yuhka-unoの日記

旧はてなダイアリー(http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/)からの移行

愛と平和の街―失われた20年世代の私―


 

相手のための気遣いと、自分が嫌われないための気遣い - yuhka-unoの日記

私にとっての始まりは、このエントリだった。このエントリは、関西で放送されている情報番組「ちちんぷいぷい」の中の、若手アナウンサーが京都の老舗で修行するコーナーを見て、私が仕事や親について思ったことを書いた内容になっている。
このエントリに、J-POP音楽家のmaicouさんが言及して下さったことがきっかけで、私はmaicouさんと話をし始めた。たぶん、それまでお互いに存在を意識してはいたが、今まで話したことがない、という関係だったと思う。
最初はほんの数回だけのやり取りをするつもりだったのが、話がどんどん広がり、最終的には、約半年間に渡る中身の濃いやり取りになった。その過程で、お互い成長し、色々なことに気付き、解放されていった。そしてなんと、maicouさんは、一連のやり取りの内容を反映させた「愛と平和の街」という曲を創られて、その曲は全国リリースされることになった。人生、何が起こるかわからないものだ。
 
未曾有の大震災が起きて暫く、私は、様々なメディアから流れてくる「私たちにできること!」「今何がやれるのか!」という声や、「自粛」「不謹慎」という空気に、違和感を感じていた。この状況と、戦争に非協力的に見える人を「非国民」扱いした、戦時中の状況が、被って感じられた。そして、人々が募金やチャリティーに熱心になる姿を見て、私は戦時中の金属類回収令を思い出した。武器を作るための金属類が不足したため、人々が家庭の鍋や釜を差し出し、寺の鐘なども供給されたという話。
もしかしたら、被災した人々のために何かをしようとする私たちの心理状態と、お国のために協力しようとした戦時中の人々の心理状態は、同質のものなのではないか?
このことに気付いた時、私は少し背筋が寒くなる思いがした。もしかしたら、平和を訴えることと、戦争を訴えることは、コインの裏表なのかもしれない。
 
では、平和とは何なんだろう。戦争の時代と平和な時代とで、決定的に違うことは何だろうか。
それは、言いたいことが言える、自分の好きな音楽が聴ける、何を思っていても良いし、やりたいことがやれるということだと思った。戦時中はこれができなかったのだ。これができるということが平和であり、おそらく、戦争の抑止力なのだろう。平和でなければ、やりたいことがやれない。だから平和とは、個人がやりたいことをやるための基盤として必要なものなのだ。
だとすれば、個人が集団の中に埋没してしまい、自分が本当に思っていることが言えず、集団の望む振る舞いしか許容されない空気になっている場合、それは表面上平和であったとしても、どこか「戦時的」と言えるのかもしれない。表面上の平和を保っておくために、その集団が抱える問題に触れてはいけない空気になってしまい、とても個人の意見を言える雰囲気ではなくなってしまうというのは、よくあることだと思う。
ということは、本当の意味での平和的な集団というのは、問題を直視して向き合うためにある程度波風が立ち、常に空気が揺らいで変化していっているものなのかもしれない。むしろ、空気が固定的になってしまっているほうが問題で、そのような集団は、触れずにおいた問題が徐々に大きくなって、ある時点で一気に決壊してしまい、破綻を迎えてしまう危険性を含んでいるのだろう。
 
この構造は、機能不全家庭と共通している。機能不全家庭では、問題を抱えた親が、その問題に向き合わず、家族のメンバーはその問題に触れないことで、つかの間の均衡を保っている。そして、その問題のしわ寄せは、立場の弱い子供にのしかかる。こういった家庭が、表面上は非常に穏やかで平和的で、家族仲が良く見えるというのは、よくあることだ。それは、子供が親に合わせて、「いい子」を演じてあげているからだ。
私の母も、母なりに家庭という自分のテリトリーを平和に保とうとし、子供たちの未来を確実に安定的なものにしようとした。だがそれは、どこまでいっても母の視点でしかなく、私の資質や個性を念頭に置いたものではなかった。母の思い描く安心・安全のために、私は無意識のうちに、本来の私自身が持っている能力や意思や望みを抑圧され、「しっかり者で面倒見の良いお姉ちゃん」を演じさせられ、進路を誘導された。そして、私は自分でもわからないまま、徐々に壊れて行って、とうとう破綻してしまった。
自分と自分の家庭環境の歪みに気付いてからの私は、母が塗り固めた「お姉ちゃん」というコンクリートを剥がして、本来の自分自身を掘り起こさなければならなかった。その作業は今でも続いている。
 
番組の京都での老舗修行の中の、特に和菓子の回は興味深かった。若手アナウンサーが最初に提案した、親に対する感謝を示す和菓子は、どこか世間的な価値観の受け売りのようなもので、彼の中から生まれてきたものではなかったと思う。女将さんの言った「悪いけど、お利口さん」というのは、そういう意味なのだろう。最終的に彼が作った、ポッキーを木の枝に見立てた和菓子は、彼の中から生まれてきたものだった。たぶんこれは、「個性」が生まれる過程だったのだと思う。
「自分探し」や「個性を伸ばす」と言うと、よく「我侭放題・好き勝手させる」と受け取る人がいるけれど、個性を伸ばすのは修行だと思う。自分に向き合うのはしんどいから。だから全然生易しいものではないと思う。「お姉ちゃん」だった私も、ある意味では「お利口さん」だったということなのだろう。
 
完成した「愛と平和の街」を初めて聴いた時、この曲の内容は、「街」だけに留まらず、この日本社会全体に言えることなんだな、と思った。その後暫く経って、逆に規模を縮小して、「家」にも当て嵌めることができるのかもしれない、と思った。私の家は、特に両親が離婚する前後は、「いつまでも喚き散らす オトナ その足下で泣いている子供」そのものだったからだ。
以前から私は、機能不全家庭の構造は、そのまま組織や社会に当て嵌めることができると思っていて、このブログでもそういった内容のエントリを書いてきたけれど、「愛と平和の街」も、まさにそんな感じだと思った。共依存状態になってしまっているところは、家であれ街であれ国であれ、「沈んでく船」なのだから。
 
私は、震災から二週間ほど経った時、「私には何もできない」という結論に至った。それが、「私たちにできること!」「今何がやれるのか!」という世間の声に対する違和感の正体だった。そして、その次に思ったことは、被災していない人間は、まず自分の生活の基盤をしっかり保つ必要があるということだった。自分の生活の基盤を保つということは、社会の基盤を保つことに繋がる。そこがしっかりしていないことには、支援も何もできない。逆に自分が助けが必要な人になってしまう。
それは、世の中を変えていく時もそうだと思う。大抵の場合、世の中は、カリスマ的な誰かが一気に変えてくれるものではなくて、多くの人たちが、少しずつ、自分の足下から変えていくものなのだろう。何かをするのも、自分の持ち場で、自分でできることからだ。一個人が何かできるとしたら、そういうことなのだと思う。
 

「愛と平和の街」〜これは僕の「長崎サウンド」
今回創られた曲の特設ページ。
 
往復書簡 その1: songs and words
往復書簡 その2: songs and words
往復書簡 その3: songs and words
約半年間に渡るmaicouさんとのやり取りの記録。

 

 
 
【関連記事】
「私には何もできない」という現実―震災後数日間の私の思考―
迷ったり悩んだりしたままでやっていくということ