yuhka-unoの日記

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「若者像」が存在した時代から、曖昧になった時代へ

バブル世代という神話: Meine Sache 〜マイネ・ザッヘ〜
 
いつの時代も若者は貧しいものです。貧しさのレベルで言えば、バブル期の若者は、それ以前の時代の若者とは比較にならないほど恵まれていました。しかしあの時代は、貧しい若者が貧しい若者らしく貧しい若者ライフを満喫する余地はありませんでした。カルト信者かオタクと見られたくなければ、嫌でも背伸びをしてテレビや雑誌の煽る成金趣味なトレンディライフについていかなくてはならない、残酷な時代でした。

上の記事を読んで、私は、今の時代に生まれて本当に良かったと思った。もちろん私だって、今の時代が100%良いなんて思っていない。けれど、経済的なことはともかく、価値観的には良い時代になったと思っている。「成金趣味なトレンディライフ」なんて、息がつまりそうだ。もしバブル期に生まれていたら、おそらく私の居場所はなかった。経済的に恵まれていたとしても、自分自身であることができない、自分以外のものに無理矢理ならなければならないとしたら、それは本当に残酷な時代だ。
 
私はなぜか、昔から流行りのJ-POPにそれほど興味が持てなかった。ほぼ唯一、椎名林檎に惹かれはしたものの、結局、今現在に至るまで、椎名林檎のCDは一枚も持っていない。つまりはそういうことなのだろう。結局、金を出して買いたいと思えるほどには、興味を持てなかったということだ。
当時流行っていた音楽を聞くと、「懐かしいな」とは思う。でも、自分の日常の一部として、手元に置いて聴きたい曲は、ほとんど無い。椎名林檎も、「自分に近い」感じはしたけれども、何かどこかで「自分」ではなかった。
 
だから、昔の私は、音楽にそれほど興味を持っていなかった。正確に言うと、音楽に対する興味を自覚していなかった。自分は何が好きなのかということ自体、わかっていなかった。もっともそれは、好きな音楽を自覚した今だからこそわかることで、昔の私は、自分が何が好きなのかをわかっていないということ自体をわかっていなかったのだ。
ネットをするようになって初めて、自分が好きな音楽の源流が、昔見ていた古いミュージカル映画にあるということがわかった。子供の頃、「雨に唄えば」などのビデオを、あれだけ繰り返し観たということは、その音楽に惹かれていたということなのだろう。しかし、当時の私は、「音楽を聴いている」という意識ではなく、「映画を観ている」という意識だったのだ。
 
同世代の子がしていることに惹かれないというのは、音楽だけに限らなかった。私が高校生の頃は、茶髪・ミニスカ・ルーズソックスという「コギャル」時代だったのだが、私はコギャル文化にも全く興味を惹かれなかった。なので、当時は模範生徒的な格好をしていた。先生ウケは良かったが、別に先生ウケを良くしたくてそうしていたわけではない。ただ、当時は実質コギャルか模範生徒かの選択肢しかなく、コギャル的なものに惹かれなかったから模範生徒でいただけだ。10代の私は、自分にどういう格好が似合うのか、全くわかっていなかった。単なる服装の迷子だっただけだ。
今でも服装の迷子ではあるけれど、昔に比べると、ある程度自分の方向性がわかってきて、随分マシにはなったかなと思う。
 
10代の私は、自分のことを、「近頃の若者」らしくない若者だと思っていた。趣味もそうだが、大人びて見られることもあって、完全に「近頃の若者」の本流からは外れていた。
私にとって、ネットが普及する以前の世界は、コギャルか模範生徒かの二つの選択肢しか無く、その二つの選択肢以外の道を探そうという発想すら無いような世界だった。ネットが普及すると、コギャルと模範生徒以外の選択肢にアクセスできるようになり、自分に合うもの、惹かれるものが探しやすくなった。
ネット普及以前は、「これが近頃の若者だ!」というイメージが、はっきりと存在していた時代だったのだろう。それはあくまでも、一部の若者であったり、ステレオタイプな若者像であったりしたのだが。しかし、現代はもう「近頃の若者」の「本流」というものがほとんどなくなってきて、若者像が曖昧になってきていると思う。それは若者が多様化したということだろう。私は、若者らしくない若者から、多様化した若者の中の一人になった。
 
ところで、ニコニコ動画やPixivで、ランキングが初音ミク腐女子に乗っ取られたと言っている人を見た時は、「なんで検索ってものをしないんだ?」と思った。今時、自分の気に入るものくらい、自分でいくらでも探しに行けるのに。それがネットというものなのに。鳥の雛のように、口を開けてじっと待っていれば、誰かが餌を運んできてくれる世界がお望みなのだろうか。
自分の好みがあまりにもマニアックすぎて、いくら探しても無いというわけではないだろう。そもそもそういう人は、最初から自分のことを「本流」だと思っていないので、乗っ取られたとか言わないはずだ。乗っ取られたとか言うのは、本来なら自分が「本流」であるはずだという意識があるからだろう。そもそも、運営側が広く間口を設けるスタンスを取っている場所において、それを「俺らの場所」だと思い込むのは、それこそ乗っ取りではないか。
 
 

あまりにも有名な「雨に唄えば」のあのシーン。
子供の頃、初めてこれを観た時は、ビデオのレンタル期間中何度も繰り返し観てしまった。
 
 
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