yuhka-unoの日記

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「私には何もできない」という現実―震災後数日間の私の思考―

あの東日本大震災が起きてから、多くの人が悩んでいたように、私も悩み、迷っていた。私は何を思うべきか、何をするべきか…
で、そのうちに、「迷ったり悩んだりしているほうが、良いってこともあるよな」と思うようになった。
世間には、迷っている状態は悪い状態であり、迷いなく自分の決めた道を進んでいる状態が良い状態であるというイメージがあるが、迷いなく自分の決めた道を進んでいる状態というのは、実は視野狭窄紙一重だ。
悩んで迷った末に、自分の答えに辿り着いたので、もう迷わない、というのなら良いけれど、迷いから逃れたくて、楽になりたくて、提示されたものにパッと飛びついてしまうというのは、大抵解決を遅らせるだけで、良くないのだろう。
 
震災後飛び交った善意によるデマは、そうやって広まった部分もあったのではないかと思う。「私は何をすれば良いんだろう」と迷っているところへ、チェーンメールが送られて来ると、「そうだ!これを広めればいいんだ!せめて今私にできることはこれだ!」と飛びついてしまう。おそらく、大きな災害が発生した直後は、多くの人が、デマを信じやすい心理状態になってしまうのだろう。
 
結局のところ、人は誰しも、自分の答えは自分で見つけるしかない。そこに至るまでに、いくら迷おうとも。だから、迷っていても良い。迷いながら行動して、行動しながら迷えば良い。迷うということは考えることだから。むしろ、迷ったり悩んだりすることを怠けることのほうが、いけないということなのだろう。
というわけで、私はとりあえず、迷うことにした。
 
そして、震災から二週間ほど経った日、私は、自分なりの一つの答えにたどり着いた。それは、「私には何もできない」ということだった。
メディアでは、連日「私たちにできること」「今何がやれるのか」と言っていたが、私はずっとそれに違和感を感じてきた。その違和感の正体は、「私には何もできない」という、シンプルかつ残酷な現実だった。
おそらくあの時は、私も含めて多くの人が、自分以上の何かになろうとして、もがいていたのだろう。こういう時、自分は無力な人間なのだと思いたくない。必要とされる人間でありたい。役に立つ人間でありたい。だが、それは私のエゴだった。
現実の私は、こういう時に、全くの無力で、何の役にも立たない人間だった。
 
そりゃそうだ。こういう時に役に立つ人間は、こういう時のために存在している、普段から訓練を積んでいる人たちであって、そして、その人たちでさえ、圧倒的な現実を前に、無力感を感じているかもしれないのだ。
自分は、自分以上のものにはなれない。自分にできる範囲のことしかできない。思えば、「私には何もできない」という答えにたどり着くまでの悩みは、このシンプルかつ残酷な自分の現実を認めたくないがための、ただの足掻きだったということだ。
その答えにたどり着いた瞬間はショックだったが、その後、私はすーっと気持ちが落ち着いた。足掻きがなくなったのだ。地に足が着いたような感覚がした。
 
「何かできること!できることがあるはず!」と、無理矢理自分以上のものになろうとするのは、どこか無理があり、どこか押し付けがましい。「私は何もできない」という現実をスタート地点として、そこから自分にできることを考え、見つけ、それを淡々と、一生懸命やるということなのだろう。
現実はシンプルかつ残酷だが、現実を救うのは結局現実だ。