yuhka-unoの日記

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「女が男を部屋へ招いたらセックスOK」って、世の中には異性愛者しかいない前提の考えだよね。

「女が男を部屋へ招いたらセックスOK」という考えは女にとって恐怖でしかない - 外資系OLのぐだぐだ


まぁタイトルの通りなんだけど。同性の友人知人を家に招いてセックスなしで過ごすのは、普通によくあることで、というか、同性だったら家に招いてもセックスとか考えるわけないだろっていうのが、なんとなく世の中の常識になっていて、一方で異性の場合だと、「家に招くのはセックスOKの合図。だからセックスする気がないのなら家に入れるな」なんて、私はおかしいと思うんだよね。
世界的には、同性婚できるところが増えていて、日本でも渋谷区で同性パートナーシップ条例ができて、世の中の流れとしては、確実に「同性愛者は存在する」ということを前提とした社会を構築する流れになっている。こうなると、セックスしていいかどうかは、「異性・同性にかかわらず、家に招いたらセックスOK」となるか、「家に招くことは、セックスOKの合図ではない。相手が言葉ではっきり意思表示をした場合のみセックスOK」となるかのどちらかになるだろう。そして、世の中がどうなっていくかというと、私は後者になっていくと思う。現に、同性婚ができる国では、そういう方向に行っているみたいだし。


そういえば、以前、仕事で付き合いのある60代か70代の男性から食事に誘われた40代女性の話を読んだことがあった。元記事を探したが見つからなかったので、リンクは貼れないけれど、確か、食事が終わってから、男性のほうが「こうして二人で食事をしたということは、そういう関係だと考えて良いということだね」と言い出しだので、全くその気がなかった女性のほうは慌ててしまい、否定すると、男性にどういうつもりで来たんだと聞かれ、「おいしい料理が食べられるな〜と思ったから」と答えた。男性のほうは「男女が一緒に食事をしたということは、そういう関係になると了承したこと」「女性とそういう機会を持つことが、男として現役の証」という認識を示したのに対して、40代女性が「私たちの世代では、男女関係はもっとフラットで、そんな仲じゃなくても食事くらいする」と説明したという内容だった。
以前見たワイドショー番組でも、「最近は熱愛発覚というのが難しくなってきた」「昔は、二人っきりで食事をしたら、もうそういう関係だと見なされていたけれど、今の若い人たちは、食事くらい普通に行きますからね」というようなことを言っていた。


今や、男女が一緒に食事をしたからといって、そういう関係だと捉えるのは古くなっている。ということは、「女が男を部屋へ招いたらセックスOK」も、これからは古い考えになっていくんじゃないかな。あと何十年かすれば、若い世代の人に対して「女が男を部屋へ招いたらセックスOK」という認識を示したら、「は?古っ」「いつの時代の話だよ」「ほら、あのくらいの年齢の人って、男女関係をやたら特別視してた世代だからさぁ」などと思われるようになるかもしれない。
異性愛も同性愛もあるんだし、友人同士で普通にするようなことを異性としたからって、セックスOKとは限らないよ。二人で食事をするのも家に招くのも、友人だったら普通にすることなんだから。なので、異性同性問わず、セックスする時は、「あなたとセックスしたいんですけど」「はい、いいですよ」という意思確認をきちんと行ってから、ってことにしたほうが良いよ。それが一番間違いがなく、シンプル。実際、レイプ犯って、本気で「合意だった」と思い込んでいるケースが多いそうだから。


こんな事件もあった。

大阪府の男性職員が先月、路上に止めた車の中で20代の女性にわいせつな行為をしたとして逮捕されました。
2人はお見合いパーティーで知り合い、その日が初めてのデートだったということです。
(中略)
警察によりますと、福原容疑者と女性は6月末にお見合いパーティーで知り合い、当日が初めてのデートだったということです。女性は「いきなり襲われた」と話していて、抵抗して車から逃げ出し、その日のうちに警察に被害届を出しました。


―2012年8月16日 『20代女性にわいせつ 大阪府職員“初デート”で逮捕|MBSニュース-MBS毎日放送の動画ニュースサイト-』の記事より―

典型的なデートレイプ。「デートOK=セックスOK」じゃない。「二人で食事=恋人同士」じゃない。「家に招く=セックスOK」じゃないんだよ。

セックスをする上で、同意を得るという行為はとても大事なことである。いや、むしろ同意は絶対に必要だ。ロマンティックなデートの終わりに、顔と顔が段々と近づいてきた頃。「ねぇ、キスしてもいい?」と聞いて、同意を得てからキスをする。セックスの最中に、「どう?」「気持ちいい?」「痛くない?」と相手を気にかける。相手がダメと言ったり、嫌がった場合はすぐに止める。これはもうベーシック中のベーシックである。

