yuhka-unoの日記

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甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち

子供に与えなさすぎる親というのが、子供にとって快適ではないということは、多くの人が納得するところだろう。ネグレクト(育児放棄)というやつである。しかし、子供に与えすぎる親というのもまた、子供にとって快適ではないケースが多いというのは、あまり知られていないことだ。「過保護なのは確かに子供の成長にはマイナスだが、当の子供にとっては快適なこと。親元にいるのがあまりにも快適すぎて、そこから抜け出せなくなるから、自立心が養われない」―そのように考える人が多い。
しかし、与えすぎる人というのは、ありがた迷惑なことが多いのだ。例えば、こちらが「いえ、もう結構です。もう満腹なんです」と言っても、「そんなこと言わずに、ほらほら」と、どんどん食べ物や飲み物を勧めて来る人。こういう人は、こちらがやんわりと断っているうちは進めるのをやめてくれず、とうとう強い口調でぴしゃりと断らなければならない段階になってやっとやめるのだが、そうしたらそうしたで「せっかく好意でしてあげてるのに」と不機嫌になる。自分が「良いことをした」「相手を喜ばせた」という満足感に浸りたいだけで、こちらの都合など全く考えてくれない。
もしこういう人が親だったら、子供との関係はどうなるのか―
 
私の父はこういう人だった。母も私に感謝を求める傾向があったが、ここでは父のことを話そう。
父が良かれと思って買ってきてくれた服が、私の趣味じゃなくて着たくない。ここで私が「気持ちは有難いけれど、この服は趣味じゃない」と表明することは許されなかった。もし言ったら、父は非常に不機嫌になったからだ。まぁこういうプレゼントを貰った場合、その場ではお礼を言って喜んでおいて、実際には使用しないという手段を用いて、両者の間に波風が立たないようにするという処世術は、多くの人が実行しているところだが、父は私が実際に使用するまで納得しなかった。外へ着ていくのは嫌なので家の中だけで着ようとしても、「来て行かないのは勿体無い」と言ったり、出掛けに「この前買ったあれ着て行ったら」と言ってくる。私は、着たくもない服を来て外出し、その服が気に入ったふりをしなければならなかった。
 
父は、料理をするのが好きで、外食するのも好きな人だった。それは良いのだが、料理と作ると作り過ぎ、外食すると注文し過ぎる癖があった。美味しいことは美味しいのだが、美味しい料理も多すぎると苦しくなる。しかし、父は子供達に対して、「もう満腹だ」と言って残すことを躊躇わせるような威圧感を発していた。
私は腹痛や吐き気を起こし、体が熱いような寒いような感覚に襲われても、父の前では平気なふりをしていた。その後買い物やら何からに連れまわされている間もずっと。
そんなことが続いて、私は外食恐怖症になった。言葉で「もう満腹だ」という意思表示ができないので、体が意思表示するようになったのだろう。食べる前までは空腹であっても、いざ食べ物を前にした途端、腹痛や吐き気などが押し寄せて来て気持ちが悪くなり、食べ物が受け付けなくなった。満腹になることに対する恐怖感があるため、人に食べ物を勧められる状況では安心して食事をすることができず、自分の好きな時に好きなペースで食べられる状況でしか、安心して食事をすることができない。
私はそんな状況になっても、父の前では平気なふりをし続け、自分が父のせいで外食恐怖症になったことは言わなかった。父にとって受け入れられるはずがないことはわかりきっているからだ。
 
思春期に、父親と一緒に外出するのが嫌になった。娘が成長する過程では当たり前にあることだ。しかし、私が父にそれを表明することは許されなかった。父に誘われたら、内心嫌でも付いて行かなければならなかった。もし断る場合は「具合が悪い」というふうに、身体的不調を理由にした。「お父さんと外出する気分じゃない」という理由を表明しても、父が受け入れないことはわかりきっていたからだ。
当時通っていた学校の先生が、「6年生の娘が口をきいてくれない」「娘の好きなCDを買ってあげる時しか接点が持てない」と言っていたのを、心底羨ましく思った。反抗心を表明できるということは、子供が過剰に抑圧されておらず、親を信頼しているということだ。
 
私の父は、自分に対する少しの否定も受け付けない人だった。父の好意には必ず喜ばなければならない。父に不満を言ってはいけない。そういう威圧感を、父以外の家族全員が感じていた。
 

 しかし、「過保護な子供は葛藤なく育っている。ストレス耐性が低い」などという言い方が安易に使われるとしたら、実は養育者と子供との相互作用の上っ面だけを眺めているに過ぎないケースが大半だと思える。

 現実には、子供の方が親の気まぐれなまでのわがままな言動に必死にチューニングして、世代間逆転的な形で、親のメンタル面での安定を保とうと必死なまでに甲斐甲斐しく振舞ってきた経歴を持つことが少なくないのではないか。

 つまり「親子間の葛藤がない」かに見えるのは、子供の側から、必死になって「平和を支えてきた」からこそというべきケースが多いように思える。
(中略)
 子供の方が、むしろそういった親を「あやす」ことを子供の頃から求められ、「オトナとして振舞う」ことを強いられてきた側なのである。
http://kasega.way-nifty.com/kurumefocusing/2009/12/post-c0e5.html

こういった親子関係は、他人から見ると、何の問題も無い、仲の良い親子に見えるだろう。ともすると、親が子供に与えすぎて甘やかしているように見えることすらあるかもしれない。だが、当の子供からすると、自分にとって欲しくないものばかりを与えられ、それを喜ぶことを強要される一方で、自分が本当に欲しいものはほとんど与えられていない。親から甘やかされるどころか、甘えてくる親を子供があやす関係になっているのだ。
 
子供が折り紙で作った指輪やブローチを母親にプレゼントする。母親は、プレゼント自体は別に欲しく無いけれど、子供の気持ちに答えて「ありがとう。嬉しいわ」と喜ぶ。これはとても自然で良い親子関係だ。しかし、この関係が逆転して、プレゼントをするのが親で、喜んであげるのが子供という関係は歪んでいる。子供から感謝の気持ちを搾取している。
部下に酒を注いであげる上司と、その酒を笑顔で受け取る部下。傍からは仲良く談笑しているように見えるこの二人の関係が、「俺の酒が飲めないのか」と言う上司に、胃が痛くなりながら、冷や汗をかきながら、途中でこっそりトイレで吐きながらも、笑顔で酒を受ける部下によって成り立っているものだとしたら…
 
こうして育った子供は、親の甘えを受け止めるばかりで、十分に親に甘えることができなかったため、甘えたい気持ちが満たされないまま大人になり、自分が親になったとき、子供に自分の親と同じことをして甘えてしまうケースがある。そうやって、親から子への抑圧は、世代間で連鎖していくのだ。