yuhka-unoの日記

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アスリートに対してブラック企業経営者になる私たち

 安藤選手は、25歳になる大人の女性だ。
 とすれば、誰と交際しようが、どんなカタチでいつ出産しようが本人の自由であるはずだ。

 なのに、その妊娠について、あれこれ言いたがる人が多いのは、結局のところ、これまで、長い間、われわれが女子選手に、「娘」としての役割を担わせてきたことの反作用なのだ。

 「浅田選手」、「安藤選手」ではなく「真央」「美姫」という見出しの付け方は、記事を書く人々が、彼女たちを「娘」ないしは「身内の子供」として扱っていることを意味している。
姫は城を出て母になる:日経ビジネスオンライン

アスリートが「身内の子供」扱いされていることについては、私もその通りだと思う。この表現に近いこととして、私は以前から、アスリートは「学生」みたいな扱いだと思っていた。そもそも、日本におけるスポーツの認識自体が、学校の体育や部活の延長みたいなものになっているということもあって。だから、「学生」なのに妊娠したり、茶髪やピアスをしたりするのはけしからん、ということになるんじゃないだろうか。「真剣にスポーツに打ち込んでいるのなら、茶髪やピアスなどといったことに現を抜かしている暇なんてないはずだ」といった言説は、いまだにスポーツ界には根強い。それはどこぞのブラック企業的な価値観と同一だ。
そういえば、求人広告に「アットホームな職場です」と書いていながらブラック企業というケースも多いけれど、「身内の子供」と「アットホームな職場です」は、似ているような気がする。職場の若い女の子を下の名前で呼び、「○○ちゃん、ダメだよぉ、そろそろ結婚とか考えないと〜」などと、プライベートに口出ししてくるオジサンが沢山いる「アットホームな職場」、まじうぜぇ。
 
バンクーバー五輪の時、スノーボード國母和宏選手の服装が問題になった。あの件について私が思ったことは、「式典などの場じゃなくて、空港で移動中の服装なら、それほどうるさく言うことないんじゃないの?むしろ、飛行機の狭い座席で長時間移動するのなら、服装の目的が『きちんとした格好をすること』よりも、『体調管理を考慮した、疲れない格好にすること』にしたほうが良いんじゃないのかな。そもそも、スーツである必要すらないのでは。ジャージで移動すれば良いのに」だった。服装問題がエスカレートするにつれ、彼の髪型や髭まで槍玉に上がっていたが、そこは本来問題にしなくても良い部分だと思う。あの件は、一種の「モラル・パニック」だったのだろう。
 
以前見たテレビ番組で、新たに就任したバレーボールのコーチが、自分の指導方針として「茶髪禁止」を挙げていたが、一方で「世界を目指す」とも言っていた。「世界」ということで言えば、茶髪やドレッドヘアを禁止するのは、人種差別にあたるのではないだろうか。もし服装を指導するのなら、ジャケットのボタンの留め方や、ある程度フォーマルな場に出て行く時の靴下や靴の選び方など、そういったスーツを着る上での「基本のキ」を教えたほうが、茶髪を禁止するよりも、余程国際的な場に出て行く時のためになると思う。
学生の服装指導というのは、「素行不良」を防ぐためというのが目的になっているので、「ドレスコード」とはまた違うものだ。第一、髪を染めたりピアスをつけたりといったことに対する制限は、一般企業や官庁といった、いわば「お堅い職業」の人に適用されるもので、それ以外の社会人には、あまり適用されないものだと思う。スポーツ選手というのは、どちらかというと「それ以外の社会人」の範疇に入るのではないだろうか。ましてや、アマチュアの選手にまで適用されるものなのだろうか。アマチュアなら、髪型やピアスについては、本人と学校、または本人と会社の間の問題であり、それ以外の人間が特に口を挟むことではないのではないだろうか。

 今回の國母選手は、自分の職業や個性におけるパーソナルデザインはできていましたが、マクロの環境においてパーソナルデザインはできていなかった。そして、飛び抜けた個性を表現したスタイルだっただけに、批判を受けてしまった。しかし、そのおかげで何か得るものはあったのではないかと思うのです。

 一方、まったく個性を表現せず、保守的で目立たないビジネスマン。普通であるから誰も何も言わないものの、グローバルスタンダードからすると不思議な着こなしのビジネスマン。陰では言われても、目の前では何も言われないから、ずっとそのスタイルを続けてしまう。結果、損する場面が延々と続くかもしれないのです。
Business Media 誠:スノボー・國母選手のスタイルをパーソナルデザインの視点から見る (1/3)

 
以前、伊藤忠商事の社長さんが“「イクメン、弁当男子」は、なぜ出世できないか”というタイトルの記事を書いて、大炎上したことがあった。あの件については既に沢山の人が指摘している通り、ああいった差別的な発言を企業のトップがしたら、グローバル的価値観では、「あの企業は大丈夫なのか」という目で見られてしまう。社長氏は記事の中で、最近の「草食系」な若者のことを「温室育ち」と表現していたが、周りに誰も注意してくれる人がいない「温室」の中で、意識が更新されないまま来てしまった偉いオジサンの感覚が、グローバルな場に出ると全く通用せず、思わず発した言葉が大問題になってしまうのは、よくあることだ。そういう面で、立場が上になるというのは怖いことだと思う。
私は、伊藤忠商事社長の記事が炎上した件と、スポーツ選手への茶髪ピアスの制限には、共通するものを感じてしまう。若者に対して「世界に目を向けろ」「グローバル意識を持て」と言う年長者が、グローバル的な価値観では到底通用しないジェンダー観や労働観を持っていることと、「世界を目指す」と言いながら、選手に対して世界に通用するわけでもなさそうな服装指導をしていることと。そういえば、柔道界の体罰セクハラ問題も、組織内でのセクハラやパワハラに対する意識が、全く世界レベルに批准していなかったことから生じたと言えるのではないだろうか。
 
そして、今回の安藤美姫選手の出産の件も、私には同一線上の問題に思える。ひとり親世帯の人に対して、子供の親が誰かなんて根掘り葉掘り詮索したりしないのが、大人同士の距離の取り方だ。しかし、相手に対して「身内の子供」や「学生」といった意識を持ってしまった場面では、途端にその距離感や遠慮はなくなり、自分は相手に対して、保護者的目線でお説教しても良い立場なのだと思ってしまう。だから、本来他人に教える必要のない父親の名前を、自分たちに教えて当然だと思ってしまうのだろう。子供をあやしてオムツを替えてくれるわけでもない赤の他人に、父がは誰なのかを言う必要なんてないのは当然だ。アスリートは、みんなの「身内の子供」でも「学校の生徒」でもないのだから。
現代、欧米の先進諸国では、未婚のひとり親は全く珍しいものではなくなっている。今回の安藤選手の件で思い出したが、フランスの政治家ラシダ・ダチ氏は、法務大臣在任期間中に、未婚で父親の名を公表せずに出産していた。安藤選手自身も、インタビューの中で、何かあればすぐ「そんなことをしている暇があるなら練習しなさい」と言われてしまう日本とは違い、バカンスを一ヶ月、最低でも2週間取って、自分のプライベートライフを持っているアメリカの選手たちの価値観に触れたことを言っていた。

ひとつは、「西欧の先進国では、生まれる子供の半分近くが、婚外子になりつつある」ということです。日本では「結婚が出産の前提」だと思ってる人がたくさんいますが、他の先進国では既にそうではありません。
結婚はオワコン!? - Chikirinの日記

