yuhka-unoの日記

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メディアハラスメント―奥田君インタビューがひどい訳―

奥田君インタビューはそんなにひどくない | From the Newsroom | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
http://www.newsweekjapan.jp/newsroom/2011/02/post-207.php
 
 インタビュアーがむりやり言葉を引き出そうとしているわけでもないし、足を切断したという相手の状況にそれなりに配慮した聞き方をしている。プロの記者が奥田君に話を聞いて「足切断」について聞かないことはありえない。

 おそらく初出と見られる朝日新聞2月23日付夕刊の五十嵐大介記者の記事も、奥田君が足を切断した事実について触れている。足切断の事実と、「仲間がどんどん下に落ちていった」という表現があってはじめて、今回の地震の被害の大きさと、今後議論になるだろうニュージーランドの建造物の耐震構造問題の深刻さが読者に伝わる。繰り返すが「かわいそうだから聞かない」というのは、職業人としての記者のやることではない。

 ネットの怒りがフジテレビに向いているのは、あえていえば「八つ当たり」だろう。奥田君はこんな悲惨な目に遭いながら、なお快活さを失わないとても性格のいい青年だが、そんな彼がいわれのない被害にあったことへの憤りのターゲットにフジテレビがされてしまった――少なくとも筆者にはそう見える。

 
PTSD心的外傷後ストレス障害)は、被災・被害体験の最中や直後よりも、日常を取り戻した後になってから襲い掛かってくることが多い。これは、ある種人間の本能的な機能で、異常事態に直面している最中には、精神状態を正常に保つことで、その異常事態を乗り切ろうとするためである。そして、事態が落ち着いてきた時に、異常事態の最中に受けた心の傷に直面することになるのだ。
なので、被災・被害体験の最中や直後には、本人は明るく積極的に見えることすらある。奥村君が快活そうに見えるのはそのせいである可能性がある。彼の態度は、「こんな悲惨な目に遭いながら、なお快活さを失わないとても性格のいい青年」で片付けられるようなものではなく、異常事態に直面した人が取る典型的な態度とも取れる。もしそうだとしたら、彼はこれからPTSDに苦しめられることになる。
 
PTSDの苦しみを味わった人たちの中には、「異常事態に直面している最中よりも、後々のほうがずっと苦しい」と言う人が沢山いる。そして、その時かけられた心無い言葉にも、後々になってから思い出して苦しんでいる人が沢山いる。この件は、マスメディアによる二次被害だ。「かわいそうだから聞かない」というような、そんな生易しいレベルの話ではない。だから批難されているのだ。
それを、「八つ当たり」「そんな彼がいわれのない被害にあったことへの憤りのターゲットにフジテレビがされてしまった」「本来されなくてもいい批判」とは、呆れるほかない。
 
こういった災害が起こると、マスメディアはよく、「被災者の方の心のケアが必要ですね」などと言うが、マスメディアのせいで「心のケア」が必要になる人は、さぞかし多いことだろう。この記者氏によると、ただでさえ被災して傷を負った被災者の心をさらに抉ってでもインタビューし、それが原因でその後被災者が苦しんでも、その苦しみには責任を負わず、実際に「心のケア」をする人に丸投げするのが「職業人としての記者のやること」だそうだが、職業人云々を言うのなら、マスメディアでPTSDについて学んで、「被災者にインタビューする際のガイドライン」を作るほうが、ずっとプロフェッショナルだと思うが。
 
ひどい人の特徴は、自分がしたことで相手がどんな気持ちになったかについては一切考えず、ひたすら、なぜ自分がそれをしたのかについて語ることだ。「自分はこういう理由でそれをしたのだから」というのが、「自分はひどくない」という理由になっている。だが、ひどいかひどくないかの基準は、当然ながら、相手がどんな気持ちになったかにある。相手がどんな気持ちになったかを一切理解しようとしないのに、なぜ自分がそれをしたのかについては(こともあろうに、自分が傷つけた相手に対しても)理解を求め、それを理由に免罪されようとする、その意識がひどい。
更にひどいことには、無意識に「理想の被災者像」を思い描いて、それを押し付けていることだ。過酷な目に遭っても、快活で前向きで、マスメディアに協力的で、質問には何でも答える。こういった被災者は、とても好ましく同情もしやすい。だが、もし被災者本人やその周囲の人間が、記者の取材に対して激しく反発してきたら、はたしてマスメディアは彼らをどのように思うのだろうか。
 

ニュージーランド地震報道 - 新小児科医のつぶやき
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20110228
 
被災地からの情報発信は大事です。被災地のサイバイバル、さらには復旧のためには他地域からの援助が欠かせないからです。大きな被害を受けている現地にはそこまでの余力が無いですし、さらに被災地には自力で情報発信を行なう余力さえ損なわれています。情報発信は重要と理屈でわかっていても、それ以前のサイバイバルのために忙殺されるからです。

そういう状況で被災地の情報発信に大きな役割を果たす事が期待されているのは報道機関です。報道機関に被災者が期待しているのは、現地の被害の実相を正確に伝え、今必要とするもの、またこれから必要になるものを情報発信してくれることです。正直なところ、震災にまつわる悲劇や人間ドラマをメインとして報道して欲しいと思っていません。

「職業人としての記者」に求められる役割とは、本来こういうことのはずだが。被災者に二次被害を負わせている映像なんて求めていない。
「知る権利」と言いつつ、本質的なことについては全然知る気はなく、ただ単に都合良く消費できる「感動ドラマ」を欲望しているだけだろう。そのドラマを楽しむために、被災者の心を平気で踏み躙り、搾取しているだけだろう。
 

漂流生活的看護記録 : 危機介入
http://eboli.exblog.jp/12188108/
 
日本のマスコミ人はとりあえず「被害者の心のケアを」で締めくくるが、実際にその「心のケア」というものが何に基づきどう為されているものなのか全く知らないし知るつもりもないのだというのがよくわかる。それはマスコミに限らず、一般の人々も我々のする「心のケア」なんてとにかくちやほや優しく「カワイソーネーガンバローネー」と言うことしか求めていないのもわかっている。しかし看護とはそういうものではない。現地クライストチャーチの病院でもこうした危機理論に基づいた対応が為されていただろうに、このインタビューが彼らの努力をすべて無駄にしてしまいかねない。わたしはそれが同じ看護師として本当に悔しく思う。

報道に求めたい事 - とらねこ日誌
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20110302/1299048530
 
なるほど、事実をありのままに伝える事は大切な事かも知れない、しかしそれは、個人に対し、自分を犠牲にした全体への奉仕を強要しているだけじゃあないか?辛くても、皆の期待に応えなきゃらならないのか?いや、それは本当に皆の期待であるのだろうか?そもそも被災直後の被災者への取材は必要なモノなのだろうか?被災直後のインタビューにより得られた感想は、事実を反映しているモノなのか、本音を述べたモノなのだろうか。そんな保証は全くないばかりか、喪失体験直後の被害者の状態を考えれば大いに疑問である。

被害の実態を社会に発信する責任は個人が負うようなモノではない、どらねこはそう考える。