yuhka-unoの日記

旧はてなダイアリー(http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/)からの移行

多様化と自己基準の時代―「若者の○○離れ」とひきこもりの共通点―

私は、「若者の○○離れ」とひきこもりには、共通点があると思っている。
もうマスに対して「スタンダード像」を作って、それに乗せようとするような時代は終わったということなのだろう。趣味も消費も仕事も、多様化したものの中から自分で選び取る時代なのだ。
趣味や消費は、かなり自由度が高いから、若者もすぐに時代の流れに馴染めるが、進路に関しては、社会に出てない若者は、わからなくて不安になる。「やっぱり、自分は社会経験がないから、社会に出ている大人の意見を聞いたほうが」などと思うものだ。
 
ここで、「こういう時代だからこそ、好きに生きろ、自己基準で生きろ」と言ってくれる大人なら良いのだが、私の母のように、「こういう時代だからこそ、子供を安定した進路に」と考えてしまう大人がいて、それがひきこもりフラグなのだろう。そういう考え方は、もう過去の成功体験なのだ。
過去の成功体験というものは、一部あるいは短期的には、その方法で効果が出るという状態が、一番厄介だと思う。その方法にしがみついてしまうからだ。もう全く通用しませんという状態なら、皆別の方法でやらなければならないと気付く。
そこでまだ、新しい時代への適応、移行が上手くいっていない部分があるのだろう。その谷間に落ち込んでしまったのが、ひきこもりなのだと思う。
 
今の若者の親世代は、「安定した進路」「良い学校→良い就職先→良い人生」という価値観を持っていて、そこから外れてしまったら人生終わりという恐怖感を植え付けられていると思う。私はこれを「親世代の呪い」と呼んでいる。
人間は、頭では理解していたとしても、感覚レベルまで落とし込んでいないことは、行動に移すことができない。もうそんな時代じゃないということが頭ではわかっている大人も、感覚レベルでこの恐怖感を植え付けられていると、子供に「呪い」が伝染してしまう。特に、親の意図をよく読む「いい子」ほど、呪いが伝染しやすい。
 
「こういう時代だからこそ、子供を安定した進路に」という気持ちもわからないではないが、むしろこれは、社会に余裕があり、安定が十分確保されていた時代だからこそ通用した生き方だと思う。
問題は、進路に乗せてから、その世界でやっていけるのかどうかだ。こういう余裕のない時代に、果たしてずっとその「安定した進路」にしがみついていられるのか。その道を選んだ理由が「安定しているから」しかない者は、「やりたい」という思いを持った者には適わない。振り落とされていくだけだ。
こういう時代だからこそ、選んだ進路の先でサバイバルできる逞しさが必要で、そのエネルギーの根源は「やりたい」という気持ちだと思う。これからは、そうやって生き残っていく時代なのではないだろうか。
 
かつては、テレビや雑誌が提供する若者像が「若者」のスタンダードだった。でも今は、若者の趣味は多様化し、「若者はこう」と一様に語れなくなってきている。
かつては、「カイシャ」に勤めて終身雇用というのが「社会人」のスタンダードだった。でもこれからは、どのような人でも皆一様に「社会人」だ。
そういう時代なのだろう。
 

「競争を拒む」若者の心理と意外な孤独感:日経ビジネスオンライン
 
「やりたいからやる」という熱い気持ちを奪ったのは?
 彼らが「見返りのないもの」にがむしゃらにならない理由はほかにもある。

 厳しい就職戦線にさらされてきた彼らは、何かをやろうとする時に、決まって周りのオトナたちから、「それって就職につながる?」といった具合に、自分がやりたいことよりも、就職に有利になるようなことを優先させられてきた。

 「そのバイトって、就活の役に立つ?」
 「それって就活の面接で使える?」

 そんなふうに日常的に言われてきたのだ。「将来に役立つ(ちそうな)ことをやらなきゃダメ」とオトナたちにたしなめられ、見返りも考えずに抱いた「やりたい」という熱い気持ちが奪われていった。

 自分で「やりたい」と思う気持ちを押し殺して、負け組にならないためにやった方がいいことをやってきた彼らが、会社に入り、見返りになるものを見いだせなければ、努力などするはずがない。

 
 
【関連記事】
「若者像」が存在した時代から、曖昧になった時代へ
本当の安心・安定とは、自己基準で生きるということ