フランスの独身法相が女児出産 父親は明かさず - 47NEWS(よんななニュース

 
これらの件についてわかるのは、私たちは、ブラック企業のことについて話す時は、労働者の側に立ってブラック企業を批判するのに、アスリートに対しては、ブラック企業経営者と同じ感覚になってしまい、「そんなことをしている暇があるのか」などと、他人を拘束したり、プライベートに介入する傾向があるということだ。アスリートに対して「税金を払ってやっているのに」と言う人が沢山いるけれど、実にブラック企業経営者的な言い方だ。こういうことを言う人は、アスリートに対して税金を払っているのは自分だけではないということを忘れているんじゃないかと思う。税金を払っている人たちの考えは様々で、アスリートに対する意見も様々だ。
もし「払ってやっている」という意識を持つのなら、自分が一年間に払っている税金のうち、どれだけの金額がアスリートに投入されているのか、その金額は、アスリートに対してそこまで要求するのに見合うほどの金額か、そもそも経営者が従業員に対して、恋愛や妊娠出産やプライベートにまで口出ししても良いのか、どの程度従業員を仕事のために拘束しても許されるのかを、考えてみたら良いと思う。それが「経営者目線」ってもんだと思うよ。
 
あまり関係のない話。安藤選手の子供の名前が「ひまわり」だと知って、真っ先に「クレヨンしんちゃん」が思い浮かんだけど、そういえば織田信成選手の子供の名前が「信太朗」だったことを思い出した。もう完全にしんちゃんとひまわり。

「オヤジ層」の無自覚な女性差別を、黒人差別に置き換えてみる

前回記事、『「若者には金が無い」ということが、世間一般的には決して「常識」ではないという現実』に、以下のようなトラックバックを頂いた。

「女性の社会進出」という名の不幸? - いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」別館

まぁ見事に、前回記事で私が批判した「勘違いオヤジ層」そのまんまで、ここまで来ると自爆芸としか思えなかった。しかし、せっかく良いサンプルを提供して頂いたので、この機会にご紹介させて頂くとともに、「勘違いオヤジ層」の思考回路のどこが問題なのかを述べさせて頂こうと思う。
 

専業主婦が奴隷とか、意味が判らない。会社で経理をやったり営業をしたりコードを書いたりするよりも、料理したり裁縫したり育児をしたり親兄弟の面倒をみたりする方が得意な人たちがいても当然だし、そういう自分の得意分野をやってくれればそれでいいんじゃないかと思うけど。好きな人、やりたい人が、やっているならそれで別にいいと思う。

前回記事において、専業主婦が置かれている現状を奴隷に例えて話をしたら、「専業主婦を奴隷だなんて!」という反論がけっこう来た。私は、“昭和的奴隷制時代を維持しておきたい層というのは、女性を「家事育児奴隷」にしておくだけでなく、男性を「企業奴隷(社蓄)」にしておきたいとも思っている人たちだと、私は思っている。”とも書いたのだが、女性を「家事育児奴隷」と言ったことに反論はあっても、男性を「企業奴隷(社蓄)」と言ったことには反論がなかった。これは一体どういうことだろうか。
私は、望んで専業主婦・主夫になることに関しては、何ら問題視していない。むしろ、男でも女でも、専業主婦という生き方が選択できるようになれば良いと思っている。しかし、ある特定の層の人が、実質的に選択の自由なくその位置に留め置かれて、その位置にいることで軽く見られて下に扱われているとすれば、それは十分「奴隷的」だろう。
奴隷的かどうかの基準は「どういう仕事をしているか」ではなく「どういう扱いを受けているか」と「自由に選択できるか」だ。外食産業それ自体はただの仕事だが、労働基準法違反が横行していて社員が過労死・過労自殺してしまうような環境は、奴隷的と言える。それと同じだ。しかし、後者について指摘したら、なぜか前者を否定したものだと見なされる。

一度首切られたら就職出来ない、出来ても認可保育園入れない、認可外じゃ給料より保育料の方が高くつく→仕方ないから専業主婦になり
子供の成長後にようやくパートで再就職、と言うのが実際は一番ありがちなルート。
「専業主婦になりたい」のではなく、「子供を産んだら失業する事を前提とした結婚しか出来ない」んだよね。

それでも専業主婦になりたがる女は、「高齢独身子無し女」と「無給労働者」を測りにかけた時に後者の方がまだマシと思った、というだけだ。
そして前者の方がマシだと考える女も増えているから非婚化が進んでいる。

現実の専業主婦の大多数はただの失業者でしかない

 

昔は、女性は「子供」を産んだら、圧倒的勝者というような評価だったわけです。お世継ぎの男児を産むことが、女性の評価を高めた、ということです。そういうのがけしからん、というようなことを女性側が言うようになって、子供を産んだ女性の評価は大幅に減価されたようなものだ、ということです。


頭がいいとか学があるとか、イノベーションだか創造的能力(笑)だか、英語力があるとか、そういうのは女性の評価としてはあまり重要ではなかった、ということです。気立てが良くて子をたくさんもうけられる女性というのは、それだけで良かった、ということです。特殊な能力なんか必要とされていなかった。

これは丸々、「女性」を「黒人」に置き換えてみれば良い。
「昔は、黒人はたくさん働けたら、圧倒的勝者というような評価だったわけです。白人のためによく働くことが、黒人の評価を高めた、ということです。そういうのがけしからん、というようなことを黒人側が言うようになって、白人のためによく働く黒人の評価は大幅に減価されたようなものだ、ということです。
頭がいいとか学があるとか、イノベーションだか創造的能力(笑)だか、英語力があるとか、そういうのは黒人の評価としてはあまり重要ではなかった、ということです。気立てが良くてたくさん働ける黒人というのは、それだけで良かった、ということです。特殊な能力なんか必要とされていなかった。」
はい、差別以外の何物でもないですね。
 
そもそも、お世継ぎの男児を産んで高い評価を得ようが、子供が産めなくて欠陥品の扱いを受けようが、男が評価する側であり、女は評価される側であるということに変わりはない。このような状況にあっては、「お世継ぎの男児を産んだ女性」も、結局は男より圧倒的に下の扱いだ。これは黒人奴隷の立場と同じことで、黒人は、よく働ける黒人だろうが、働けない黒人だろうが、白人にとって都合が良いか悪いかでしか評価されないということそのものが、差別であり、奴隷扱いということだ。
従って、「子供を産んだ女性の評価は大幅に減価された」という認識は間違いだ。実際に女性側が「けしからん」と言ってきたのは、「女を、男の都合で一方的に評価すること」である。女性が男の一方的な評価から解放されるということは、子供を産んだ女性であれ産んでいない女性であれ、女性の地位が大幅に向上するということだ。主人から高い評価を受けている黒人奴隷よりも、現代の奴隷から解放された黒人のほうが、圧倒的に地位が向上しているのと同じように。
もちろん、奴隷から解放されても、人は労働をする。しかし、それは白人のための奴隷労働ではなく、自分のための労働だ。「お家」のために子供を産まされるのではなく、自分が産みたいと思ったから産む世の中になるのが、女性の「奴隷的立場」からの解放である。
 
ちなみに、「お世継ぎの男児を産んだ女性」と「子供を産めない女性」の間で対立があるかのように思う思考回路は、典型的な「分断統治」と言われる現象で、この手の差別問題や支配・被支配の関係において、非常によくある現象だ。植民地を支配する際、ある部族を優遇し、他の部族を冷遇すると、優遇された部族と冷遇された部族の間で対立が起こる。支配する側は、これをただの部族間の対立と捉え、自分はまるで他人事のような認識を持つが、実際のところは、この部族間対立の原因は支配する側にある。ルワンダのフツとツチの対立もそうだし、黒人差別問題については、キング牧師マルコムXの評価のされ方が顕著だろう。
 

要するに、女性の側が、あれこれと小難しい理屈をつけて、あれも嫌だ、これも嫌だ、ということで拒否することが多くなって、男側の問題が多すぎるからだの子を産む女性を賛美するなだのと、女性側の主張を取り入れてきた結果が、今の「結婚できない社会」なんだわ。

