yuhka-unoの日記

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他人からの励ましやアドバイス

精神科医のことを「うぜぇ」と思ったときがある。「これは私の考えなんだけど」と前置きして、「人生は暇つぶしだと思うの」「経験は何でも糧になると思う」とアドバイスされた時だった。
私は頷きながら聞いて納得しているふりをしていたけど、内心では「ああ、よくある陳腐な言葉だな」としか思えなかった。
 
「人生が暇つぶしだったら、私別に今のままでいいやん。今のままでも十分に暇潰せてるし。でも、今のままじゃ嫌で、自分の人生を生きたいからここに来てるんだよ。」
「糧になるとか、そんなもん誰にもわからんやろ。経験が生かせるかどうかはその後の運次第な面もあると思うし、結局トラウマにしかならない経験だってあるんじゃないのか。」
…と、そんなことを思った。
 
そして何より思ったのは、「本当に私の血肉になるような言葉は、私は自分で見つけられるから、別にわざわざあなたに言ってもらわなくても結構です」ということだったね。私のことを、何も自分で考えられないような、不安を抱えて怯えているだけの弱い人間であるかのように扱われたことに、腹立たしさを感じたんだと思う。
「いやだって不安は言うに決まってるやん。ここは精神科であなたは精神科医なんだし。私はここで不安を表出する必要があると思ってるから不安感を口にしているのであって、ここで見せる私が全てじゃないよ。弱い面だけが私の全てじゃない。」
そう思った。
 
実際、私はこの精神科に行くことによって精神が改善されていったのだが、しかし、それでも精神科医に対して「うぜぇ」と思うときがあったということだ。
まぁ、プロでも患者から「うぜぇ」と思われることもあるんだから、素人のアドバイスなんて「うぜぇ」と思われて当たり前だと思うよ。ただ、「だから励ましやアドバイスなんて一切するな」という話ではなくて、自分の励ましやアドバイスが全面的に受け入れられて当然だと思わないこと、相手が聞いて納得しているように見えても、それは本当に納得しているのか、実は内心「うぜぇ」と思われているけれど、気遣いで納得している振りをしてくれているだけなのかわからないということ、実はその分野に関しては相手のほうが知識や能力が上かもしれないということ、それらを踏まえた上で励ましやアドバイスをするということだ。
 
実のところ、励ましやアドバイスというのは、する側の欲が混ざりやすいものだ。「相手を自分の思い通りにしたい」「受け入れられて感謝されたい」「自分が賢いというところを見せたい」「自分が有益な人間だと実感したい」「『何かしてあげなければ』『何か言ってあげなければ』と焦る気持ちや罪悪感を和らげたい」とかね。
 
結局のところ、誰だって自分の答えは自分で見つけるしかない。他人から何を言われようと、そこに至るまでにどれだけ迷おうとも。だから、良かれと思ってする励ましやアドバイスも、本人が自分で自分の答えを出す権利を無視するようなものになっているのなら、それは「うぜぇ」なんだよね。
 
ちなみに、「人生は暇つぶし」という言葉は、私の中では、ある程度自分の人生が見えてきた人が言う、悟りの言葉という解釈だ。リタイアした老齢の人が、第二の人生を趣味やボランティアに勤しみながら「人生なんてもんはねぇ、暇つぶしなんだよ」って言うようなイメージ。だから、その言葉を使うには私はまだまだ若すぎると思う。
 
 
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