ひきこもりとインターネット
『「普通」の親が子供を追い詰める』で書いたように、母に誘導されて全く向いていない進路を選んでしまい、その進路を辞めた後も、母の洗脳が解けず、無意識に母がNOと言わない範囲内でしか職を選んでいなかった私は、徐々に精神的に追い詰められ、自分でもわからないままに壊れてしまい、全く働けない状態になってしまった。
自分がなぜこうなってしまったのかもわからず、理解者もなく、死にたい思いの中で過ごしていた私にとって、インターネットと絵を描く趣味は、とても重要なものだった。一人でできる気晴らしがあったからこそ、発狂することもなく、自殺もせずに済んだのだろう。
自分がひきこもりになってしまった原因を知りたかった私は、心理系のサイトを巡っていた。ある日、アダルトチルドレンについて書いたサイトに行き当たり、自分の原因を一気に理解した。家庭環境が原因である以上、この家庭内にいたのでは、いつまで経っても私は良くならない。私には第三者の介入が必要だ。具体的には、カウンセリングを受ける必要があると思った。
私は母に「カウンセリングを受けたい」と言った。しかし、その時の母の答えは、「カウンセリングなんか受けて何になるの」だった。母に養ってもらっているという負い目があった私は、それ以上何も言うことができず、『父の愛情』で書いたように、父が母に「あの子はアスペルガー症候群かもしれないから、診てもらったらどうか」と働きかけ、母がその気になるまで、何年かを無為に過ごした。
その何年かの間に、ネットで家庭や親子の問題を調べて、自分でも色々と考えていたので、カウンセリングを受けられるようになってからは話が早く、私は着実に回復していった。
母は、安心安定を求める性格から、リスクを過大に受け取り、自分の知らないことには手を出したがらない。また、お金が出ていくということについて、慎重になりすぎるところがあり、堅実と言えば堅実なのだが、あまり実にならない堅実さだ。「できるだけ金がかからず、確実な選択を」というのが、母の価値観なのだが、当の私の状態を見ていないという点において、母は決定的に確実性を欠いていた。
ひきこもりになった私について、母にとって一番確実な選択とは、ハローワークなどに行って求職活動をすることであり、そのためなら金を出しても良いが、カウンセリングという、効果があるのかどうかわからない不確かなものに、金を使いたくはないという考えだった。しかし、当の私は、いきなり求職活動ができるような精神状態ではなく、カウンセリングという過程を経ないことには、解決しなかったのだ。
これはそもそも私の進路についても同じで、母が誘導した「確実な進路」は、私に全く向いていなかったため、私にとっては、極めて不確実な進路だった。母はそうやって、大量の金と時間を無駄にした。
リアルでの行動については、母の影響を受けていた私にとって、インターネットは、自分の判断で自由に行動できるものだった。それは、『母と伯母とインターネット』で書いた通り、ネットは母が良い顔をしなかったものだったからだと思う。
ネット上で、「とりあえずやってみよう。自分に合ってなかったら、やめれば良いだけだし」と思いながらやってみて、実際にやめたものもあるし、思いがけず向いていて続けてしまっているものもある。このブログも、もともとはその程度のノリから始めたもので、結局面白くて続けてしまっている。
また、『他人に対して気を遣って丁寧に接する母と、それができない私の話』で書いたように、母の影響で他人に気を遣うところがあった私は、ネットで様々な人たちと話すうちに、だんだん殻が剥がれていって、本音の自分に近くなり、自分はどういう人と付き合うのが性に合っているのかがわかるようになってきた。
そして、ふと「リアルでも、こうやって生きて行けば良いんじゃね?」と思った。私はいつの間にか、ネットで解放されていた。
よく、ひきこもりについて、「自室を与えたのが間違いだった」「インターネットを与えたのが間違いだった」と言う親御さんの声を聞く。確かにネット依存が原因というケースもあるが、多くの場合、原因と結果が逆なのではないかと思う。
つまり、自室やインターネットがひきこもりの原因になったのではなく、ひきこもりになって、自分の今の状態を否定的に見る親と接するのがストレスになるので、自室に篭ってインターネットをすることで、自分の精神状態を保っているのだ。現に私の場合は、自室のない家だったのだから。
無職の人間がパチンコやゲームやインターネットに嵌っていると、世間の風当たりは厳しい。遊んでいる暇があるなら、職を探して働けと言われてしまう。
しかし、精神的に追い詰められて働けなくなり、インターネットなどで気を紛らわせていないと、自殺してしまいかねないという状態を、私は体験した。死にたい死にたいという気分になった時、気晴らしになるものがあるかどうかは、それこそ死活問題なのだ。
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