これも「女性」を「黒人」に置き換えてみよう。
「要するに、黒人の側が、あれこれと小難しい理屈をつけて、あれも嫌だ、これも嫌だ、ということで拒否することが多くなって、白人側の問題が多すぎるからだのよく働く黒人を賛美するなだのと、黒人側の主張を取り入れてきた結果が、今の『働けない社会』なんだわ。」
形式上、黒人奴隷は解放されたものの、白人社会が黒人の社会進出を阻み、相変わらず弁護士や大学教授などになるのは白人ばかりで、黒人のほとんどは召使や大工やセックスワークに従事せざるをえない状況なのに、「黒人が奴隷じゃ嫌だっていうから解放してあげたんだよ?なのに、あれも嫌これも嫌って、一体どうしたいの?」などと言っている白人のようですね。
 
こう言っている白人の中では、無意識に「黒人は奴隷」がデフォルトだから、「奴隷」を基準にすれば、黒人は十分社会進出しているように見える。無意識に「女は家庭」がデフォルトという認識の人にとっては、女性は十分社会進出しているように見えるように。実際は沢山のマイノリティが貧困状態にあるにも関わらず、マジョリティにとっては「社会進出してバリバリやってるマイノリティ」しか見えていないために、貧困層のマイノリティが放置されるというのは、この手の問題ではよくあることだ。
このような社会状況では、黒人の地位は未だに「奴隷的」と言えるだろう。その社会構造を無視して「好きな人、やりたい人が、やっているならそれで別にいいと思う」と言うのなら、それは現状の問題を隠蔽しているだけに過ぎない。
 

いや、別に現代の子育てを否定しているわけじゃないよ。だけど、女性側の注文が多くて、どの層に照準を合わせても、必ず文句が出るわけ。

そして、小難しい理屈を言う女性たちが、あれこれとひっかきまわした結果なのではないか、と。もっと本能的なものなんじゃないのかな、と。本当に彼女たちの意見が正しかったのなら、幸せだという女性たちがもっと街にあふれていなければならないはずだから。

そりゃあ、「男=評価する側」「女=評価される側」という認識から一歩も抜けられないのなら、「どの層に照準を合わせても、必ず文句が出る」ことになるだろう。「白人=評価する側」「黒人=評価される側」という認識から抜けられない白人も、同じ認識を持つだろう。「何やっても、黒人が文句を言う」「小難しい理屈を言う黒人たちが、あれこれとひっかきまわす」というふうに。こういう認識でいる白人は、黒人が自分たちをひっかきまわしているのだと思っている。だが実際は、分断統治のことといい、白人が黒人をひっかきまわした結果なのだ。
 
日本は、ジェンダー意識においては、全く先進国ではない。男と女が食事で同席する時、女性にお酌をさせる人や、女性にだけお茶汲みをさせる職場は、いまだに沢山ある。もしも、白人と黒人が食事で同席する時、黒人が白人の給仕をするということになっていたら、それはどう見ても差別だ。そして、それを指摘した時に、白人が「これはわが国の伝統ですので」「黒人たちにとっては、それが喜びなんですよ」などと答えたら、この白人は無自覚な人種差別主義者だ。女性にだけお酌やお茶汲みをさせるというのは、つまりはそういうことだ。現代日本は、このような「黒人が白人の給仕をする」レベルの差別が、いまだにまかり通っている社会なのだ。
 
さて、こういうことを書くと、必ずと言って良いほど「そんな攻撃的な言い方じゃ理解されないよ」「そうやって感情を吐き出してるだけじゃ解決しないよ」などと言う人が現れるのだが、そういった反応も、過去のあらゆる差別問題において、「差別を訴えられた時の、典型的な差別者の反応」として繰り返されてきたものに過ぎないということを、先に述べておく。
マジョリティは、マイノリティが「冷静に」「伝わるように」「やさしく」主張しているうちは、マイノリティの話を聞かずに放置し続け、とうとう痺れを切らしたマイノリティが、「できるだけ、『冷静に』『伝わるように』『やさしく』主張していても、埒が明かない!」と怒りを表明すると、マジョリティが怒りを表明した集団を「過激派」「感情的」と見なして、「穏健派」との分断を図ろうとするのは、過去に解放運動の歴史で何度も繰り返されてきたことだ。マジョリティは、怒りを表明した「過激派」の存在によって、やっと問題の存在に気付かされない限りは、「冷静に」「伝わるように」「やさしく」主張する「穏健派」の言うことすら聞かないという構造がある。
オヤジというだけで、目の敵にされているのではない。自らの差別性に無自覚だから、批判されているのだ。
 
ジョン・レノン「Woman Is The Nigger Of The World(女は世界の奴隷か!)」―

 
 
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「そんな○○ばかりじゃない。(自分みたいな)ちゃんとした○○もいる」とアピールすることについて

「若者には金が無い」ということが、世間一般的には決して「常識」ではないという現実

NHKスペシャル「仕事と子育て 女のサバイバル 2013」という番組の中で、宇野常寛氏が「核家族でこどもを育てるなんて無理ゲー。超裏ワザとか使わないと攻略不可能。それを今まで専業主婦っていうどうみてもジェンダー的にだめでしょってものを導入してなし崩し的にやってきた」と発言していて、「そうそう!」と思った。
よく少子化の原因について、「女性の社会進出が進んで、選択肢が増えたから」という言い方がなされることが多いけど、それはちょっとどうなんだと思う。実際は、「今まで専業主婦っていうどうみてもジェンダー的にだめでしょってものを導入してなし崩し的にやってきた」からなんだよね。
例えば、今までは奴隷制によって社会システムを維持してきたのが、それがうまくいかなくなったからって、「奴隷が解放されたことによって、社会の生産性が低下したんだ」と言うのは、それはあまりにも元奴隷層に対してデリカシーがないんじゃないのかという話だ。今まで、奴隷制を前提とした社会システムになっていたのが間違いなのだから。あと、バブル崩壊は「奴隷解放」とは関係ないのだし。
 
そもそも、「女性の社会進出が当たり前になった」と言えるのは、女性が子供が生まれても仕事を続けていけて当たり前の世の中になってからだと思う。だって男性は、子供が生まれても仕事を続けていけて当たり前なのだから。現状、女性は「子供が生まれたら、社会進出できなくなる」のが現実だ。そんな状態なのに、「女性の社会進出が当たり前になった」とは言えないと思う。
そして、現状では、表面上「経済発展のためには、女性の力が大事」と言いつつ、女性を家庭に戻したい…つまり、昭和的奴隷制時代を維持しておきたい層と、奴隷解放を目指す層との拮抗が続いているのが、今の時代だと思う。男性社会にどっぷり浸かってしまっている人たちからは、女性は十分に社会に進出しているように見えるのだろうが、現実はそうではない。これは、黒人解放の過程での白人と黒人の感覚の剥離と同じ現象だ。つまり、女性の社会進出は、まだまだ「当たり前」ではなく、途上なのだ。日本は「女性の社会進出・発展途上国」だ。
昭和的奴隷制時代を維持しておきたい層というのは、女性を「家事育児奴隷」にしておくだけでなく、男性を「企業奴隷(社蓄)」にしておきたいとも思っている人たちだと、私は思っている。高度経済成長期というのは、男性を企業に繋ぎ止めて働かせられる状態を維持するために、女性を家に繋ぎ止めて男性と子供の世話を焼かせるというシステムで成り立っていたのだから。
 