しかし、悲しいことにそんな簡単なことを理解していない人が多すぎる。相手が何も言わなければ、何をやってもいいと思っている人。相手にたくさんお酒を飲ませて、酔った勢いならやってもいいと思っている人。自分の恋人だからって、いつでも自分がやりたい時にやれると思っている人。相手に嘘をついて、コンドームなしで挿入してもいいと思っている人。相手が嫌だと言ったら、「僕のこと愛してないの?」「私が嫌いになったの?」と感情的な言葉を使って相手の同意を得てもいいと思っている人。そんなのは決して同意ではない。それでセックスをしたところで、それはセックスではなくレイプである。

キャシー|第9回 同意のないセックスはセックスじゃない|LGBTのためのコミュニティサイト「2CHOPO」

リンク先の記事は、セックスする流れになったけど、相手がコンドームをつけずに挿入しようとしたので、拒絶したという内容。状況によっては、途中から「NO」になることだって、十分ありえるよね。

モテないことでバカにされない社会が良いと思うわけ

 
20歳前後の頃だったかと思うけど、中村喜春という人のエッセイを読んだことがあった。この人は戦前に新橋で芸者をして、結婚して離婚し、戦後アメリカに渡り、アメリカがすっかり気に入って、留学生の世話などしながらアメリカで暮らしたという、なかなか面白い経歴の人だった。著者がこの本を書いたのは、たぶん80歳を超えてからだったんじゃないかと思う。
ときめきが大事だと言い、おしゃれが好きで、地味な着物を着ることを嫌い、男性との付き合いもそれなりに沢山ありそうな人だと思うのだが、「人生で本当に悲しい別れは3度あった」と書かれていた。恋愛絡みの別れだった。
もうひとつ、これは男性が書いたエッセイで、その人は奥さん公認で他の女性とデートをする人なんだけど、「もし病気になって死が近いということになったら、女房の他に会いに行きたい女性は二人いる」という。
 
私はこれらの本を読んで、「沢山お付き合いしてそうな人でも、人生の中で本当に惚れる人って、3人くらいなのかもしれないな。なら、私も人生の中で3人くらい本当に惚れることができたら、それで良いんじゃないの?」と思った。
高校生の頃、片思いではあったけれど、自分の意志とは無関係に惚れてしまうという体験はしていた(『「理想の母」の姿をしていた恋』参照)。一方、私は出不精だし社交的じゃないし、広く交友関係を持つタイプではなく、親しい友人が片手で数えるほどいればそれで満足できるタイプなので、活発に合コンしてデートしてウェイウェイ盛り上がるようなお付き合いができるような人間じゃないことはわかっていた。
テイラー・スウィフトみたいに、どの恋愛も長続きせず、元カレリストが長くなるような付き合いをするのも、色々言われるけど、いい年して誰かと付き合った経験がないというのも、色々言われる。でも、自分が望んでいないことや合わないことを無理矢理しても、なんか違うんじゃないかって、当時、なんとなくそんなことを思ったんだよね。
 
それに、モテるということは、当然、自分がモテたいと思う相手から言い寄られることばかりじゃないわけで、モテたくない相手に言い寄られた場合に、上手くあしらうということができないと、色々しんどいんじゃないかと思う。私はコミュニケーション能力が高くないので、相手を上手くあしらっておくということができるとは思えないし、あまり気心の知れていない人と二人で食事に行くくらいなら、一人で図書館にでも行ったほうが楽しいという性格なので、モテることに対してそれほど旨みがあるとも思えない。
そりゃ、自分にとって付き合う気がない人からでも、恋愛対象としてアプローチされると、自己肯定感みたいなものがめっちゃ満たされるとか、そういう人なら、モテの旨みもあるだろうけど、私はそういうのは面倒臭いと感じてしまうので、モテには不向きだと思う。

美人は得だという人を見るたび、この人は身内に美人がいないのかなと思う。美人が得をするのではない。人心掌握に長けた人が美人扱いされ、周りを転がしていい思いをするのだ。小保方さんはそのすぐれたサンプルだったと思う。こういう女性は美人ではなく、美人意識が高い人だ。
美人と金持ちの人格は軽視されがち - はてこはときどき外に出る

と、ここまで話すと大概「女の嫉妬でしょう」と勝手に納得している人がいるけど、違うんだなぁ。男なんです、問題は。勝手に惚れる→振られる→いやがらせ。これは学生時代からあったことなのでそういうことが起きないように警戒していたんですが、やはり、という感じでした。俺の好意を踏みにじりやがって、みたいに逆恨みする男性は本当に多かった。わたしの三十余年の人生では。相手が傷つかないよう20枚くらいのオブラートに包んで丁重にお断り申し上げても、次の日から、ねちっこい嫌がらせが始まるわけです。
美人に生まれたら

