yuhka-unoの日記

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困った親の言う「私を理解して」は、「私を良い親だと思って」

困った親ほど、子供に対して「私を理解して」「私に感謝して」と言う。そして、子供に承認と感謝を求める気持ちに反比例するかのように、子供の気持ちを理解しようとする姿勢に乏しい。
そのような親の元で育った子供は、精神を搾取されて育つ。親に対する承認と感謝を迫られ、自分の気持ちは親に無視される。理解してもらえない気持ちを抱えて育った子供が、親から開放されるには、「親に感謝しなければならない」「親を理解してあげなければならない」という縛りから開放され、自分の気持ちを自分で理解してあげる努力をする必要がある。
 
困った親の言う「私を理解して」は、正確に言うなら「私を良い親だと思って」だ。この手の親は、大抵自分のことを「良い親」だと思っている。下手すると、自分は他の親よりずっと子供を愛して子供を想っているとすら思っている。しかしそれは現実ではなく、「良い親」という自己イメージに縋り付いているだけだ。実際の自分は、子供を傷つけ追い詰める親なのだということを認めるのは、この手の親たちには非常に難しい。
子供ですら、自分の担任の先生が、本当に自分たちのことを考えてくれている先生なのか、「良い先生」という自己イメージに酔っているだけで、本当は自分たちのことなんて全然考えてくれていないのかが、ちゃんとわかる。それはもちろん親の場合も同じだ。
機能不全家庭で育った子供は、自分の親が「良い親」という自己イメージを保っておきたいだけで、本当は良い親ではないということを理解している。そういう意味では、親本人よりも親のことを理解しているのだ。
 
これは例えるなら、「女を気持ち良くさせる究極のテクニック」みたいなタイトルの本を読んで、その本の通りに彼女とセックスしようとする彼氏みたいなものだ。
彼女の反応や気持ちを見ようとすることなく、独り善がりなセックスをして、それで自分はセックスが上手い良い彼氏なんだと思い込んでいるような彼氏では、彼女のほうは苦痛だ。ここで、彼女のほうが「やめて!そんなやり方全然気持ち良くない!本じゃなくて私を見ろ!」と言えるような状況ならまだ良い。彼女が彼氏を傷つけまいとする「良い子」であった場合、あるいは、自分の「良い彼氏」という自己イメージが壊されることを恐れて、彼女を威圧して何も言えなくしてしまうような彼氏の場合、彼女は彼氏に合わせて「演技」することになる。
自分自身を「良い親」だと思っていたい親に、心身をすり減らしながら「演技」して合わせてきた子供。その苦痛は、長年のうちに溜まりに溜まっている。これが「キレる良い子」のメカニズムだ。
  
家庭内虐待というと、多くの人は、ニュースの中での遠い出来事として認識しているのだろう。そういう人たちが思い描く虐待のイメージは、誰が見ても狂っている親が、傍から見てもわかりやすく子供を虐待し、虐待された子供は常に暗い顔をしている、そのようなものなのだろう。しかし、おそらく実際には、そのような「わかりやすい」虐待のほうが少ないのではないかと思う。
上で挙げたような、自分自身を「良い親」だと思っていたい親に、「演技」して合わせている子供の家庭が、外からどう見えるかを想像してみて欲しい。ともすると、他の家庭以上に良い家庭で、他の親以上に良い親で、他の親子以上に親子仲が良いように見える。外面を普通の家庭以上に良く見せている家庭で、子供が苦しんでいるケースは、決して珍しくはない。
 
そのような家庭で育った子供に、やがて問題が表れるのは当然だ。だが、こういう家の子供に問題が表れた場合、外から表層だけを見た人は、善良で立派な親と、親を困らせる親不孝な子供にしか見えない。子供は誰にも自分の気持ちを理解してもらえないまま、世間からも責められることになる。「親の気持ちを理解しようとしない、未熟で我侭な若者」だと見なされ、親以外の人からも、「親の気持ちを考えなさい」「親を理解してあげなさい」と言われる。しかし、当の子供は、ある意味誰よりも親の気持ちを考え、理解している。親が認めたくない部分まで。
もっと言うなら、「親の気持ちを理解しようとしない、未熟で我侭な若者」に、上から目線でアドバイスや説教をするのは気持ちが良い。アドバイスし説教ができる立場という快感を貪りたい大人たちが、機能不全家庭で育った子供に、ハイエナのように群がる。
(当然、このような子供の問題が、「ひきこもり」として表れる場合もある。)
 
世間の人たちは、虐待は自分とは遠い世界の出来事だと思っているのだろう。虐待家庭は「あちら側」の世界、自分たちが住んでいるのは「こちら側」の世界。「あちら側」は、間違っていて苦しく辛い世界、「こちら側」は、正しく優しい世界。だから、「あちら側」から抜け出して来た子供は、きっと自分たちの「こちら側」の世界では、穏やかに、幸せになれるのだと、そう思っているのだろう。まさか、自分たちこそが虐待された子供を傷つける存在なのだとは、露ほども思わずに。
 

 「私はあなたのためを思って、あなたに良かれと思っていろいろなことを考え、させてあげたり買ってあげたりしてきたのだ。その結果、あなたはたくさんの経験をし、そのおかげで今のあなたがあるのだ。だから今のあなたがあるのは私のおかげである。だから私のしたことを何であれ疑ってはならない。私は間違っていない。結果が悪かったとしても、私は正しいのだ。あなたは私のしたことに疑いを持ってはならない。不満を持ってはならない。否定してはならない。私はあなたに多くのよいものを与えてきたのだから、逆に私がどんなひどいことをあなたにしてきたとしてもそれは全て忘れ、素晴らしいものを多く与えてあげた母である私に感謝しなければならない。あなたが私に向ける気持ちは感謝のみでなければならない。過去のことで私を責めてはならない。抗議してはならない。傷ついてはならない。なぜならそれは私を傷つけることだからだ。私を傷つけてはならない。私はあなたに多くのよいものを与えてきたのだから、全てを喜んで受けなければならない」
「良かれと思って」の罪深さ

1 育児についての理想が高い:
  意外なことに子どもを虐待してしまう養育者(特に母親)の多くは、「良い親でありたい」という気持ちが強い人達です。
  そのためにかえって子どもの発達や「しつけ」について高い理想を持ち、その理想どおりにいかない現実の子育てにいらだちます。
  さらに、「こんなことではいけない」と自分を責めることで自分自身を追いつめ、気持ちのゆとりを無くしてしまう傾向があります。
なぜ虐待は起こる?

 
 
[追記]
続きを書きました。
あなたは私よりも「大人」かもしれませんが、虐待については私よりも無知な立場です。
 
 
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