『専業主婦が一般的だったのは高度経済成長期の数十年、たった1世代でしかないという事実』という有名なコピペがあったが、私は、専業主婦が一般的になる条件は、大きく分けて「家電が普及していること」と「家族のうち一人だけが働いて、それで十分家族を養っていけること」の二つだと思う。現代は後者の条件が崩れた時代というわけだ。
「女性が社会進出した」と言っても、現状は女性の半数以上が非正規雇用だし、若年層では「家族のうち一人だけが働いて、それで十分家族を養っていける」人が減っている。その状況で共働きが難しいとなれば、そりゃ少子化も進むだろう。少子化の主な理由は、若年層に経済的余裕がないからだ。
しかし、若者のほとんどが、数字で示されずとも体感的に実感している、「若者には金が無い」という現状は、日本のマジョリティ、つまり、バブル海溝の向こう側にいる「オヤジ層」にとっては、全く「常識」ではないのだと思う。彼らはたぶん、「若者には金が無い」ということを、本気でわかっていないのだ。年長者たちが現代の若者について抱いている「若者は、物が溢れた豊かな時代に生まれて、苦労も不満もなく育ってきた世代」というイメージも、「若者には金が無い」ということを、わかっていないことから来ているのだろう。
この国の「世間一般」の感覚は、マジョリティである「オヤジ層」が作っている。たぶん、「若者には金がない」という現状は、若者の間では「常識」ではあっても、この日本社会、世間一般的には、決して「常識」ではないのだと思う。そりゃそうだ。彼らにとっての主な情報源であるテレビや新聞といったメディアで、若者の貧困問題がどれだけ取り上げられているというのだろうか。「オヤジ層」にとっては、「若者には金が無い」という現状をわかっていないのがデフォルトであって、余程社会に対するアンテナ感度が高い人か、若者と同じ状況に置かれている人でないと、理解することができないことなのだろう。
 
たぶん、バブル海溝の向こう側の「オヤジ層」が見ている世界は、「若者には金が無い」ということがよくわからない一方で、女性が社会進出してきたのはわかる、というよりは、女性の社会進出を現状よりも過大評価しているという、そういう世界観になっているのだと思う。だから少子化の原因について、「女性の社会進出が進んだから」と考えてしまうのかもしれない。もっと言うと、「自分を高嶺の花だと勘違いした女が、えり好みしているから、婚期を逃すんだろ」と考えている「オヤジ」も、決して少なくはないと思う。「女性手帳」というのは、そういう発想なんだろうしね。
少子化が進んでいることについて「女がぼんやりしてるから」「自分を高嶺の花だと勘違いした女が、えり好みしているから」と言うのは、若者の就職難について「若者がえり好みしているから」「選ばなければ仕事はある」と言うのと同じだ。これらは、若者を取り巻く雇用や経済状況の現状を認識できていないということで、地続きの問題だ。
そもそも、第三次ベビーブームが来なかったのだって、バブルが弾けて就職氷河期の煽りを食らった団塊ジュニア世代を、全く救済せずに放置したから、こんなことになったのだ。「女性手帳」は、さも「女性が、出産リスクが高くなる年齢をきちんと意識できていないから、少子化が進むのだ」と言わんばかりだか、実際は政府こそが、団塊ジュニア世代の出産リスクが高くなる年齢をきちんと意識できておらず、ぼんやりしていたということなのではないだろうか。
 

NHKで、少子化と女性の働き方についての番組が、立て続けに放送されたけど、内容的には「はぁ?まだそんなこと言ってんの?」と言いたくなるようなものだった。

女性だけではなく、全ての人が、自分に合った生き方の選択ができるようになるのは、とても大切なことだけど、そのためにはまず、専業主婦が一般的だったのは、高度経済成長期以降の数十年だけだったということと、今の若者には金が無いということが、世間一般の「常識」になる必要があるのかもしれない。それによって、「今のままでは、どう考えても無理ゲーですね」という現状認識を共有し、それを前提として話ができる状態にするところからはじめたほうが良いのかもしれないと、そんな気がした。
 

 総務省統計局「労働力調査詳細結果」によると、非正規雇用者数は年々増加しており、2006年は前年比3.6%増の1677万人となった。雇用者(役員を除く)全体に占める非正規雇用者の比率をみると、2000年には26.1%だったのが、2006年には33.0%と、6年間で約7ポイント上昇している(図1)。つまり、今や働いている人の3人に1人は非正規雇用なのだ。男女別では、女性52.9%、男性17.9%と、女性の半数以上が非正規雇用で働いていることになる。
増える非正規雇用 : gooリサーチ

 日本における母子家庭の母親の就業率は84.5%で、先進国の中でも高い。だが、平均年収は低い。背景にあるのが非正規雇用の拡大だ。

 数カ月前に、働く人の3人に1人が非正規雇用となっていることが、総務省労働力調査で明らかになったが、男女別の比率を見ると女性の方が圧倒的に高い。

 25〜34歳では、男性16%に対して女性39.7%。35〜44歳では、男性8.5%、女性54.9%と、この年代で働く女性の2人に1人が非正規雇用ということになる。

 「あしなが育英会」の報告では、遺児家庭の63%が非正規雇用で、母子家庭の手取り収入は月平均約12万5000円。6割以上の家庭が教育費の不足を訴え、高校生がいる世帯のうち、39.7%が経済的理由から進学をあきらめていたことも、同時に報告されている。
「えっ、3人に1人!」 無視され続けた女性の貧困問題の窮状:日経ビジネスオンライン

 
〔追記〕
続きを書きました。
「オヤジ層」の無自覚な女性差別を、黒人差別に置き換えてみる
 

 
【関連記事】
「若者は、物が溢れた豊かな時代に生まれて、苦労も不満もなく育ってきた世代」というイメージ

「昔は良かった。発達障害者も社会の中で受け入れられて生活していたんじゃ」という幻想

発達障害はあの「ニュータイプ」かもしれない〜アスペから自閉症スペクトラムへ(田中 俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース

上の記事、発達障害についてある程度知識がある人なら、すぐにトンデモだとわかる内容なんだけど、でも実際、発達障害に対するトンデモ認識としては、わりとよくある、というか、「典型的なトンデモ認識」と言っても良いような内容なので、これを機会に、発達障害についてのよくある誤解について書いてみることにする。
 

これら精神障害や発達障がいは、近代社会が「発明」したものかもしれず、近代社会成立以前にはこのような障がい名は世界に存在していなかった。
発達障害はあの「ニュータイプ」かもしれない〜アスペから自閉症スペクトラムへ(田中 俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース

精神障害発達障害の名称が近代以前に存在していなかったのは、近代社会が「変わった人」を排除するために、そのようなカテゴライズを必要としたのだというのは、発達障害に纏わる典型的な誤解のひとつだが、実際のところは、他の多くの障害や疾患と同様、近代になってから医学が発展したからだ。
身体的な疾患だって、病気の原因が突き止められて病名がついたのは、近代になってからというのは、ごまんとある。身体の仕組みについての研究が進んだことによって、それまで私たちの身体の中に存在していたものが解明されて、名前が付けられたものも、ごまんとある。例えば、神経細胞について「ニューロン説」が提唱されたのは、近代になってからだが、もちろんそれ以前から、私たちの身体の中には「ニューロン」や「シナプス」は存在していて、情報伝達を行っていた。それと同じだ。「発明」というよりは「発見」と言ったほうが良いだろう。
 
アスペルガー症候群」の名称は、オーストリア出身の小児科医ハンス・アスペルガーに由来する。

1944年、彼はアスペルガー症候群の最初の定義を著した。4人の男児において、彼が「自閉的精神病質」と呼んだ、自閉症(そのもの)と精神病質(人格の疾患)を意味する行為や能力のパターンが見られた。そのパターンには、「共感能力の欠如、友人関係を築き上げる能力の欠如、一方的な会話、特定の興味における極めて強い没頭、ぎこちない動作」が含まれる。彼はアスペルガー症候群(AS)の子供達が、興味のある事柄について非常に詳細に語る能力を持っていることから、彼らを「小さな教授たち」と呼んだ。