 
その後、インターネットを通じて、レイプ被害者の人の話やセクシャルマイノリティの人の話を読むうちに、これまで自分がこの社会の中で、なんとなく違和感を感じていたことが、だんだん輪郭を持って理解できるようになっていった。そして、「全ての人は、性別・セクシャリティに関わらず、いつ誰と性的接触をするか・性的関係を持つかを、自分で決める権利がある」という、ひとつの答えにたどり着いた。つまり、これを無視したり侵害したりする行為が、セクハラであり性暴力なのだと。そして、互いの合意があれば、色んな人とセックスしていても、ヤリマンビッチと非難されるいわれはないし、逆に一生処女童貞でもその人の自由なんだと、そう思うようになった。世の中にはアセクシャルノンセクシャルの人もいるんだしね。
私に必要なのは、私がモテなくてもバカにされない社会だった。まぁ確かに、互いに理解し合えると感じられる恋人がいたら良いなとは思うけど、無理して誰かと付き合うくらいなら恋人はいないほうがマシだし、もし本気で「恋人が欲しい!」という気持ちになったら、そのための努力をすれば良い。ただ、いつそういう気持ちになるかは、個々人でタイミングが違うと思うし、その人のタイミングで良いと思う。
 
もしモテなくてもバカにされない社会というものがあったら、モテるかどうかは、楽器が上手く弾けるかとか、絵を上手く描けるかとかと同じような話になるんじゃないかな。演奏家の世界では、楽器が上手く弾けるかどうかがほぼ全てだけれど、その世界から一歩出たら、それは世の中に沢山ある能力のうちのひとつに過ぎず、全く関係ない場でわざわざその能力の有無を持ち出されて、あれこれ言われることはない。全ての人がやらなければいけないわけではないし、いつから、どの程度までを目指して取り組むのかも、その人の自由だ。モテるモテないの問題でつらいことのひとつは、全く関係ない場でもモテるモテないを持ち出されて、自分が評価されてしまうことだから。
ただ、モテなくてもバカにされない社会になったからといって、モテない苦悩がなくなるわけではないと思う。それは、演奏家になりたいけれどもなれなかったとか、楽器が弾けるようになりたかったけど、自分には全然才能がないらしいとか、そういう、自分が望んでなりたかったものを諦めなければならないという苦悩は、やっぱりあるだろう。それはもちろん、とてもつらいことだけれど、ただ、それはその人個人の問題であって、社会からとやかく言われる筋合いはないということだ。
よく「何人の女とヤったか」を自慢する男の人っているけれど、そんなものは、オタクがフィギュアを何体持っているかを自慢するようなものだ。同じ趣味仲間の内輪でしか通じない価値観だとわかった上で言うのならともかく、全世界で通用する自慢話だと思って言っているのなら、けっこう痛いと思う。どちらも、興味のない人にとってはどうでもいい話なのだから。
 
私はたぶん、母に進路を誘導され、やりたくもないことをやりたいのだと思い込まされ、本当にやりたいことを抑圧されてきたので(『「普通」の親が子供を追い詰める』参照)、できるだけ、自分が何をどの程度望むのかを、社会とかの他者に勝手に決められてコントロールされたくないという思いがあるのだろう。例えば、自分にモテたいという欲求があったとして、その理由を、「男の本能が〜」「男は精子を撒き散らして〜」みたいに、「自分は」ではなく「男は」でしか語れない男の人ってよく見かけるけど、それは、自分自身の意見を語れずに、「普通は」「常識は」でしか語ることができないのと同じだと思う。
二村ヒトシ著『すべてはモテるためである』の中で、「なぜモテたいと思うのか? どういうふうにモテたいのか?」という部分を徹底的に問いかけているのは、自分の願望や欲望を、「普通は〜」「常識は〜」「男は〜」ではなく、自分自身のものとして具体的に言語化するためなのではないかと思う。その人の言う「モテたい」という言葉が、もし、親や世間から刷り込まれた「良い学校に行って就職したい」という程度のものでしかなかったとしたら、その人は自分が本当は何をしたいのかもわかっていない。

「自分がなんなのかよく分からない状態」の人は、社会的善悪や正不正の『基準』を強烈に求めるようになる。自分の考えがないから、意見がない。だから『世間体』や『常識』で自分の言葉を語らなきゃいけなくなる。(中略)そういう人は、「世間体」や「常識」が実は実体がなくてふやけたようなものだという意識は全くない。むしろ絶対に全人類がひれ伏さなければならないモノだと思っているから、使用の仕方も相当に横暴である。
自分がなんなのかよく分からない状態: むだにびっくり

