yuhka-unoの日記

旧はてなダイアリー(http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/)からの移行

「女」は捨てないけど「女像」は捨てるよ

女は、男と付き合う前に、一度男に絶望しているからだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20101202125030

「今度生まれてくるとしたら、女の子と男の子のどちらがいいですか?」という質問では、小学生も中学生も男子は5%以内しか「女の子」を選びません。

男子にとって「女の子」であるということは、あまり魅力的ではないようです。
小学生では女子が「女の子」を選ぶ割合は高いのですが、中学女子では「女」を選ぶ割合が低くなります。
かわいさに価値を置いていた小学生時代から、「女」であるが故の社会的価値の低さを実感するようになるからではないでしょうか。
http://blog.4en.jp/nposean/1/article/78/

今のお上品(笑)な私しか知らない人からは以外に思われるだろうけど、私は思春期の頃、いわゆる「俺女」だった。態度もガサツだった。意識的にそうしていた面があった。
それは、上記リンク先の記事にあるように、成長するにつれ女であることのマイナス面を認識するようになったからだ。まぁ私は「エロ本ショック」はそれほど無かったのだが、それ以外の面では色々と絶望した。
 
思春期の女性がなる拒食症の原因としては、一般的にはスリムな体型に憧れての「行き過ぎたダイエット型」がよく知られているが、これとは別に「女性性拒否型」がある。
自分の体が女性的な形を成してくるに伴って、嫌でも「女」の部分しか見ていない欲望の目線を認識することになるし、「女の子なんだからお行儀良くしなさい」とか「女の子は周囲の人に気を利かせるべき」とかいう価値観も押し付けられる。大人からこういう風に言われると、「じゃあ男だったらお行儀良くしなくても良いのかよ!」って思うんだよね。私はそれに反抗してガサツになりましたw
本当は、お行儀良くしたり気を利かせたりするのに、男も女も関係ないはずだ。だから、わざわざ頭に「女の子なんだから」って付けないで、ただ「お行儀良くしなさい」「気を利かせなさい」って言えばいいのにね。
そういった、世間が女に対して押し付けること、女として生きることのマイナス面を認識し、「女になんかなりたくない!」と、自分の体の成長を止めようとする目的でなる拒食症もある。 
今から思えば、思春期時代の私の「俺女」化は、この拒食症のケースと同じく、私なりの「女性性の拒否」だったのだろう。
 
一方で、女の色気とか魅力とかはどうだったのかというと…こっちは昔から大好きだったw
曲線美を強調したドレスも好きだし、和服の襟から覗くうなじも好きだし、凝ったランジェリーも好きだし、フェミニンなフリルの付いた服も好きだし、男装の麗人も大好きだ。(まぁほとんど観賞専門ですが…)そして、本当は上品なものも大好きだった。
 
つまり、私が嫌いだったのは「女」ではなく、世間が都合良く求めてくる「女像」だったのですね。両者は本当は全然違うものだけど、当時の私にはよくわからなくて、「女像」を捨てるためには「女」も一緒に捨てなければならないのだと思い込んでいた。もちろん当時は無意識で、こんなふうに言葉で説明できるほどはっきり認識できなかったのだけれど。
私は今、基本的に自分のことを「私」と称していて、お行儀良く上品に振舞うのも良いと思っているけれど、「俺女」だった昔の私が好きだったものが嫌いになったわけでもなく、嫌いだったものが好きになったわけでもなく、基本的に好みは変わっていない。ただ、「女」と「女像」との区別が付いて、前者は肯定して楽しみつつ、後者は拒否するという方法が、自分にとってしっくりきたのでそうするようになっただけだ。
もちろん「女の魅力」に関しては、私が個人的に好きで自主的に楽しんでいるからこそ良いのであって、「女は女の色気や魅力を強調した格好をするべき」という価値観の押し付けは昔から嫌いだしお断りしたい。まぁ実際、「女は女の色気や魅力を強調した格好をするべき」という価値観も世の中に存在しているから、子供の頃の私は余計混乱したんだと思う。
 

自称「女を捨てた」女たち
http://anond.hatelabo.jp/20101202125030
「女を捨てる」ということが、俺はいったいなんなのかよく分からないが、彼女たちの話だと、どうやら「すっぴんでも作業する」「徹夜をする」「基本どこでも寝れる」とかいいうそういうことらしい。
(中略)
だけど、俺はそういう自称「女を捨てた」女ほど、女々しく、意思が弱く、自分に甘い、そんな女に見えてならない。
都合のいいときだけ「女を捨て」、必要になったらまた「女を拾う」、そういう精神を見るたびに、俺はそういう女を心底軽蔑する。

このケースもやはり、彼女たちが捨てると言っているものは正確に言うと「女」ではなく、世間が押し付ける「女像」であるように思われる。
世間には、「女がすっぴんで外出するのはみっともない」「女は泊まりがけで徹夜してはいけない」「女がどこでも寝るのははしたない」という価値観が存在しているため、彼女たちはそれに対して予防線を張っているのだろう。もしこの社会が、女もすっぴんで作業したり徹夜したりどこでも寝たりするのが当たり前となっていたら、彼女たちもわざわざ「私は女を捨ててるから」と言う必要はないはずだ。
 
たぶん、この増田も「女」と「女像」の区別が付いていないんじゃないだろうか。
「女像」を捨てるって言うのなら「女」も捨てなければならない。「女」を楽しみたいのなら「女像」を甘んじて受け入れるべきだ。それが自分を貫くということだ。「女」としての自分は楽しみつつ、押し付けられた「女像」は拒否するという生き方は、女々しく、意思が弱く、自分に甘い、都合のいいことだと、そういうふうに思っているのだろうか。
私はそうは思わない。こんなふうに生き方が二種類に限定されていて、それしか選べないなんて、まるで、「社員でいたかったらサービス残業しろよ。サービス残業が嫌なら社員辞めろよ」という二択を迫られているようなもんだ。
そもそも、「作業」をしてる時に格好や振る舞いにあまり構わないというのは、極めて合理的なことだし、それとは別に、プライベートではばっちり化粧してオシャレして趣味やセックスを楽しむというのは、何ら矛盾しない。公私やその場の目的で格好や振る舞いを変えるというのは、別に特殊なことではなく、多かれ少なかれ誰でもそうしていることだ。
 
それに、こういう世間に押し付けられた「〜像」を拒否したくなるのは、何も女性に限った話ではなく、男性にもあることだと思う。例えば「男たるもの、家の事は妻に任せて会社に滅私奉公すべき。育児休暇取りたいとか女々しい」という「男像」とかね。そういう「男像」を捨てるんなら、「男」をまるまる捨てなければいけないのか、そうしないと「都合のいいときだけ『男を捨て』、必要になったらまた『男を拾う』」ということになるのか、というと、そうではないだろう。
本当に「都合がいい」のは、「〜像」を押し付ける方なんだよ。
 

生まれ持ったモノを呪っているのではなく、幻想を押し付けられる事を拒否しているのだ。「私」の身体を私は愛してますが?もー。
http://togetter.com/li/80752