アスペルガーは、この行為のパターンの同定が広く認識される前に死亡した。なぜなら、彼の仕事はほとんどドイツで行われ、ほとんど翻訳されることがなかったからである。「アスペルガー症候群」という術語を初めて用いた人物は、イギリスの研究者ローナ・ウィングである。彼女の論文「アスペルガー症候群−臨床報告」が1981年に発表され、1943年にカナーが発表した従来の自閉症モデルに異議を申し立てた。

ハンス・アスペルガー - Wikipedia

アスペルガー症候群」という名称が初めて使われたのは、ローナ・ウィングが1981年に発表した論文の中なので、アスペルガー症候群がつい最近になって知られるようになったのは、ごくごく当たり前の話である。ちなみに、ウィングがこの研究に取り掛かった動機は、娘が自閉症だったからだそうだ。
私自身は発達障害当事者ではあるものの専門家ではないので、発達障害の歴史について詳しいとは言えないが、それでも、アスペルガー症候群及び自閉症スペクトラムの名付けとカテゴライズについて語るのなら、レオ・カナー(1894年-1981年)、ハンス・アスペルガー1906年-1980年)、ローナ・ウィング(1928年10月7日-)の名前くらいは出てきそうなものだが。「最近になって発達障害の名称が広まったのは、近代社会が『変わった人』を排除するため」という認識は、発達障害の研究に携わってきた人たちの存在を無視していると思う。
 

逆にいうと、我々の近代社会が成立するために必要だったもの(このような「変わった方々」を排除することで社会は統率され生産性が上がっていく)が、これら「精神障がい」や「発達障がい」等の障がい名と障がい基準だと言える。
発達障害はあの「ニュータイプ」かもしれない〜アスペから自閉症スペクトラムへ(田中 俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース

発達障害は近代以前には「発見」されていなかったのだから、近代以前の社会が発達障害者をどのように扱ったのかはわからないが、精神障害についてはある程度わかっている。

精神医学(Psychiatrie:ドイツ語)という言葉は、1808 年にドイツの医学者ライルJ.C.Reilによってつくられた。 その発端は、啓蒙思想の残響を受けながら18 世紀後半から 19 世紀前半に取り組まれた精神病者の解放運動によって徐々に構築されていったものである。それまで精神病者は「狂人」として、収容施設や療養院に拘束され非人間的な処遇を受けていた。(ガス室で虐殺されることさえあった。)これに対して、ヨーロッパ各地に精神病者へのこうした非人間的処遇に反対して立ち上がる人が登場した。 たとえばイギリスのヨーク市に理想的な施設「ヨーク・リトリートYork Retreat」をつくったクエーカー教徒の商人チューク、「狂者を直接に治すことができるのは精神治療しかない」として収容所の改革を説いた前述のライル、バイロイト近郊の施設を模範的な精神病院に建てかえ、病者と生活を共にした同じくドイツの医師ランガーマンJ.G.Langermannらがその例である。その中でも特にフランスのフィリップ・ピネルが、1793 年に、パリ近郊のビセートル病院で患者を鉄鎖から解放した事績は有名である。ピネルは精神病院の改革者として行動すると同時に、 1801 年には『精神疾患に関する医学‐哲学的論考』を著して「近代精神医学の父」とみなされている。
―精神医学 - Wikipedia―

まぁ「お察し」な内容である。近代以前の社会において、精神障害者の扱いは、決して良いものではなかったようだ。ヨーロッパにおいて、精神障害者魔女狩りの対象にされていたのは有名な話である。少なくとも、精神障害についての歴史を少しでも調べてみたのなら、精神障害の研究と当事者に対する扱いは、近代になってから格段に進歩していることがわかるはずだ。
これはあくまでも私の推測に過ぎないが、「変わり者」として魔女狩りの対象になった発達障害者も、けっこういたのではないだろうか。偉大な功績を残した発達障害者の記録は後世に残るが、魔女狩りの対象になった発達障害者の記録は、なかなか後世には残らないだろうしね。
 
こういった「昔は良かった。発達障害者も社会の中で受け入れられて生活していたんじゃ」という幻想は、「三丁目の夕日」的な世界を信仰する人たちによくある「昔は良かった。貧乏でも家族の絆があって、皆が助け合って暮らしていたんじゃ」という幻想と同じ種類のものだと思う。「昔の人は寛容だった」という、よくあるユートピア幻想だ。
私は、この手の「昔の人は寛容だった」という認識は、実のところ、酒乱やセクハラやDVや体罰といったことに対して「寛容だった」のではないかと思っている。そりゃあ、日本社会のマジョリティである「オヤジ」たちにとっては、昔の日本社会ほうが「寛容だった」だろう。白人男性にとっては、昔の西洋社会のほうが「寛容だった」のと同じように。
三丁目の夕日」的な時代や、近代以前の社会が、社会的弱者にとって良い時代だったとは、私にはあまり思えないのだけれど。現に、日本は一昔前まで、障害者が社会に出ることが当たり前でなかったのだから。女性や黒人や同性愛者といった人たちにとって、昔の「古き良きアメリカ」は、本当に良かったのかという話である。
私の父も何らかの発達障害があると思われるのだが、父の生育暦を聞いてみると、発達障害というものがよく知られていなかった時代の、周囲の大人たちの父に対する逆効果な対応や、集団に馴染めないがゆえの苦悩を体験しているので、現代よりも「三丁目の夕日」の時代のほうが、発達障害者にとって生きやすい社会だったとは、私には到底思えない。

 

僕は学者でもジャーナリストでもなく「支援者」だから、本人たちが必要であれば、たとえその裏に近代社会がもつある意味「暴力的カテゴライズ」に気づいていたとしても、それに反対はしない。
発達障害はあの「ニュータイプ」かもしれない〜アスペから自閉症スペクトラムへ(田中 俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース

精神障害発達障害について名称を付けることを「暴力的カテゴライズ」だと言うのなら、「インフルエンザ」「骨粗鬆症」「悪性腫瘍(癌)」「エイズ」などの身体的疾患の名称も「暴力的カテゴライズ」なのだろうか。身体的疾患についても世間の偏見が強い疾患は多いが、疾患や障害をカテゴライズして名前をつけることと、その疾患や障害に対して世間が偏見を持つことは、基本的には別の話だ。もし名前が付けられずカテゴライズされなかったとしたら、「原因不明の奇病」という扱いで、患者は適切な治療を受けることができないし、患者の周囲の人たちも、適切な接し方がわからないままということになってしまう。
元記事を書いた人は、精神障害発達障害の名称について、「世間が偏見を持って排除するために、そのようなカテゴライズが生まれた」と考えていそうな節だが、順序が逆である。大抵の疾患名や障害名のカテゴライズは、原因の究明と予防と治療・療育を目的としている。それに世間が勝手に偏見を持っているだけだ。身体的疾患については、このことが当たり前にわかるのに、精神障害発達障害についてはわからないとしたら、それは、精神障害発達障害に対する偏見がそうさせているのではないかと思うのだが。「暴力的」なのは、カテゴライズそのものではなく、カテゴライズに対する世間の無理解と偏見だ。
 
まぁ何と言うか、「昔は良かった」とか「伝統的な子育て」とやらのために、発達障害者を利用しないで頂けますかねぇという感じである。面倒臭いことこの上ない。
 
 
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若い女にいちいち「おじさんは恋愛対象になりますか?」とか聞いてんじゃねーよ

35歳を超えても、モテる男の3つの共通点 女性が最も重視するのは「清潔感」 | 35歳からの頑張らないアンチエイジング - 東洋経済オンライン
 
興味深い調査を紹介しましょう。「おじさんは恋愛対象になりますか?」というアンケート調査(養命酒製造(株)、2009年実施)があります。対象は、20代30代の独身OLです。結果は、何と72%が「人によってはなる」と回答しています。しかも、その「おじさん」というのが44歳から62歳というから何とも希望が持てる話ではないでしょうか。