世の中には、処女童貞だとオコサマで、非処女非童貞だとオトナというような価値観があるけど、私は、自分のことを自分で決められるのが大人だと思う。
 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

「もったいないお化け」の世代間連鎖

親が、自分が育てられてきたのと同じように子供を育て、やがてその子が成長して自分の子供ができると、また自分が親からされてきたのと同じように子供を育てることを、世代間連鎖という。世代間連鎖には、良いものも悪いものもあるが、大抵は、様々な問題が生じてくる、悪いほうの世代間連鎖について語られることが多いようだ。


片付けに関する問題において、私はもしかしたら、世代間連鎖の呪いを受け継いでしまっているのかもしれないと思った。自分にとって有用なものと不要なものは分けられるのに、モノとしてはまだ使える物を捨てるということに「罪悪感」を感じてしまって、なかなか捨てられない。これもある意味では、親世代からの「呪い」なんだと思う。
親が「もったいない。まだ使える」と言って、使わない物を溜め込んでいると、親の死後、親が溜め込んだ物を、子供が片付けることになってしまう。自分が捨てられなかった物は、自分の死後、形見や実用品として使えるもの以外は、ゴミという負の遺産になってしまうのだ。そして、子供もまた、親からの「もったいない」の呪いを受け継いでいて、物が捨てられなかったとしたら… これって、機能不全家庭の世代間連鎖に似ている。


物がなかった時代には、親世代の、まだ使えるものは取っておくやり方は正しかったのだと思う。でも今はそういう時代じゃない。物がなかった時代は、選択のしようがないから、なるべく使えなくなるまで使う、つまり、自分の家から出て行く物の量を少なくするという考え方が、その時代に適したやり方だったんだろう。
でも、物が溢れている時代においては、購入する時点で、自分にとって必要なものと必要でないものを選別する能力、つまり、自分の家に入ってくる物の量を少なくするという考え方が、適したやり方なんじゃないかと思う。そのためには、子供の頃から、自分で選択する訓練をさせる必要がある。つまりそれは、自分にとって、何が好きか嫌いか、何が必要か不必要なのかを知るということだ。


それから、「もったいないお化け」って、物だけじゃないよね。たぶん食べ物もそうだ。昔は食べ物が少なかったから、「残さず食べなさい」は正しかったのかもしれないけど、今は飽食の時代だ。自分の腹具合に見合う適度な量を見極める能力が必要だと思う。つまり、量が多いと思ったら残すようにしたほうが良いんだと思う。
お腹いっぱいでも「もったいない」と思って全部食べてしまうと、「食べきることができた」という経験として残ってしまうため、次もまた同じことを繰り返してしまうんじゃないだろうか。一度残してしまうという経験をしたほうが、「残してしまった。もったいないことをしてしまった」という、ある種の痛みを伴う経験とともに、自分にとっての適正な量がわかって、次から量を少なくすることができるのではないかと思う。


糖尿病で、医者から「食べ過ぎないように」と言われているのに、食べ物を残す罪悪感から、目の前に出された食べ物を全て食べてしまう習慣が抜けないという話を聞いたことがあった。飽食の時代においては、自分の身体の中に入ってくる食物の量を適度に保っておく技術が必要なんだと思う。「もったいない」と言っても、どうせ食べ過ぎたものは消化し切れなくて栄養にならないし、健康を害するだけなのだから。


私の母は、お金にケチな性格で、私は母の経済力の影響下にある間は、従姉妹や近所のお姉さんがくれたお下がりばかりを着させられ、服を選ばせてもらえなかった。少ないお小遣いの中で、私が服を自分で選んで買う機会は、フリマかバザーくらいだった。その結果、就活に着るためのブラウスを買いに行った時、普通の服屋でどうやって服を選んだら良いかわからなかったため、サイズ表示の意味も知らず、サイズが大きすぎる服を買ってきてしまったりした。
私の父は、料理を注文する時、いつも多めに頼む癖があり、なのに「残したらもったいない」という気持ちはあるので、いつも苦しい思いをしつつ全部食べるということになっていた。その被害は一緒に食べに行く家族にも及ぶことになった。父は、口では「多かったら残してもええで」と言うのだが、それは、父自身が率先して残していてこそ、周りの人も残すことができるのであって、父が本心では「残したらもったいない」と思っていることが伝わってくる状況下では、一緒に食べている人も残すことができないのだった。


