yuhka-unoの日記

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感情を自覚しない感情表現について

感情表現について (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2011/08/10_0940.php
 
だから、他人の内面をダイレクトに操作しようと願う人間−つまり、「政治的な人間」−は、演技的な怒りや演技的な悲しみや演劇的な苦悩に熟達するようになる。
政治家が「過剰に感情的になっている」ように見えるのは、当たり前なのである。
橋下大阪府知事石原都知事は怒りを剥き出しにすることでメディアの注目を集め続けているが、これは計算ずくのパフォーマンスだろうと思う。
(中略)
二昔前ではまず見ることのなかった、「いい年をした大人が怒声をあげる、泣く、ふて腐れる」という様子を私たちはもう見慣れてきている。
これはたぶん「無理に我慢しないで、感情は爆発させた方がいい」というフェミニストたちがうるさく説いた「専門的」勧告の一つの成果でもあるのだろう。

これはかなり誤解を招く表現なのではないだろうか。私はフェミニズムを学んだわけではないので、フェミニズムについてわからないことを承知で書くが、フェミニストはたぶんそんなことを説いていない。
私の解釈では、怒り・恐怖・嫉妬・悲しみ・寂しさなどの負の感情のうち、男性は怒りしか表明してはならず、逆に女性は怒りを表明してはならないというジェンダー観がある、ということだと思うのだが。
それゆえ、男性は恐怖を感じても「怖い」と言えず、寂しさを感じても「寂しい」と言えず、恐怖も寂しさも「怒り」という形で表明してしまうので、他人を傷つけてしまう。また、自分が傷ついたのだということを認められないため、自分の心の傷を癒せなくなってしまう。心が傷ついてしまうのは、「男として屈辱」だからだ。
一方、女性の場合は、不当な扱いをされても抗議することなく、黙って我慢してしまいがちである。酷い目にあっても黙って耐えるか弱い女性が、推奨される「理想の被害者像」であり、抗議するのは「生意気」とみなされてしまう。
 
フェミニストたちが言っている「感情の表明」は、だいたいこういうことだと思うのだが。なので、感情を無節操に爆発させることを、さもフェミニストが説いたことのように言うのは、正しくないと思う。ただ、フェミニストたちが言ったことが誤解されて解釈された、という部分はあるかもしれない。ちょうど、夏目漱石も言ったような、自立と自制に基づいた「個人主義」が、自立も自制もすっ飛ばして「個人主義=好き勝手」と誤解されて解釈されているように。
 
心理学の分野では、「怒りは感情の蓋」という言葉がある。怒りの下地には、恐怖や嫉妬や悲しみや寂しさが潜んでいる、ということだ。フェミニストたちは、(特に男性に)怒りの下にある感情を自覚し、そちらを表明せよ、と言っているのではないだろうか。そもそも、男性の怒りから来る暴力を防ぐ、という目的があるのだから。
過去の記事『元いじめられっ子のいじめっ子』でも書いたが、男の子がいじめに遭った場合、女の子よりも「いじめられるなんて情けない、恥ずかしい、格好悪い」「やられっぱなしで悔しくないのか。男だったらやり返せ」などと言われるため、自分がいじめによって傷ついたということを認められなくなり、いじめる側に回ることで、いじめられた屈辱を払拭しようとしてしまう傾向がある。
 
で、元記事に挙げられている橋下大阪府知事石原都知事は、まさしく怒りの下地にある感情を自覚していないがゆえに、怒りを吐き出しているタイプだと思う。わかりやすい例が、石原都知事の「ババア発言」だろう。

「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%90%E3%82%A2%E7%99%BA%E8%A8%80

石原都知事はこの時、自身の男性機能を失う恐怖に直面していたのではないだろうか。ここでもし彼が「いやぁ、最近起たなくなってね…この年になるとそうなるってのはわかっていても、侘しいもんだよ」なんて、素直に言える性格なら良かったのだ。それが本当の意味での「感情の表明」だ。しかし、典型的マッチョ気質である石原都知事にとっては、男性機能を失うことは、自分の存在価値が失われることを意味し、しかも、そのマッチョ気質ゆえに、恐怖感を自覚することもできなかった。なので、女性に投影する形で、自身の感情を表明してしまったのだろう。
 
