「オヤジ層」の無自覚な女性差別を、黒人差別に置き換えてみる
前回記事、『「若者には金が無い」ということが、世間一般的には決して「常識」ではないという現実』に、以下のようなトラックバックを頂いた。
まぁ見事に、前回記事で私が批判した「勘違いオヤジ層」そのまんまで、ここまで来ると自爆芸としか思えなかった。しかし、せっかく良いサンプルを提供して頂いたので、この機会にご紹介させて頂くとともに、「勘違いオヤジ層」の思考回路のどこが問題なのかを述べさせて頂こうと思う。
専業主婦が奴隷とか、意味が判らない。会社で経理をやったり営業をしたりコードを書いたりするよりも、料理したり裁縫したり育児をしたり親兄弟の面倒をみたりする方が得意な人たちがいても当然だし、そういう自分の得意分野をやってくれればそれでいいんじゃないかと思うけど。好きな人、やりたい人が、やっているならそれで別にいいと思う。
前回記事において、専業主婦が置かれている現状を奴隷に例えて話をしたら、「専業主婦を奴隷だなんて!」という反論がけっこう来た。私は、“昭和的奴隷制時代を維持しておきたい層というのは、女性を「家事育児奴隷」にしておくだけでなく、男性を「企業奴隷(社蓄)」にしておきたいとも思っている人たちだと、私は思っている。”とも書いたのだが、女性を「家事育児奴隷」と言ったことに反論はあっても、男性を「企業奴隷(社蓄)」と言ったことには反論がなかった。これは一体どういうことだろうか。
私は、望んで専業主婦・主夫になることに関しては、何ら問題視していない。むしろ、男でも女でも、専業主婦という生き方が選択できるようになれば良いと思っている。しかし、ある特定の層の人が、実質的に選択の自由なくその位置に留め置かれて、その位置にいることで軽く見られて下に扱われているとすれば、それは十分「奴隷的」だろう。
奴隷的かどうかの基準は「どういう仕事をしているか」ではなく「どういう扱いを受けているか」と「自由に選択できるか」だ。外食産業それ自体はただの仕事だが、労働基準法違反が横行していて社員が過労死・過労自殺してしまうような環境は、奴隷的と言える。それと同じだ。しかし、後者について指摘したら、なぜか前者を否定したものだと見なされる。
一度首切られたら就職出来ない、出来ても認可保育園入れない、認可外じゃ給料より保育料の方が高くつく→仕方ないから専業主婦になり
子供の成長後にようやくパートで再就職、と言うのが実際は一番ありがちなルート。
「専業主婦になりたい」のではなく、「子供を産んだら失業する事を前提とした結婚しか出来ない」んだよね。それでも専業主婦になりたがる女は、「高齢独身子無し女」と「無給労働者」を測りにかけた時に後者の方がまだマシと思った、というだけだ。
そして前者の方がマシだと考える女も増えているから非婚化が進んでいる。
昔は、女性は「子供」を産んだら、圧倒的勝者というような評価だったわけです。お世継ぎの男児を産むことが、女性の評価を高めた、ということです。そういうのがけしからん、というようなことを女性側が言うようになって、子供を産んだ女性の評価は大幅に減価されたようなものだ、ということです。
頭がいいとか学があるとか、イノベーションだか創造的能力(笑)だか、英語力があるとか、そういうのは女性の評価としてはあまり重要ではなかった、ということです。気立てが良くて子をたくさんもうけられる女性というのは、それだけで良かった、ということです。特殊な能力なんか必要とされていなかった。
これは丸々、「女性」を「黒人」に置き換えてみれば良い。
「昔は、黒人はたくさん働けたら、圧倒的勝者というような評価だったわけです。白人のためによく働くことが、黒人の評価を高めた、ということです。そういうのがけしからん、というようなことを黒人側が言うようになって、白人のためによく働く黒人の評価は大幅に減価されたようなものだ、ということです。
頭がいいとか学があるとか、イノベーションだか創造的能力(笑)だか、英語力があるとか、そういうのは黒人の評価としてはあまり重要ではなかった、ということです。気立てが良くてたくさん働ける黒人というのは、それだけで良かった、ということです。特殊な能力なんか必要とされていなかった。」
はい、差別以外の何物でもないですね。
そもそも、お世継ぎの男児を産んで高い評価を得ようが、子供が産めなくて欠陥品の扱いを受けようが、男が評価する側であり、女は評価される側であるということに変わりはない。このような状況にあっては、「お世継ぎの男児を産んだ女性」も、結局は男より圧倒的に下の扱いだ。これは黒人奴隷の立場と同じことで、黒人は、よく働ける黒人だろうが、働けない黒人だろうが、白人にとって都合が良いか悪いかでしか評価されないということそのものが、差別であり、奴隷扱いということだ。
従って、「子供を産んだ女性の評価は大幅に減価された」という認識は間違いだ。実際に女性側が「けしからん」と言ってきたのは、「女を、男の都合で一方的に評価すること」である。女性が男の一方的な評価から解放されるということは、子供を産んだ女性であれ産んでいない女性であれ、女性の地位が大幅に向上するということだ。主人から高い評価を受けている黒人奴隷よりも、現代の奴隷から解放された黒人のほうが、圧倒的に地位が向上しているのと同じように。
もちろん、奴隷から解放されても、人は労働をする。しかし、それは白人のための奴隷労働ではなく、自分のための労働だ。「お家」のために子供を産まされるのではなく、自分が産みたいと思ったから産む世の中になるのが、女性の「奴隷的立場」からの解放である。