お金がなくて物が買えなかった人が、ある時期からお金が沢山使える状態になると、物を選ぶ目が育っていないので、あれもこれもと買ってしまう。そういう時代が日本にもあったのだろう。他のことだったら「親世代のやり方は古い。今はそういう時代じゃない」と思えるのに、物や食べ物を捨てることは、「罪悪感」という呪いがかかっているから、なかなか難しい。でも、自分にとっていらない分は捨てていくということが、やがては、自分にとっての適量を知る、つまり「足るを知る」ことに繋がるのだと思う。
自分の代で世代間連鎖の「呪い」を断ち切って、後の世代に残さないようにと考えたほうが良いのかもしれない。

「若者フォビア」―なぜ年長者は若者を叩いてしまうのか―

 それから15年くらいして、今から8年くらい前に同世代の男性編集者と話していたら、「今の男がだらしない」と言いだしたので、「今の若者は団塊やバブルよりよっぽどましだよ」と私が言ったら、驚かれて。それで「今の若者はましである」という企画で誰かに書いてもらおうと思ったんです。私はもともと単行本の編集者で物書きではないですから。そうしたら、「深澤さん、若い男を褒める企画なんか嫌だ」とみんなに断られたんです。
 竹信 へえ。
 深澤 「みんなそんなに若い男が嫌いなのか」と驚きました。それで「それなら、深澤さんが書けば」と言われて、2006年に「日経ビジネスオンライン」で始めたのが、「U35男子マーケティング図鑑」という、若い男性の面白さを中年男性に伝える内容の連載だったんです。
 1回目は「リスペクト男子」といって、家族や友人を尊敬する男性を紹介した。その連載の中の1つに「草食男子」っていうのもあったんです。
竹信三恵子×深澤真紀 「家事ハラ炎上!」爆走トーク(2) 「草食男子」は褒め言葉だったのに | WAN:Women's Action Network

上の記事は、「家事ハラ」の提唱者である竹信三恵子氏と、「草食(系)男子」の提唱者である深澤真紀氏が、言葉の持つ意味がもともとの意図から歪められて世間に広まっていったことについて対談したもので、これ自体(一応)自分が名付けた「ダサピンク現象」の意味を歪めようとしてきた人がいた経験を持つ私としては興味深かったのだけれど、それとはまた別に、深澤真紀氏が提案する「最近の男子像」をことごとく否定してかかる「おじさん」たちの若者嫌いっぷりが凄くて興味深い。
深澤氏が“「今アメリカではセックスがすべてである、ペニスがすべてであるという思想に疑問を持つ人々が現れている」というまじめな企画書”を書いて出せば、“「深澤君、据え膳食わぬは男の恥といってね」と言われて(苦笑)。そこから部長たちのしょうもない武勇伝を延々聞かされて、しかも企画もその時は通らなかった。”ということになる。バブル期にフリーターが流行った頃に“「有名大学を出ても、社会に疑問をもって塾講師になる男たちがいる」”という企画書を出せば、“その部長たちの怒りに触れて。「俺たちが大学を出て、この会社と共にどうやって歩んできたと思っているのか」「フリーターなんて許さん」と、また怒られて(苦笑)。”ということになる。
「若者フォビア」とでもいうのだろうか。別に若者のほうから年長者にくってかかっているわけでもなく、若者が勝手にやっていることでも、年長者は気に入らないらしい。どういうことなんだろうと思うけど、何年か前の「今の若者に尾崎豊は響かないのか」的な論調(過去記事『自由になれていない気がする尾崎豊』)を見ると、まだくってかかられるほうがマシということなんだろうか。
 
ちなみに、「若者フォビア」という言葉は、「ダサピンク現象」と違って私が言い出したものではなく、以前この記事を読んだことが頭にあった言葉だ。

もちろん「甘えている」といったわかりやすい批判はほとんどの人はしない。データからは、「甘え」など差し挟む余地がないということは誰でもわかるからだ。
だから、若者は「弱者」である。誰が考えても、どのデータを見ても、どの「若者本」を見ても、若者はいま苦境に立たされていると書かれており、頭ではそれを理解できる。

が、人気がない。というか、どうしても支持・共感されない。
こういう現象は「フォビア」という言葉で言い換えてもいいかもしれない。それは同性愛者への差別表現である「ホモフォビア」という表現にもあるように、理屈ではわかるがどうしても受け入れることのできない現象、といったものに近いのかもしれない。
だから、今の若者に対する不人気は、きちんと言うと、つまりは若者差別だと僕は思う。
若者フォビア(嫌い)をやめよう(田中俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース

