yuhka-unoの日記

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読書感想文とは、「ひと夏の恋」を毎年しろという、無茶な要求である。

甥っ子の「走れメロス」の感想文
http://anond.hatelabo.jp/20100530005122

 
ご存知の通り、読書感想文というものは、たとえ先生が「思ったことをそのまま書けばいいんだよ」と言ったとしても、思ったことをそのまま書いてはいけないものである。思ったことをそのまま書いてしまうと、大抵の場合、先生に良い顔をされないからだ。だから子供たちは、上記リンク先の甥っ子さんのように、自分の思ったことの内容が、先生が良い顔をするようなものでないとなると、思ってもいない嘘八百を並べ立て、先生ウケする素直でマトモな「良い子」の感想文を書くことになる。
 
「読書感想文は、逆に子供を読書嫌いにしてしまうのではないか」とか、そういった議論は随分前からなされているけれども、私も読書感想文なんてなければいいのにと思っている人間のうちの一人である。
私はわりと読書自体は好きなほうで、学生時代の休み時間は主に学校の図書室で過ごし、帰りに公共の図書館にも通うほど、学生時代は本の虫だった。しかし、そんな私でも読書感想文は大嫌いだった。だから、読書が好きかどうかと読書感想文を書かせることとは、関連性が極めて薄いのではないかと思っている。
 
そもそも本というものは、人との出会いに似ていて、沢山読んでいても、真に感動したり反省したり、何かしら強く心に響く本には滅多に出逢えないものだ。日常的に何人もの人間に出会っていても、本当に尊敬できる、心を打たれるような人間には滅多に出逢えないのと同じように。しかも、そういう出逢いというのは、全くの偶然によるものであって、夏休みだけピンポイントで狙って出逢えるようなものではない。
それは例えるなら「ひと夏の恋」のようなものであろう。「ひと夏の恋」なんてものが幻想であるのは、いい大人なら誰だって知っている。しかも、毎年毎年「ひと夏の恋」をしろとは、無茶もいいところだ。夏休み中、毎日浜辺でナンパしたり合コンしたりしろというのであろうか。仮にしたとしても、真に心を打たれるような出逢いにはそうそう巡り合えるわけがない。安易で無感動な乱痴気騒ぎで終わるのが関の山だ。
 
教師はいわば、生徒に「毎年、『ひと夏の恋』をしろ」と要求しているようなものだ。生徒が毎年、心を打たれるような本に出逢い、それによって感動したり反省したりすることを求めている。それは、教師の子供に対する幻想だ。毎年毎年、「良い本」に出逢って、感動したり反省したりして成長する、素直でステキな子供。即ち読書感想文とは、子供が毎年教師の幻想に付き合ってやる作業なのである。
私が読書自体は好きだけれども読書感想文は大嫌いだったのは、この「他人の幻想に付き合ってやる」という作業に上手く乗れない子供だったからなのだと思う。自分も相手もそれが幻想なのだとわかっていてやる「ごっこ遊び」は好きなのだけれどね。
大人になった今、自分のブログで本や映画などの感想を書くのは別に嫌いじゃない。他人の幻想に付き合ってやる必要がなく、自分の好きなことを書けるからだ。
 
それから、私の場合、本当に感動したり惹かれたりしたものに出逢った瞬間というのは、その感覚を言語化しにくい場合が多い。その瞬間にあるのは、「何だかよくわからないけど感動した」「何だかよくわからないけど、ものすごく惹かれる」という感覚だけだ。自分がなぜそれに感動したのか、惹かれたのかというのは、半年、一年と時が経つうちに、「ああそうか、だから私はこれに惹かれたんだな」というふうに、脳内で整理がついてわかってきて、その段階になってやっと、自分の感覚を言語化して説明できるようになるのだ。
なので、最初の感想といえば、「うわー何コレ、何だコレ、超スゲーんだけど」ぐらいのことしか言えない。もし感想文を書くというのであれば、最初の出逢いから半年以上経って、十分に咀嚼し消化しきった後でないと、なかなか本当の感想文は書けない。
 
というわけで、私の感覚では、読書と読書感想文は全く別物だ。読書は基本的に自分のためのものだけれど、読書感想文は、先生の幻想に合わせた作文を製作する作業である。なので、読書感想文用の本を選ぶ時は、自分が本当に感動する本を選ぼうとするよりは、作業と割り切って、先生の幻想に合致した本を選んだほうが書きやすいのかもしれない。