yuhka-unoの日記

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「若者が」「外国人労働者が」ではなく、「自分が」という意識を持って欲しい

まだ助かるつもりのバブル世代が「若者を見限ろう」とは笑わせる

前回、『SYNODOS JOURNAL : 新春暴論 ――「幸福」な若者を見限ろう 山口浩』という記事に対して、『「子離れ」とは、親の期待を跳ね除ける子供に逆ギレすることではない』というエントリを書いたが、ちょうど、はてな匿名ダイアリーのほうで頷けるエントリが上がっていたので、今回はそれを下地に話を進めようと思う。
それに、前回は変に遠慮して、ぬるい記事を書いてしまったと反省した。やはり、相手に本音をぶっちゃけることを求める以上、私も本音をぶっちゃけねばなるまい。
 

どうも中高年移民推進論者というのは
少数派の「高機能労働者受け入れ」論者にせよ、
多数派の「奴隷労働者受け入れ」論者にせよ、
移民、もしくは出稼ぎ労働者である彼等外国人の立場からは
日本人の年寄りを養うモチベーションなんか全く無いこと
を何故か無視する。
(これは移民を「気に入らない日本の若者」のカウンターとして夢想するからで、
 いきおい移民若者像は全てが理想的で自分に尽くしてくれる感心な若者として描かれる。)

若者に対して、自分たちにとって都合の良いことを勝手に期待して、若者がその期待を退けると、「裏切られた!もうあんたなんかいらない!」と逆ギレする人は、どうせ、外国人労働者に対しても、勝手に期待して勝手に逆ギレすることになるだろう。依存的な精神の持ち主が、他人に勝手に期待して勝手に逆ギレして、何かに目覚めて成長したつもりになっているけれど、実は何も成長してなくて、また別の誰かに勝手に期待しているというのは、よくあることだ。
 
私は、日本も外国人労働者を積極的に受け入れるか否かという話題について、いじめのあるクラスに転校生がやって来たシチュエーションを思い浮かべる。転校生の出現によって、クラス内の力関係が変化し、今度は転校生がいじめられるという結果になってしまったとしたら、これまでいじめられていた子(若者)はどう振舞うのだろうか。転校生を庇うのだろうか。いや、むしろ率先して転校生をいじめそうな気がする。これまでいじめられていた憂さ晴らしに。そして、自分が再びいじめられないために。
そうなった場合は、それまで敵対していた年長者と若者は、歪んだナショナリズムで繋がるようになり、自分たちの国がうまくいかないことを、外国人労働者のせいにして憂さを晴らすようになるのかもしれない。ちょうど、今の年長者が、この国がうまくいかないことを、若者のせいにして憂さを晴らしているように。年長者の不安感や閉塞感の受け皿という今の若者のポジションに、今度は外国人労働者がなってしまうのではないだろうか。外国人労働者の受け入れが期待通りに行かなかった場合は、このような未来が待っていそうだ。
 
そうならないためには、若者や外国人労働者に対して、無責任かつ身勝手な期待をするのではなく、海外脱出せずにこの国に残る以上は、自分たちの国は自分たちで何とかしていくしかないという意識を持つことだ。もし外国人労働者が自分たちの期待通りにしてくれなかったとしても、それは外国人労働者の責任ではなく、そういう選択をした自分たちの責任なのだ。その意識もないままに外国人労働者を受け入れても、また「あんたなんかいらない!」と逆ギレすることになるだけだろう。
このような他力本願な意識の持ち主が、「若者とは共闘できない!」とは、何の冗談だろう。当事者意識がないのはむしろそちらのほうだ。
 

別にこの山口浩という人がそういう状況わかってたら当時何か出来てたとも思わないが、
ただ何もしてこなかったし何も出来ない人間が吠えんなよということ。
 
もし「いや違う、俺はやろうとすれば何かが出来る」ということなら、
今の若者世代よりざっと20年長く世に出ていながら何も出来ず今日の状況を招いて
あげく下の世代に恨み節をいうとは烏滸の沙汰だろうバブル世代。
無力を認めたほうが立場はマシ。