「若者フォビア」の一因として、自分が正しいと信じていた価値観が覆される恐怖感があるのだとすると、それは選択的夫婦別姓同性婚に反対する人たちの「同性愛フォビア」と同じ構造とも言えるのかもしれない。「自分がそうしたかったからそうした」という人は、違う選択をする人のことを許容できるけれど、「それが世間で正しいとされているからそうした」という人の場合は、違う選択をする人を許容できない傾向があると思う。違う選択をする人たちも「正しい」ということになってしまうと、自分の正当性が揺らぐような気がするからなのだろう。
「据え膳食わぬは男の恥といってね」と言って武勇伝を語りだした部長たちも、ただ個人的に女とセックスすることが大好きだったというわけではなく、それが男として良いこと、価値があることと信じていて、そうでない男を見下していたから、「据え膳食わない男」を受け入れられないのだろうし、有名大学を出ても会社に就職しない若者を「許さん」という部長たちも、自分個人の選択と決断によって会社に就職したわけではなく、世間的にそれが正しいとされていたからそうしただけだから、それ以外の選択をする若者が受け入れられないのだろう。


若者からくってかかられたわけでもなく、若者が勝手にやっていることでも年長者は気に入らないというのは、ミゾジニー(女嫌い)男性が、女から攻撃されたわけでもなくとも、男とは関係なく自由に振舞う女の態度に憎悪を募らせることと共通性があると思う。ミソジニー男性の根底には、女から構われたい、女は自分を構うべきだという思考があるので、女が男のことを気にせず勝手にやっていることそのものが、自分に対する裏切り行為ということになるわけだが、だとすると、年長者の「若者フォビア」の根底にも、若者から構われたい、若者は年長者を構うべきだという思考があるのかもしれない。実際、この社会には「若者は年長者を敬い、年長者の話を聞き、年長者の世話をするべきだ」という言説がある。そういう思考回路の人ほど「若者フォビア」が強くなるというのは、頷ける話だ。

これは、若者と年長者との関係でも当てはまるかもしれない。
「多くの若者は、年長者に嫌われること自体には何の痛手も感じてはいませんが、年長者からの権力を利用した圧力やパワハラを恐れる傾向にあるようです。しかし、多くの年長者は、若者は権力的に弱い存在だと認識しながらも、若者から嫌われたり避けられたり無視されること自体に傷つく傾向にあるようです。」
ということになるだろうか。


「今の若者はなんでこんなにダメなのか」ということはよく言われるし、様々なメディアで色々な理由をつけて発信されているが、「なぜ年長者は、かつては自分も同じことを言われて叩かれていたのに、若者を叩いてしまうのか」について考えたほうが、有意義なんじゃないかと思う。これについては、虐待を受けて育った人が、成長して親になると、自分の子供を虐待してしまうという、ある種の虐待連鎖なのかもしれない。私は、若者フォビアが激しいいわゆる「老害」タイプの人を「社会的毒親」と表現したことがあったけれど、そういうことだと思う。

私は、このブログの中で、機能不全家庭の構造は、そのまま組織や社会に当てはめることができると言って来た。「毒親」の概念も、そのまま「社会的毒親」として当てはめることができると思う。「社会的毒親」とは、子供や若者などの次世代を大事にしようとせず、それどころか、次世代をバッシングすることで自分の憂さを晴らす。にもかかわらず、将来、次世代に見捨てられる覚悟はなく、次世代に養ってもらって当然と思っている、毒親のような大人のことだ。この「社会的毒親」は、いわゆる「老害」と親和性が高い。
「俺を傷つけないような言い方をしろよぉ!」という、抑圧者の甘え - yuhka-unoの日記

虐待連鎖をしてしまう人は、「自分は厳しい育てられ方をして、それに耐えてきたからこそ、強い人間になったのだ」という思考から、「躾」のつもりで、自分の子供をかつての自分と同じように虐待してしまうというケースがよくあるが、これは、「若者フォビア」の傾向がある年長者によく見られる「自分の時代は厳しかった。それに比べて近頃の若者は甘えている」という思考と共通している。
また、自分の親について決して良い親だったとは思っておらず、子供には自分と同じ思いをさせたくないと思いつつも、「良い親」とはどういうものなのかを知らないため、ロールモデルがないのでどう接して良いのかわからないという問題を抱えてしまうケースもよくあるが、これも、若者叩きが繰り返されてしまう原因と共通性があるかもしれない。私たちは、メディアが若者叩きに傾いているため、年長者から叩かれることだけなら沢山経験しているが、ロールモデルとなる年長者に逢えるかどうかは、個々人の運ということになってきてしまう。


