yuhka-unoの日記

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「幸せな家族の形」というファンタジー

選択的夫婦別姓に反対する人の気持ちを想像する
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20101223/1293068785
 
こういうシチュエーションに象徴されるような、結婚に対する人々の考え、親戚や周囲の人との関係、それを支える法的制度、(疑似)伝統文化、そういった様々なものが全体として「あるべき婚姻制度のかたち」という、一つのファンタジーを形成しているのだと思います。そのファンタジーを壊してほしくないのではないでしょうか。みんなが、これまでと同じように、同じファンタジーを共有していてほしい。そしてもしそういったファンタジーの共有がなければ、社会的紐帯の全体が損なわれる、と恐れているのではないでしょうか。

選択的夫婦別姓に反対する人は、「幸せな家族の形」というファンタジーを抱いている。それは夫と妻が同居していて、夫が主に稼ぎ、妻は専業主婦かパート、子供が2,3人くらいいて、当然夫婦は同姓、それも夫の姓である、と、だいたいこういったものが、彼らの想像する「幸せな家族の形」である。こういう形の家庭を築けば、自分も家族も間違いはなく、安定して、幸せになれると信じている。逆に言うと、この「幸せな家族の形」に当てはまらない家族の形は、例えば子供が非行に走るなど、間違いが起こりやすく、不安定で不幸せな家庭になると信じている。
 
では、実際に「幸せな家族の形」を満たした家族なら間違いはなく、安定して、幸せになれるのかというと、必ずしもそうとは限らない。いわゆる「仮面夫婦」というケースがあるように、一見普通に見える家庭が実は機能不全家庭で、その中で育った子供がゆっくりと壊れて行き、「キレるいい子」に育ってしまうケースもよく見られる。
 
彼らが選択的夫婦別姓を頑なに拒むのは、「こうすれば幸せな家庭を築ける」と信じていたものが崩れ去ってしまうからだろう。選択的夫婦別姓制度が採択されるということは、彼らにとっては、今まで政府や制度や世間が「こうすれば幸せになれますよ」とお墨付きを与えてくれていたものが、突然お墨付きを取り上げられ、「どうすれば幸せになれるのかは自分で考えて決めろ」と言われるようなものなのだろう。例えるなら、今まで良い学校に行き良い会社に勤めれば幸せになれると信じて頑張って勉強してきた人が、突然「その方法で幸せになれるとは限らない。どうすれば幸せになれるのかは自分で考えて決めろ」と言われるようなものなのかもしれない。
 
自分が正しい・間違いない・安心安全・幸せという根拠を、政府や制度や世間に拠って立っていたものが、政府や制度や世間から突き放され、根拠を失ってしまうことに恐怖する。「自分にとって、自分の家族にとって、何が一番合理的で幸せな形なのか」という基準で考えたことが無い。今更考えろと言われてもできない。
 
選択的夫婦別姓に反対する人がよく言うことの一つに「家族の絆が壊れる」というものがあるが、実は子供を虐待する親も、子供が家庭内の秘密(虐待の事実)を公言したり、親を振り払って自立して行こうとしたりすると、「家族の絆が壊れる」と言う。子供に対する身勝手な執着を「絆」と称しているだけなのだが、親は無自覚である。それどころか、自分は他の親よりはるかに子供に愛情があると思い込んでいる親も珍しくない。
機能不全家庭では、虐待されている子供が自立・保護などの理由でその家庭からいなくなると同時に、その家庭が崩壊するケースがよくある。子供に親や家庭の様々な問題を背負い込ませることによって、その家庭は辛うじて維持できていたのである。かといって、子供がその家庭を維持するために犠牲になり続けるのが良かったのかというと、決してそんなことはないだろう。
夫婦の姓にしても機能不全家庭にしても、実際に壊れるのは「家族の絆」ではなく、誰かを犠牲にし黙らせることによって成り立っている「自分の安定」だ。
 
そう考えると、反対派の言う「家族の絆が壊れる」も、あくまでもそれを言う反対派個人にとっては真実なのかもしれない。彼らは「幸せな家族の形」というファンタジーを共有することによってしか、家族関係を維持することができないのではないか。家族関係を成り立たせているものが最早ファンタジーしかない家庭は、ファンタジーの消失と共に崩壊する。仮面夫婦が、子供の「本当はお父さんとお母さん仲良くないんでしょ」という一言によって崩壊するように。