは思いますけど、基本的に「不平等」を嫌うんです。最悪、もらったランドセルの数が足りなくて全部使えない(処分せざるを得ない)ということだってあり得ると思います。ものっそい非効率的な話ですけど。

大人にとってもそうなんだけど、子供にとっては特に、他の子はもらえるのに自分はもらえないっていう状況は、単に「物がもらえない」ってことだけを意味するんじゃなくて、簡単に言うと「自分は愛されていない」っていうことを意味するんじゃないかと思う。大人から「お前はこれをあげるに値しない子供だ」って言われたような、そんな気分になるんじゃないかと。例えば、他の兄弟は親から良いものをもらったのに、自分だけがもらえなかった時、どういう気持ちになる?って話だよ。
あ、ちなみに、虐待する親って、自分の子供全員を満遍なく虐待する親もいれば、兄弟のうち一人だけを邪険に扱って、他の子は可愛がるという方法で虐待する親もいるんだよねぇ…
 
子供は大人から搾取の対象にされやすい。それは明らかな悪意ばかりでなく、一見善意にしか見えないことも実に多い。そして、善意にしか見えないからこそやっかいなのだ。私の父は私を喜ばせているつもりだったが、実際は私が心身をすり減らして父を喜ばせていた。子供は大人の「良いことをした気分になりたい」という欲望の道具にされやすい。これが「児童養護施設の子供」なら尚更だろう。
立場の強い者が立場の弱い者に対して何かしてあげる場合、「気持ちは有難いけれど迷惑なんです」と表明できない威圧感や、感謝しないと「せっかく好意でしてあげてるのに!」と叩かれるような空気もセットになってついてくると、それは暴力になる。「何もしないよりはマシ」どころか「何もしないほうがマシ」になることも現実にありえるのだ。
 
まぁ、実際には喜ばれているとは思うんだよ、全国のタイガーマスクさんたちのプレゼント。でも、報道が盛り上がると共に、だんだんと感謝以外の反応を許さない空気になってきているような気がする。それはいずれ暴力になるか、もうなっているかもしれない。
私の父も、私が欲しいものをくれることはもちろんあって、その時はもちろん嬉しかった。問題だったのは、私が「欲しい」と思っても「欲しくない」と思っても、私には父がくれたものを使って喜ぶ(ふりをする)以外の反応が許されなかったこと。それが父の暴力性だった。
 
まぁ私などの話より、こちらの人の、アフガニスタンの難民キャンプにノートとペンを持っていった話のほうが、ずっとわかりやすいと思うんだけどね。

** 依然 saereal ** | ものをあげるということについて(伊達直人騒動に関連して)
http://saereal.saereal.net/?eid=1587660

 
あと、他に伊達直人関連で気になった記事

Togetter - 「伊達直人の善意をよい方向に定着させるには?」
http://togetter.com/li/88457

Togetter - 「寄付と『信仰』・・・なぜ日本では寄付文化が根づきにくいのか?」
http://togetter.com/li/88547