ちなみに、「お世継ぎの男児を産んだ女性」と「子供を産めない女性」の間で対立があるかのように思う思考回路は、典型的な「分断統治」と言われる現象で、この手の差別問題や支配・被支配の関係において、非常によくある現象だ。植民地を支配する際、ある部族を優遇し、他の部族を冷遇すると、優遇された部族と冷遇された部族の間で対立が起こる。支配する側は、これをただの部族間の対立と捉え、自分はまるで他人事のような認識を持つが、実際のところは、この部族間対立の原因は支配する側にある。ルワンダのフツとツチの対立もそうだし、黒人差別問題については、キング牧師とマルコムXの評価のされ方が顕著だろう。
要するに、女性の側が、あれこれと小難しい理屈をつけて、あれも嫌だ、これも嫌だ、ということで拒否することが多くなって、男側の問題が多すぎるからだの子を産む女性を賛美するなだのと、女性側の主張を取り入れてきた結果が、今の「結婚できない社会」なんだわ。
これも「女性」を「黒人」に置き換えてみよう。
「要するに、黒人の側が、あれこれと小難しい理屈をつけて、あれも嫌だ、これも嫌だ、ということで拒否することが多くなって、白人側の問題が多すぎるからだのよく働く黒人を賛美するなだのと、黒人側の主張を取り入れてきた結果が、今の『働けない社会』なんだわ。」
形式上、黒人奴隷は解放されたものの、白人社会が黒人の社会進出を阻み、相変わらず弁護士や大学教授などになるのは白人ばかりで、黒人のほとんどは召使や大工やセックスワークに従事せざるをえない状況なのに、「黒人が奴隷じゃ嫌だっていうから解放してあげたんだよ?なのに、あれも嫌これも嫌って、一体どうしたいの?」などと言っている白人のようですね。
こう言っている白人の中では、無意識に「黒人は奴隷」がデフォルトだから、「奴隷」を基準にすれば、黒人は十分社会進出しているように見える。無意識に「女は家庭」がデフォルトという認識の人にとっては、女性は十分社会進出しているように見えるように。実際は沢山のマイノリティが貧困状態にあるにも関わらず、マジョリティにとっては「社会進出してバリバリやってるマイノリティ」しか見えていないために、貧困層のマイノリティが放置されるというのは、この手の問題ではよくあることだ。
このような社会状況では、黒人の地位は未だに「奴隷的」と言えるだろう。その社会構造を無視して「好きな人、やりたい人が、やっているならそれで別にいいと思う」と言うのなら、それは現状の問題を隠蔽しているだけに過ぎない。
いや、別に現代の子育てを否定しているわけじゃないよ。だけど、女性側の注文が多くて、どの層に照準を合わせても、必ず文句が出るわけ。
そして、小難しい理屈を言う女性たちが、あれこれとひっかきまわした結果なのではないか、と。もっと本能的なものなんじゃないのかな、と。本当に彼女たちの意見が正しかったのなら、幸せだという女性たちがもっと街にあふれていなければならないはずだから。
そりゃあ、「男=評価する側」「女=評価される側」という認識から一歩も抜けられないのなら、「どの層に照準を合わせても、必ず文句が出る」ことになるだろう。「白人=評価する側」「黒人=評価される側」という認識から抜けられない白人も、同じ認識を持つだろう。「何やっても、黒人が文句を言う」「小難しい理屈を言う黒人たちが、あれこれとひっかきまわす」というふうに。こういう認識でいる白人は、黒人が自分たちをひっかきまわしているのだと思っている。だが実際は、分断統治のことといい、白人が黒人をひっかきまわした結果なのだ。
日本は、ジェンダー意識においては、全く先進国ではない。男と女が食事で同席する時、女性にお酌をさせる人や、女性にだけお茶汲みをさせる職場は、いまだに沢山ある。もしも、白人と黒人が食事で同席する時、黒人が白人の給仕をするということになっていたら、それはどう見ても差別だ。そして、それを指摘した時に、白人が「これはわが国の伝統ですので」「黒人たちにとっては、それが喜びなんですよ」などと答えたら、この白人は無自覚な人種差別主義者だ。女性にだけお酌やお茶汲みをさせるというのは、つまりはそういうことだ。現代日本は、このような「黒人が白人の給仕をする」レベルの差別が、いまだにまかり通っている社会なのだ。
さて、こういうことを書くと、必ずと言って良いほど「そんな攻撃的な言い方じゃ理解されないよ」「そうやって感情を吐き出してるだけじゃ解決しないよ」などと言う人が現れるのだが、そういった反応も、過去のあらゆる差別問題において、「差別を訴えられた時の、典型的な差別者の反応」として繰り返されてきたものに過ぎないということを、先に述べておく。
マジョリティは、マイノリティが「冷静に」「伝わるように」「やさしく」主張しているうちは、マイノリティの話を聞かずに放置し続け、とうとう痺れを切らしたマイノリティが、「できるだけ、『冷静に』『伝わるように』『やさしく』主張していても、埒が明かない!」と怒りを表明すると、マジョリティが怒りを表明した集団を「過激派」「感情的」と見なして、「穏健派」との分断を図ろうとするのは、過去に解放運動の歴史で何度も繰り返されてきたことだ。マジョリティは、怒りを表明した「過激派」の存在によって、やっと問題の存在に気付かされない限りは、「冷静に」「伝わるように」「やさしく」主張する「穏健派」の言うことすら聞かないという構造がある。
オヤジというだけで、目の敵にされているのではない。自らの差別性に無自覚だから、批判されているのだ。
―ジョン・レノン「Woman Is The Nigger Of The World(女は世界の奴隷か!)」―
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