しかし、このアンケートでは、もうひとつ見逃せない結果が出ています。それは「おじさんは好きですか?」という“そもそも論”の質問です。結果は「好き」と答えた人は18%、「嫌い」が15%。そして「どちらでもない」が大半の68%を占めました。

 
若い女に「おじさんは恋愛対象になりますか?」とアンケートを取ることはよくある話だけど、若い男に「おばさんは恋愛対象になりますか?」とアンケートを取ることはまずないよね。そんなことしたら「ババアきめえwww」などと言われて、フルボッコになるのは目に見えている。「おじさん」は、そういうことを聞いても自分たちは叩かれないと、ナチュラルに思えるんだね。
私は元記事でアンケート対象になっている「若い女性」の範疇に入る年齢の女だけど、今の自分だって、男子高校生相手に「私くらいの年代って恋愛対象になる?」って聞くかと考えると、絶対聞かないし聞く気もないな。なんかセクハラっぽいし。20代の私ですら憚られるようなことを、何も考えずにやってしまう「おじさん」ってどうなんだろう。
私個人の感覚としては、おじさんは人によっては恋愛対象になるけど、でもそれ20代男子でも同じだしなぁ。「おじさんは恋愛対象になりますか?」「おじさんは好きですか?」これの「おじさん」の部分が「20代男子」だったとしても、回答は「人によってはなる」「どちらでもない」が大半だと思う。別に希望を持つほどのことでもない。ただ、わざわざ「おじさんは恋愛対象になりますか?」と若い女に聞くおじさんは、私はなんとなく嫌だ。
若い女にモテる最低限レベルとして、「清潔感」だけじゃなくて「セクハラしない」も重要な要素のはずなんだけど、そもそもこんなアンケートを取っている時点で、そういう視点はないんだろうなと思った。
 
まぁ私自身、高校生時代に惚れた相手が先生だったというくらいで、10歳以上年上は普通に恋愛対象になるんだけど、でも、私がおじさんに惚れた時の気持ちって、「私みたいな子供じゃ絶対相手にならないよな…」であって、「おじさんの相手してあげる、若い私」みたいな意識じゃなかった。だから、「おじさんは恋愛対象になる?」と聞いて、「えー、なりますよー。全然大丈夫ですよー」と言われて喜んでいるおじさんってどうなんだろう、と思うのね。それは大抵言われたから答えているだけのお世辞だし、もし、おじさんのほうから聞いてもいないのに「○○さんくらいの年なら、十分恋愛対象になりますよー」とか、そういうお世辞を言ってくる若い女がいたら、普通に失礼だ。もし私が35歳以上だったとして、そういうお世辞を言ってくる若い男がいたら、「はぁ?何言ってんだコイツ」って思うだろう。だから、それで鼻の下伸ばして喜ぶよりも、「ああ、そりゃどうも。こっちはお前みたいな失礼なガキは恋愛対象外だよ」くらい思っといたほうが良いと思うね。
私自身がそうだったので、年の差の恋愛というやつは(相手が未成年というケースを除けば)全然否定しない。でもセクハラは否定する。何というか、「この人に惚れた」ではなくて、「若い女若い女!」みたいなところがキモイんだよね。わざわざ「おじさんは恋愛対象になる?」って聞いてる暇があったら、普通に黙って自分を磨いていれば良いのに。
 

こりゃ、ほたえな: 自分の娘を性欲のはけ口に見るサントリーウエルネス広告がキモすぎる

これも同じパターンだよね。
この広告、加齢臭予防商品の宣伝のはずなのに、もうこの広告自体から加齢臭がプンプン漂って来るようだし、若さを取り戻すはずなのに、この広告から全然若さを感じない。
別に若々しく元気でありたいとか、精力増強したいとか、そういうことを否定する気は全然ない。ただ、表現がセクハラでキモイってことなんだよね。こういうことに関しては、「若い女に性欲を抱くのは自然なこと」とか言い出す人が必ずいるけど、そういう人って、性欲を抱くこととセクハラすることの区別がついていないから、セクハラするなと言われると、性欲を抱くこと自体を否定されたと思うらしいね。性欲を抱くことそのものを否定しているのではなくて、その欲情の取り扱いに注意しろということなんだよ。40代50代の男性と20代の女性では、立場や力関係で圧倒的な権力差があるんだから。
美魔女に対して「若い女と張り合うとかwww」「エセでは本物の若さに勝てない」とか言うなら、それは十分精力増強剤買うオッサンにも言えるよ。単純に自分自身の趣味とか肉体的・精神的充実のために、美容や精力増強することは何ら問題ないんだけど、若い女の写真の隣に「課長にホレた…」「上司と恋に落ちる…」「パパ、いいニオイ♪」とかいう宣伝文句が並んでいる広告は、「いい年して何やってんだよオッサン…」って思うね。
とりあえずオッサンは、自分のちんこがビンビンかどうかより、若い女に対してセクハラパワハラにならないかどうかを気をつけたほうが良いと思うよ。そういうことに対する認識をきちんと持っている人のほうが、ずっと若い女からの信頼を得られるし、感覚の若さを感じるね。
 
[追記]
Twitter上で「『金蛇精』の方が潔い。」という呟きを見つけたので見てみた。うん、これなら別に不快感は感じない。
精力増強したり臭いを気にしたりする商品の広告それ自体がキモイって言ってるんじゃないよ。「課長にホレた…」だの「パパ、いいニオイ♪」だの、そういう表現内容がセクハラでキモイと言ってるの。同じ商品の宣伝でも、セクハラにならない広告は作れるはずでしょ。
まぁ、これわからない人にはとことんわからないんだろうなぁ…と思って、ため息が出るよね。

 
 
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アスペだけど、「差別語っていくらでも作れるんだよ」と言う人に反論してみた

アスペだけど、差別語について考えてみた』の続き。
 

差別について思い付いた事など… - 駄文な駄文 - もしくはBlogのように見えるモノ -

まぁASD48は冗談だけど、それがどうかしたの?そういう問題じゃないんだよ。
 
例えば、「野比のび太」という名前の人がいたとする。周りの人が、彼のことを「ノビー」と呼ぶようになった。これが普通に親しみを込めたニックネームとしての呼び方なら、彼も悪くは思わないだろう。ところが、そのうち嘲笑混じりに「ノビー(笑)」と呼ぶ人が出てきて、その人数は増えていった。彼が「そういう呼び方はやめろ!」と言っても、「なんで?ただの愛称じゃん。悪く思うほうがおかしいよ」と言って、聞き入れてくれない。これは、いじめの手法として実際によくあることだ。
一度そういう体験をしてしまったら、「野比のび太」くんは「ノビー」と呼ばれることに嫌悪感を感じてしまうようになり、その呼ばれ方を受け付けなくなってしまう。これはごく自然なことだ。一方で、そういう体験があった後も、嘲笑的な呼ばれ方でないのならば、「ノビー」と呼ばれることに違和感はないと感じるのも、ごく自然なことだ。どちらになっても当たり前のこと。
さて、「野比のび太」くんに新しい友達ができた。新しい友達は、何の気なしに「野比のび太」くんのことを「ノビー」と呼び出した。「野比のび太」くんは、「僕、その呼び方でからかわれたことがあるから、なんか受け付けないんだよね。別の呼び方で読んでほしい」と言った。この新しい友達は何と言うだろう。「ああ、そうなのか。だったら別の呼び方にしよう、そうだな…『のびちゃん』っていうのはどう?」と言うだろうか。それとも、「呼び方を変えても意味がないよ。だって、別の愛称で呼んだとして、またその呼び方でからかわれたら、同じことの繰り返しだろ?」と言うだろうか。
 