日本の社会では「親を悪く言ってはいけない」という世間の空気が強固に存在していたが、最近では、家庭内虐待の認知度が高まり、「毒親」という言葉が一般に広まり、歪んだ親子関係について語られるようになってきた。若者の問題についても、これまで年長者による若者の側の問題探しばかりが語られることが多かったが、年長者が若者を叩く心理についてこそ、もっと考察されたほうがいいのではないだろうか。
親から虐待されて育ってしまった人が、自分が虐待をしてしまう人間にならないように、ある種の身の施し方が必要で、その手法がある程度語られて共有されているように、若者叩きを受けて育った若者が、将来若者を叩く年長者にならないように、身の施し方をある程度共有できるようになると良いかもしれない。
深刻な問題としては、差別が、直接的間接的に差別される側を殺すように、「若者フォビア」もまた、直接的間接的に若者を殺しているという事実がある。ブラック企業で若者が過労死する背景には、「近頃の若者は甘やかされている」という年長者の思考が少なからず影響している。若者を殺してしまわないために、年長者はある程度自分に向き合い、「若者フォビア」を乗り越えなければならない。



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自由になれていない気がする尾崎豊
「俺を傷つけないような言い方をしろよぉ!」という、抑圧者の甘え

大河ドラマでイケメン俳優が脱いで嬉しいかどうか考えてみた

 満を持して「女性にウケる大河」を送り出したハズと思い込んでいるのか、決して好調とはいえない数字に制作側は驚いている様子で、視聴率向上のために「イケメン俳優のハダカシーンを増やす」戦略が練られているとの報道も相次いだ。まさか、大河ドラマの制作現場にそこまで単純な演出をするスタッフなど実際にいないと思いたいが、「美男子が脱げば女性視聴者が食いつく」と本気で考えている層はマスコミにはいるのかもしれない。実際には、「イケメン売り」をPRすればするほど、女性視聴者が引いていくことに気付かないのだろうか?

男が脱げば女が喜ぶ? 迷走するNHK大河『花燃ゆ』最低視聴率更新の背景 - BIGLOBEニュース

実際に、「花燃ゆ」制作側がイケメン俳優が脱ぐシーンを増やそうとしているかどうかはともかく、上の記事を読んで、確かに、現時点の「花燃ゆ」で誰かが脱いでも、西島秀俊が演じた「八重の桜」のあんつぁまの時ほどの盛り上がりはないかもしれないな、と思ってしまった。なぜかと考えてみたが、「八重の桜」のあんつぁまが脱いだシーンでは、既にあんつぁまは人気を確立していたのに対して、「花燃ゆ」の男性キャラは、まだそこまで至っていないからだと思う。しっかりしたストーリー描写や、それに伴うキャラクターの深みは、そのキャラが脱いた時どれだけ嬉しいかを左右するのかもしれない。
つまり、ただのちんこに興味はなく、誰のちんこなのかが問題、というやつだ。
 
よく「腐女子はイケメンにしか興味がない」「腐女子カップリングにしか興味がない」と言われるが、それはただの偏見で、実際にはストーリーやキャラクターに深みがあって人気があるものほど、腐女子人気も高くなる傾向があると思うのだが、そういうことなのかもしれない。
キャラクターが脱いで嬉しいのは、読者や視聴者が既にそのキャラクターに惚れている場合なのではないだろうか。既に視聴者人気が確立されているキャラが脱ぐのと、そこまで行っていないキャラが視聴率稼ぎのために脱ぐのは、自分が好きな男が脱ぐのと、別に好きでもない男が、なんかこっちに対してアピールするために脱いできた、ぐらい違うのかもしれない。その俳優のファンなら嬉しいかもしれないけど、そうじゃない場合はそんなもんだろう。
とにかく登場人物が脱いで脱いで脱ぎまくる、なーんにも考えずに見れるアホドラマとかだったら、話は別だけど。
 

この作品は女性を主人公にすえ、さらに周りを取り巻く志士に旬の若手俳優を起用するなど、明らかに女性をターゲットとしています。制作側も「ぜひ女性に見てほしい。そのための入口としてイケメン俳優たちをキャスティングした」と全面的にアピール。

ですがそうあからさまにアピールされると、鼻白んでしまうのが現代のユーザー心理。

彼女も「これじゃ、ただの恋愛ドラマみたい」「イケメンさえ出しておけばいいと思われている」「大河ドラマそのものを好きな女性だっているのに」と首をかしげていました。
大河ドラマ「花燃ゆ」の失敗マーケティング。「女性向け=恋愛&ピンク」の限界。(五百田達成) - 個人 - Yahoo!ニュース