あの「暴論」とやらは、「今まで何もできなかったし、これからも何もできないであろう、無力な自分」という真実を認めたくなくて、自分自身を有益な人間だと思いたくて、足掻いている内容に思えた。
私自身は、上の世代が何もできないことを責めるつもりはない。個人でできることは限られているし、私たちの世代だって、これから先、下の世代にどれほどのことができるのか。おそらく何もできないのだろう。問題は、自分の無力さを認められないことだ。
 
人は誰だって、自分自身を有益な人間だと思っていたい。しかし、この願望は、時に強烈なエゴとなって、他人に迷惑を掛けることになる。この願望が強くなった人は、実際に自分が有益な人間になって、相手にとって必要なことをするよりも、自分自身を有益な人間だと思いたい願望を満たすことを優先するようになる。
そうなると、相手のニーズを無視して、親切の押し売りをし、それを相手が跳ね除けると、途端に不機嫌になり、相手に感謝を要求したり、「あんたなんかいらない!」と逆ギレしたりする。つまり、実際に自分が有益な人間になるのではなく、周囲の人間に「自分を有益な人間として扱え」と要求するのだ。このような傍迷惑で恩着せがましい「自称支援者」は、「支援」が関係する場所では、必ずと言って良いほど現れる。
 
このような意識でいるうちは、本当に有益な人間になどなれるわけがない。自分の無力さを認めてこそ、地に足をつけて、一歩一歩有益な人間になっていくことができるのだ。「俺を有益な人間だって認めろよぉ!」と喚き散らしているだけの人と、どう「共闘」しろというのだろう。「何もできない自分」という真実を認めて、スタート地点に立ってから来て欲しい。
 

沈む船の中でまーだ「誰を脅せばいい目見られるかな」「誰を殴れば助かるのかな」
なんてことを考えてる暢気さはさすがのバブル世代の貫禄がある。
 
繰り返しになるが
「暴論」という体はこの山口浩さんがまるで状況をわかってないことについての言い訳にはならない。
この世代のオッサン達がするべきことは下の世代に喚き散らすことではなく
自分達もニコ動を楽しめるように体を慣らしていくこと。

結局のところ、あの「暴論」とやらは、今まで若者が自分のお守りをしてくれる夢を見ていた人が、「若者に期待せず自分でやれ」と言っている内容の本を読んで、逆ギレして「お前らを見捨てるぞ!」と脅しつつ、今度は外国人労働者が自分のお守りをしてくれる夢を見ているだけ。そのくせ自分の体面だけは保っておきたいもんだから、何となく頭良さそうに見せかけた長文を書いてはいるものの、その実態は、「いやいや、これはあくまでも『暴論』ですから。古市氏に倣ってみただけですから。ネタですからね〜」などというポーズをとって、逃げを打つような真似をして、批判を回避しているだけ。
それで「若者におせっかいしても、そっぽを向かれるだけ」などと言っているのだから笑える。お守りが必要なのは自分のほうではないか。若者が「引き受ける」ことを拒否しているのは、自分たちの順番ではなく、大きな赤ちゃんのお守りだ。外国人労働者なら尚更、お守りなど御免だと思うだろう。
所詮あの「暴論」は、今まで年長者たちがやってきた、自分の不安感や閉塞感を若者にぶつけて憂さ晴らしすることの延長線に過ぎない。「子離れ」などと言って変わったつもりになっているらしいが、実際には何にも変わっていないのだ。いつまでも「若者が」「外国人労働者が」という意識でいるのではなく、「自分が」という意識を持って欲しい。他人の言葉に乗っかって逃げを打つのも、格好良い行為だとは思えない。
 
私はよく、「自分で自分の心のお守りをする」という言い方をする。(詳細は『自立とは、自分の心の赤ちゃんのお守りを自分ですること』で述べた。)それは、自分のお守りをするのが辛くなったときに、誰かに助けを求めることも含まれている。子供を一人きりで育てずに、他の人と助け合って育てるのと同じで、自分の心のお守りも、他の人と助け合ったって良い。自分の心のお守りを自分でしようとしている人となら、年上年下関係なく助け合えるだろう。年上とか年下とかの前に、一人の人間同士なのだから。
しかし、自分の心のお守りを放棄して、「俺のプライドを満たしつつ甘えさせてくれ!」という人とは、助け合うことはできない。そういう人は、こちらを一方的に搾取してくるだけだからだ。そして、そういう人は、大抵自分より弱い立場の人間に、無自覚に甘える。
 
 
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