確かに、「ノビー」という呼び方をやめて「のびちゃん」にしたとしても、また嘲笑的に「のびちゃん(笑)」と呼ばれてからかわれるようなことになったら、同じことの繰り返しだ。でも、この「野比のび太くん呼び方問題」について、同じことの繰り返しにしているのは、一体誰なのだろう。少なくとも「野比のび太」くんではない。「野比のび太」くんの周囲にいる人たちが、このめんどくさい問題の原因を作ったのだ。
元々ただの愛称だったり短縮形だったりの意味合いでしかなかった言葉に、侮蔑的な意味づけをしたのもマジョリティで、そういうことがあったから別の呼び方を考える必要に迫られたのに、それについて「言葉を云々言ってもしょうがないよ」「言葉を言い換えても意味ないよ」「いちいちめんどくさいよ」と言ってくるのもマジョリティだ。つまり、どちらにしてもマジョリティの都合であり、むしろマイノリティのほうが、そういったマジョリティの都合に振り回されているという構造になっている。
つまりここでも、マジョリティとマイノリティの間に起こる問題について、マジョリティが「マイノリティ側の問題であり、マイノリティ側でなんとかするべき」と思い込んでしまう、差別あるある現象が見られるわけだ。
 
まぁ確かに、色んな言葉があって、「○○は差別語に当たるから、○○って言ったほうが良いよ」とかいうのは、めんどくさいよね。それはわかる。当事者だってめんどくさいよ。でも、それは当事者のせいじゃない。元々の言葉に侮蔑的な意味付けをして、めんどくさいことにしたのは、マジョリティのほうなんだ。
「言葉を云々言ってもしょうがないよ」「言葉を言い換えても意味ないよ」…この「しょうがない」「意味がない」のは誰にとってなのかというと、マジョリティにとってであって、マイノリティにとってではないんだね。当事者として「もう、しょうがないのかなぁ、これ」と思うことはないでもないけれど、少なくとも、マジョリティ側が当事者に向かって言うことではないと思う。もっとはっきり言うと、「お前らに言われる筋合いはねーよ」ってことだ。マジョリティ側がやるべきことは、当事者に対してそういうことを言うことではなく、当事者に対する差別をなくしていって、「言葉を言い換える必要がなくなる環境」を作っていくことだよ。
私だって、「アスペ」という言葉が元々の意味から離れて、ただの侮蔑語として使われていく過程を見ているのは、悲しかった。単なる「アスペルガー症候群」の短縮形として使われている状態のままだったら、それが一番良かったんだよ。当事者も使っていた言葉だしね。AS症候群のことなんか全然考えていない人たちが、「アスペ」を侮蔑語にしていった。
たぶん、差別語の問題は、マイノリティは、自分たちを表す言葉ですら、マジョリティの都合で振り回されるということなんだろう。
 
さて、察しの良い人は気づいてるだろうけど、固有名詞である「野比のび太」と、短縮形やもじった呼び方である「ノビー」は、明らかに言葉の持つ性質が違う。「のび太のくせに!」と言われた場合、「その言い方はやめろ!」となることはあっても、自分の名前の呼び方自体を代えろと求めることはまずない。一方、「ノビー(笑)」と言って嘲笑された場合は、「その言い方はやめろ!」の他に「その呼び方はやめろ!」と求めることも十分にありえる。
人名・地名・国名・障害名などの固有名詞は、誰かが名付けて世の中に認知させるという性質を持っている。一方、短縮形や俗語や愛称などは、基本的には自然発生的にできて広まっていくものだ。例えば、私が「宇野ゆうか」という名前で呼ばれるのが嫌になった場合は、それに代わる新しい名前を考えて、自ら「私は○○ですよ」と名乗って認知してもらうことになるが、セクハラオヤジに「ゆうかちゃ〜ん」と呼ばれた場合は、「馴れ馴れしい呼び方してんじゃねーよジイイ」と言って、相手に呼び方の変更を求めることになる。
同一のものを表す言葉でも、自分が変える性質のものか、相手が変える性質のものか、この差はけっこう大きいと思うよ。だから、「アスペルガー症候群」と「アスペ」をいっしょくたに扱うことはできないんだね。
 
そもそも、言葉の意味が変化したら新しい言葉が必要になるのは、差別語に限らないよ。だから私たちは平安時代の人のようには話さないわけで。言葉の持つ意味が変化して、元々の意味よりも、変化した意味のほうが定着してしまったら、元々の意味のほうには、それに代わる新しい言葉を当てはめるというのは、言葉としては自然なことだと思う。
いくら「バカ」という言葉の元々の意味が、サンスクリット語の「莫迦」だったとしても、今日において、私たちが「バカ」という言葉で思い浮かべるものは、あの「バカ」であり、まずサンスクリット語の「莫迦」ではない。正式名称とされているものでも、時代が変化したら変わるものなんていくらでもある。「看護婦」「保健婦」が「看護師」「保健師」になったように。虐待やDVや犯罪などの被害者のことを「サバイバー」と呼ぶことによって、そういう人たちへの認識が変わるきっかけになることもある。
そりゃ、言葉そのものよりも差別そのものが問題だっていうのはわかるけど、だからって、「言葉を云々言ってもしょうがないよ」「言葉を言い換えても意味ないよ」と言うのは、それこそ思考停止だし、言葉の発展の停止なんじゃないかな。他に良い言葉があるのなら、そっちに変えていけば良いと思うけど。
「この言い方よりも、こっちの言い方のほうが良いね」っていうのは、普通にあるでしょ。言葉を言い換えても意味がない場合と、意味がある場合がある。変える必要があるか、ないか、変えるとしたらどう変えるのか、そういうふうに考えていけば良いんじゃないのかな。
 
まぁ、私も差別的意図のない「アスペ」なら、別に呼ばれても構わないかな、くらいには思ってるよ。でも、外野から「言葉を云々言ってもしょうがないよ」「言葉を言い換えても意味ないよ」と言ってきたり、マイノリティの呼称がめんどくさくなっている問題について、「当事者でなんとかしろよ」と思っているマジョリティは、ま、カチンとくるよね。
私は、「今時髪染めてないなんて偉いねー、日本人なら黒髪だよねー、関心関心」とか言われると、「何勘違いしてんの?お前のために染めてないわけじゃねーよ」と思ってしまうような人間なので、そういう「マジョリティにとって都合の良いマイノリティ」には、なってあげる気はないのね。
だいたい、言葉を言い換えても、また新しい言葉が侮蔑的な意味で使われて、差別語になっていくことを、マイノリティが知らないとでも思ってるのかな。むしろ、無関係な立場でいられるマジョリティより、当事者として身をもって体験してきた立場のマイノリティのほうが、ずっと知ってるでしょ。つまり、マイノリティに対して「言葉を言い換えても意味ないよ」と言うことには、意味がないのだ。
わざわざ当事者に向かって「その気になれば差別語っていくらでも作れるんだよ」と言うことに、何の意味があるの?「じゃあ作るのやめろよ」としか思わないね。
 
 
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アスペだけど、差別語について考えてみた

どうもこんにちは、アスペの宇野ゆうかです。最近アスペルガー症候群の診断が下りました。以前別の病院で発達の検査をして、「グレーゾーンではあるかもしれないけど、アスペルガーど真ん中じゃない」と言われて、ああそうなんだと思っていたのだけれど、去年、自分がアスペルガー症候群だとはっきりわかる出来事があって、以前の病院での検査結果を、発達障害に詳しい精神科医に見てもらったら、「君アスペルガー症候群やね。典型的」と言われてしまいました。まぁ、やっぱりね。言語性IQと動作性IQの数値の差が開いていたから、そんな気はしてたよ。
 