かつて橋下知事は、私学助成金削減の時、高校生に対して「16(歳)からは壁にぶつかって、 ぶつかって」と言っていた。また、Twitter上で、「教育とは2万%、強制です。」と発言している。これは、「自分は辛いことに耐えてきたのに、お前らが耐えないのは許せない」「自分が抑圧されてきた分、今度は抑圧する立場にならないと気が済まない」という感情がある。
また、北朝鮮への経済制裁を口実に、朝鮮学校への補助金を取りやめた件は、もっともらしい理屈を並べ立てているものの、その根底にあるのは、「本丸を攻撃するのは困難なので、身近な弱いものを叩いてうさ晴らしがしたい」という、極めてよくあるシンプルな感情だろう。
更に言うならば、愛国心の強制は、「国」ではなく「自分」が愛されたいという感情だ。「日本」というブランド品をこれ見よがしに身に纏う人たちの望みは、ブランド品が「凄いね」と言われることではなく、自分自身が「凄いね」と言われることだ。彼らは「そのブランド品(日本)はダメだね」と言われることよりも、「そのブランド品(日本)は凄いけど、あなたはダメだね」と言われることのほうが腹が立つ。
 
石原都知事の例で言うと、「いやぁ、最近起たなくなってね…」などと言うのが、自覚ある感情表現ならば、「閉経したババアが生きているのは弊害」などと言うのは、自覚なき感情表現だ。『自立とは、自分の心の赤ちゃんのお守りを自分ですること』でも書いたが、適切な感情の表明は、感情の自覚ができてこそだ。「論理的=格好良い・感情的=格好悪い」という価値観に取り付かれ、理性だけで生きているつもりの人は、大抵、自分の感情を自覚できていない。感情を自覚できていない人は、自分より弱い立場の人を無意識に抑圧するような形で、感情をまき散らす。
つまり、彼らは自分の感情を自覚していないからこそ、あのように「怒りを剥き出しにする」ことになるのだ。もし感情を自覚できたなら、「こんなチンケな感情から行動するなんて、格好悪いよなぁ…」と思って、逆に理性的になれる。
もっとも、彼らは自分たちの手法が効果的だということについては、自覚があるかもしれない。しかし、自分がなぜその手法を取ってしまうのかという点においては、深い部分では理解していないのではと思う。
 
「橋下大阪府知事石原都知事は怒りを剥き出しにすることでメディアの注目を集め続けている」のは、大衆が彼らの「怒り」に驚異を感じて、なんとか鎮めようとするから、というわけではないと思う。なぜなら、彼らを支持する人たちは、「やる気がある」「信念がある」「はっきりものを言ってくれる」という理由を口にすることが多いからだ。彼らの怒りを鎮めるというよりは、むしろ彼らの怒りに同調してしまっている。
橋下知事が「公務員が悪い!」「教員が悪い!」と言えば、彼らを支持する人たちは、「そうだそうだ!」と同調する。この、「そうだそうだ!」と同調して、一緒に「怒り」を吐き出し、熱血正義感になったような高揚感が、彼らの政治的パフォーマンスなのだろう。
端的に言うならば、ヒトラーの手法だ。ヒトラーもまた、演技的に怒りを表明するタイプだった。ただ、それだけがヒトラーの手法ではないのだが。これについては『いじめと差別と橋下府知事』で書いた。ヒトラー型の手法は、割とよくある支持の集め方で、この社会はどこにでも「プチ・ヒトラー」がいる。ナチスドイツは、特にその手法が大成功した事例であるというだけだと、私は考えている。
 
橋下知事を支持する人がよく言うのは、「言ってることはよくわからないけど、やる気があるから、あの人に任せてみたい」ということだ。しかし、部下に仕事を任せるにあたって、「何をやってるのかよくわからないけど、とにかくやる気だけはあるから、あいつに任せてみよう」という上司って、どうなんだろう。
世の中には、上司に対するアピール「だけ」が上手い部下がいるものだ。そういう部下は、仕事もアピールも下手な部下よりも厄介だ。仕事もアピールも下手な部下は、「できない」ということが誰の目にもわかるが、アピール「だけ」が上手い部下は、「できない」ということがなかなかわからないため、わかった時点では、既に色々な問題を起こした後だったりする。
人々は、今の社会にうんざりしていて、とにかくこの現状を変えて欲しいと思った時、提示された選択肢の中から、一番の「壊し屋」を選んでしまいやすい。そしてその「壊し屋」は、「創る」ことは不得意で、壊すことしかできなかったりする。
「壊し屋」は、それまで人々が壊して欲しかったものを壊すので、人々は爽快感を覚え、「壊し屋」を支持するが、「壊し屋」は大抵、壊してはいけないものまで壊す。しかも、就任期間が長引くほど、壊してはいけないものに手をつける。「創る」ことが不得意なので、成果を上げようと思えば、やはり「壊す」方向に向かうしかなくなるからだ。
既に橋下知事は、壊してはいけないものにまで、かなり手をつけ始めている。
 
 
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