企業の言う「主体性」と、大学が受け取る「主体性」のズレ
それは経団連用語の「主体性」を誤解していますね: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-acc6.html
これは、大学文学部の哲学科の教授が教えるような意味での、自立した「個」としての絶対的な主体性ではありません。集団や組織に懐疑の目を向ける唯一者としての主体性ではありません。むしろ、集団や組織と一体化する主体性です。
これは、組織の一員として自分が組織を背負ったつもりで、地位は平社員であっても社長になったつもりで、まさに自分自身を組織の主体と考えて行動できる性質のことです。島耕作的主体性とでも言いましょうか。
むむむ…私も前回の記事『主体性が足りないのは大学生だけなのか?』で、「『自分で判断して行動して欲しい』という言葉を、『こちらが何も言わなくても、こちらの望むとおりに動いて欲しい』という意味で使っている大人は多い。もしかしたら、これが『主体性』というやつか。」と書いたが、もしかしてそうなのか?本当にそうだったのか?もしそうだとしたら、企業側が「最近の大学生には主体性が足りない」と言っている理由には大いに納得がいく。
つまり、企業側は「こちらが何も言わなくても、自主的にこちらの意向を汲み取り、自主的にこちらの望む行動をする人材が欲しい」という意味で「主体性のある学生が欲しい」と言っているのだが、それを聞いた大学側は、「個人として自立した精神を持った人材が欲しい」という意味に受け取っている、という可能性があるわけか。そして、大学側が一生懸命「個人として自立した精神を持った人材」を育て上げると、その人材は企業側から見れば「最近の若者は甘やかされている」「わがままだ」「打たれ弱い」「主体性が足りない」となるわけだな。企業側と大学側の認識のズレによって、双方が不満とストレスを溜め込んでいる可能性があるわけか。
しかし、終身雇用と年功序列が崩壊した今、そういったものを求めるのはもう無理があるし、こういった適応型の精神は、最近の大学生に不足している素質第二位に挙がっている「既存の価値観にとらわれない発想ができる『創造力』」とは相反するものだよ…だって、「既存の価値観にとらわれない発想」は、個人として自立した精神から生み出されるものだし、大抵「既存の価値観(企業の価値観)との衝突」を生むものだもの。
こうやって適応することを強いる社会って、鬱を生みやすいんだよね。たぶん、バブル崩壊する前は、適応だけが求められていたから、まだなんとか誤魔化せてたんだろうけど、現代は、企業に自ら進んで合わせるという意味での「主体性」と、「既存の価値観にとらわれない発想ができる『創造力』」が同時に求められる――つまり、会社や社会に適応することを求められる一方で、個人として自立した精神を持つことも同時に求められるという矛盾が生じているわけであり、その矛盾から引きこもりが大量発生しているのではないだろうか。
会社に適応できない者は引きこもりになり、適応できたとしても、個人として自立した精神が養われないまま会社文化にどっぷり浸かった者の行き着く先には「退職後鬱」という引きこもりが待っている。まぁ今が過渡期なんだろうけど、なんとかならないもんですかね。
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