yuhka-unoの日記

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機能不全職場

機能不全家庭における児童虐待というのは、例えるなら子供を奴隷にするということだ。奴隷とは、本来奴隷主がやるべき仕事を代わりに行い、奴隷主が背負うべき荷物を代わりに背負う存在である。それと同じように、虐待されている子供は、親自身が抱える問題やストレス、夫婦の不仲など、親が本来自分で何とかするべき問題を代わりに背負わされたり、家事や育児など、本来親の責任や役割であるはずのことを代わりにやらされたりする。
このような構造になっている家庭では、親は子供に依存しており、子供を手放したがらない。ちょうど、奴隷主が奴隷に依存しており、奴隷を手放したがらないように。そして、子供が保護されたり自立したりして、その家庭から離れると、家庭が一気に崩壊するケースが多い。つまり、今まで子供を犠牲にすることによってその家庭は保たれていたのである。ちょうど、奴隷がいなくなって経営が立ち行かなくなった農場のように。
 
ところで、世の中には、これと同じ構造になってしまう職場も多いのではないだろうか。言うなれば機能不全職場である。

「もう無理」と言い残して“逃げた”45歳の本音:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110215/218446/
 
 とはいえ、いかなる理由があるにせよ、彼に逃げられた後の現場はたまったもんじゃない。誌面に穴を開けるわけにもいかないし、大々的に特集と銘打っている記事を、簡単に差し替えるわけにもいかないわけで。「ふざけるな! なぜ逃げる前にどうにかしなかったんだ!」と、その場に居合わせたら私だって怒る。

 逃げた本人以上に、残された人たちは呆然とし、てんやわんやだったことだろう。

 
確かに、締め切り直前に重要な立場の人が逃げ出してしまえば、残された人たちは逃げた人を恨みたくなるだろう。だが、こういうケースもあるのではないだろうか。その組織の中で一番最初に逃げた人は、一番心が弱かった人ではなく、一番負担が重かった人だった。だから一番先に逃げた――だとしたら、残された人たちが逃げた人を責めるのはお門違いだ。
残された人たちは、逃げた人のせいで自分達の負担が増え、迷惑を掛けられたと思い込むものだが、実は、その人が逃げるまでずっと、自分達がその人に負担を強いて迷惑を掛けていたのかもしれない。機能不全状態に陥っている集団は、得てして負担を強いている側にその自覚はない。それどころか、自分のほうがずっと辛いのだと思い込んでいることすらある(子供を虐待する親も得てしてそう思い込んでいる)。皆、自分のことに精一杯で、誰か一人に負担が集中しているという構図に気付けるほど余裕が無いのだ。
 
機能不全家庭においては、一見すると子供が一番の問題児のように見えるが、よくよく構造を探っていくと、実は子供が一番の被害者であり、むしろ他の家族メンバーのほうがよっぽどおかしいというケースは非常に多い。機能不全職場も、同じような構図になっていないだろうか。
児童虐待などと聞くと、「とんでもない!親は何をやっているのだ」と思うものだが、我々もまた、特定の環境下に置かれると、知らず知らずのうちに誰かを虐待することだってありえるのだ。
 

 仕事を放り出して、しかも締め切り間際に逃げ出すことは、社会人としてはあるまじき行為ではある。

 勝手、無責任、ふざけるな! と、彼のことを罵倒することは、いくらでもできる。

それが「社会人としてあるまじき行為」とされるのは、組織が労働者に過剰な負担を強いていないことが大前提である。ところが、なぜかこの大前提は見過ごされやすい。
そう、「勝手、無責任、ふざけるな! と、彼のことを罵倒することは、いくらでもできる。」――なぜなら、人間は、立ち向かうことが難しい巨大な権力よりも、それほど力の無い手頃な存在を叩くほうに向かいやすいからだ。
 
 
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