撮り鉄はアスペ

で、これなんだけど。
まぁ確かに、アスペルガー症候群の人は、幼少期におもちゃとかを一列に並べて遊ぶ「ものならべ」をする特徴があって、同じものが整然と並んでいるのが好きな傾向はあるし、興味が偏っていてオタク気質な人が多い傾向もあるから、鉄道マニアになるAS症候群の人が多いと言われてはいるんだよね。でもこの増田の内容は、「日本人は、決められたことを守って、規則正しく行動する傾向があるから、日本人はアスペ」レベルの暴論だよ。このレベルの暴論なら、AS症候群の特徴っぽいものをピックアップしてくれば、何だってアスペと言うことができる。
たぶん、これの元ネタって、鉄道関連イベントで、イベントに来ていた男と親子の間で何か揉め事になって、男が子供を取り上げて母親に土下座させた件なんだろうけど、こういったカメラマンのマナーが悪い問題って、別に鉄道関連に限らないし、マスコミのメディアスクラムだって散々批判されているわけで、たぶん、大勢のカメラマンが押しかけて何かを撮影するという状況は、集団心理で傍若無人な行動に出やすくなるということなんだろう。プラス、そりゃカメラで撮影するという環境なんだから、傍若無人になっている人が記録されやすく、従って、マナーの悪い人が可視化されやすいというのもあるだろう。
「アスペ=鉄道好き」ということなら、当然撮り鉄以外の方向での鉄道マニアもAS症候群が多いということになるわけで、この件に関しては、「鉄オタ」や「アスペ」よりも「カメラマン」という文脈で考えたほうが良い問題だと思うよ。
 
こんなものは「幼女を誘拐するのはロリコンのオタク」「ゲームをやるとキレやすい子供になる」並みの偏見と暴論なんだけど、ブコメで「納得してしまった」と言ってる人がけっこういて、絶望的な気分になった。こういう暴論に納得してしまうのって、「フィギュア萌え族」とか「ゲーム脳」とかのトンデモ理論に納得してしまうのと同じことなんだけどね。人間、自分にとってよく知らない分野だと、トンデモ理論でもわりとあっさり信じてしまうものなんだな、と納得してしまいました。
最近は、業界不振の原因を、なんでもかんでも「若者の○○離れ」ということにしてしまう傾向があって、それを「天狗のしわざ」と言っていた人がいたけれど、「アスペ」というのも「天狗のしわざ」的に使われてるよね。「アスペだから」っていうことにしておけば、AS当事者以外はみんな納得、めでたしめでたしで思考停止。この前は、女性蔑視的なことを言っている人を批判する文章で「アスペかよ」とか書いてあるのを見て、もう本当にうんざりした。
ちなみに、私自身はアスペだけど鉄道全然興味ないです。鉄道の話してるタモリには興味あるけど。
 
あと、「アスペルガー症候群」から派生した「アスペ」という言葉が、本来の意味から離れていって、ただの侮蔑語になっていった過程を見ると、「ホモセクシャル」から派生した「ホモ」という言葉や、「Japanese」から派生した「Jap」という言葉が差別語になっている理由が、なんとなくわかったような気がした。

ジャップ - Wikipedia
 
古くは万延年間の江戸幕府の遣米使節に関する新聞報道にもこの表現が現れ、元来は単なるJapaneseの短縮形であり、蔑称ではなかった。しかし1900年にロンドンに留学中の夏目漱石が"Jap"と呼ばれて失敬と受け取る記述があり(倫敦消息)、当時すでに蔑称と認識されていたことがわかる。米国でも明治以後、日本人移民の増加とともに現地住民との摩擦が生じ、1930年代の日系移民排斥の風潮とともに蔑称の意味合いが強くなり、第二次世界大戦当時には反日プロパガンダに盛んに使用されたため、蔑称として定着した

「アスペ」という言葉も、これと同じ過程を辿っていると思う。元々は「アスペルガー症候群」の短縮形という意味合いでしかなかったし、当事者たちも「アスペ」と言っていたが、ネットで広まっていくにつれ、侮蔑的な文脈で使われることが多くなり、蔑称の意味合いが強くなっていった。この間、ほんの数年だった。まぁ、元々は単なる短縮形だった言葉が差別語として定着していく過程を、リアルタイムで目の当たりにしたこと自体は、興味深いといえば興味深かったけれど。
 
ここで、差別語関係で問題になる人々の代表的な例を、タイプ別に分けて考えてみる。
 

  1. 言葉狩りタイプ
    • いわゆる「言葉狩り」。例えば、「障害者」の「害」という文字が差別的なので「障がい者」と言い換えろ、「聴覚障害者」を「耳のご不自由な方」と言い換えろなどと迫る。
    • 「自分はこう言う」だけでなく、他人に対して強要するところがポイントか。
  2. クレーム避けタイプ
    • 言葉狩りタイプ」の人からクレームをつけられることを恐れている。テレビや役所などの公的機関に多い。
    • クレーム避けが目的になった結果として、当事者にとって望ましくない言い換えになったりするなど、本末転倒になりがち。
  3. 言葉狩りじゃないか!」タイプ
    • 自分が発した差別表現に対して抗議されると、「言葉狩りじゃないか!」と言って自己擁護する。「そんなことでいちいち抗議するから差別されるんだろ」「権利を振り回されるとちょっとなあ」などが決まり文句。
    • このタイプは、「言葉狩りタイプ」や「クレーム避けタイプ」に対して批判的だが、実質的にはそれらのタイプと同質である。

 
以上全てのタイプに共通しているのは、「自分自身を差別しない人だと思っておきたい」「差別だと批判されることを避けたい」というのが目的であって、当事者が抱えている問題について理解しようとしているわけではないということだ。「性格の良い人」と「自分自身を性格の良い人だと思っておきたい人」は違うのだが、〔1〕〜〔3〕のタイプは全て後者に当てはまる。こういうタイプの人たちは、無意識のうちに差別をしてしまって、他人に「それは差別だよ」と指摘されても、認められないし気付けないから、本当に「差別しない人」になっていくことができない。
だいたい、本当にただ単に差別語だと知らなくて使ってしまって、それを指摘された場合なら、外国語の間違いを指摘された時のように、「えっ、そういう意味だったの?知らなかった!」ってなって、すぐに修正する、という反応になるはずなので、そこで「そんなことでいちいち抗議するから差別される」だの「権利を振り回す」だの言うのはおかしいんだよね。
シャーロック・ホームズとアスペルガー症候群』でも書いたが、私は、障害の名前が差別的に使われているかどうかは、大きく分けて、その障害や障害者について考える「スタート地点」として使うか、思考停止するための「終点」として使うかだと思う。
あと、「障害者」という呼称は色々と問題視されるのに対して、「健常者」という呼称についてはあまり問題視されないというのも、構造的に興味深い現象だ。ちなみに、アスペルガー症候群発達障害の一種であり、「発達障害者」の対義語は「定型発達者」である。
 

嫌いな言葉:言葉狩り - Apes! Not Monkeys!  本館
 
彼はなぜ文句を言えなかったのか? 「ジョークのわからない、神経過敏の黒人と思われたくなかった」からだ。これは「言葉狩り」ではないのだろうか? 石原の「ばばあ」発言に対して訴訟を起こした人々を嘲笑するといったかたちで、マジョリティは常にマイノリティに沈黙への圧力をかけているのである。

 
まぁでも、「アスペルガー症候群」っていう呼称が長いから、何か適当な略称が欲しいというのはわかる。なので、「アスペルガー的人生」の著者 リアン・ホリデー ウィリーが「Aspie」と言っていたことから、「アスピー」を推しておきます。個人的にはアスペルガー女子のことを「アスペルガール」って言うのがマイブームなんだけどね。アスペルガールを48人集めてASD48を結成しよう。
 

アスペルガー的人生

アスペルガー的人生

  • 作者: リアン・ホリデーウィリー,Liane Holliday Willey,ニキリンコ
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〔追記〕
続きを書きました。
アスペだけど、「差別語っていくらでも作れるんだよ」と言う人に反論してみた
 
 
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