「裸」といえば、以前、過去記事『愛と平和の街―失われた20年世代の私―』の時のJ-POP音楽家さんと、「裸と服」について話し合ったことがある。彼いわく、「メロとコードが裸で、アレンジが服」だそうだ。服で着飾っていても、裸の部分がしっかりしていないものはつまらない。それは他の様々なことにも言えて、内面的なものや根幹のものが「裸」で、表面的なものが「服」だという話になった。
「恋愛」や「ピンク」や「イケメン」は、あくまでも「服」の部分に過ぎないのではないだろうか。結局、「裸」の部分が魅力的でないものは、色々な意味で、あまり脱がせたいという欲求も湧いてこないのかもしれない。
 
個人的には、大河ドラマでの男優上半身裸シーンといえば、「新選組!」の堺雅人演じる山南敬介の切腹シーンを思い出す。このシーンは大河史上に残る「神回」で、全く「イケメンの裸キャー!」的なノリとは対極の、非常にシリアスなものだった。「新選組!」といえば、山本耕史演じる土方歳三と、芹沢鴨の愛妾お梅の駆け引きのシーンでも、土方の上半身裸シーンがあったけど、あの土方は、いかにも故郷の親類に「俺、京都で女に超モテてっから!」という内容の手紙を出しそうで(※史実)、とても良かったと思う。
 
18禁BLゲーム「裸執事」OPデモ

「ダサピンク現象」番外編―ターゲットの最大公約数から大幅にズレているのが「ダサピンク現象」である

「ダサピンク現象」は、男女の問題ではなく文化的差異の問題である - ココロ社

さて、ココロ社氏は以前にもダサピンク現象について「こっちの記事読まずに書いてるのか?」と思うような的外れなエントリを書いてらっしゃって、それは『続々・「ダサピンク現象」について―上層部のおっさんの「無知の知」という問題』にて反論したんだけど、どうやらまた「こっちの記事読まずに書いてるのか?」と思うような、的外れなエントリを書かれたそうなので、これについても反論しておこうと思う。本当に、何から何まで的外れなのだが、まずは“「ダサピンク」=女性の最大公約数の具現化”ではない、というところから始めよう。
 

ターゲットの最大公約数から大幅にズレているのが「ダサピンク現象」である

長々と書いてきたが、「ダサピンク」と言われているものの実態は何なのかというと、「女性の嗜好の最大公約数を具現化したもの」なのである。それは大量生産のプロダクトの宿命であり、平均的な女性の感性から(優劣ではなく、単純に距離が)遠くにいる人にとっては「ダサ」く見えてしまうのは当然のことなのだ。

とのことだが、そもそも、ターゲットの最大公約数をきちんと捉えることができているのなら、それはダサピンク現象ではない。ダサピンク現象とは、「女性って、ピンクが好きなんでしょ?」程度の認識によって、ターゲットの最大公約数から大幅に外れてしまう現象のことだ。これについても散々ブログで書いてきたのだが、「ピンク嫌いの女たちが、自分の気に入らないピンク商品を『ダサピンク』と読んでるんだろう」という妄想ありきで考えているから、読めてないんだろうねぇ…
 
この問題については、こちらのブログエントリが非常にわかりやすいので、引用させて頂く。できればリンクを辿って全文読んで頂きたい。

ヒット商品であり大成功した製品であるのは間違いないんですが、「ピンク」の2種だけはたまーに店頭でお目にかかることができました。対して入手困難なのが「黒」。当時は男性誌でも特集記事が組まれ、ぼく自身もちょっと欲しいなーと思っていたので、「きっと男性も購入していったから、黒から先になくなったんだろう」って思ってました。
このことをポケットドルツを教えてくれた女性に話したところ、彼女は「黒」を購入していたのです。購買の理由を聞いてみると「職場で歯を磨くときくらいシンプルな黒の方がいい。ピンクは女性アピールしすぎてて使いにくい。友だちも言ってる」とのことでした。
ここで注目しなくてはいけないのは「黒の方がいい」という事ではなく、「歯を磨くときくらい…」という言葉です。女性は製品を購入する際、男性よりも具体的に使用している場面を思い浮かべています。
(中略)
つまり女性にとって重要なのは「何色があるのか」、ではなく「自分がその商品を使用するイメージとマッチするのか」ということになるわけです。例え流行の色を使ってセンスある配色をした製品でも、購買ターゲットである女性がその色を避けがちな集団であれば製品は失敗してしまうわけです。
ダサピンク現象から学ぶ、製品の色の決め方手順

「ピンクが好きかどうか」と「その商品にピンクであることを求めるかどうか」って、違うんだよね。ココロ社氏を含め、ダサピンク現象について的外れなことを言ってくる人は、判で押したように「好きな色アンケートで女性が一番好きな色はピンクだ。だから企業がマーケティングした結果としてピンクになっているのかもしれないじゃないか」と主張なさるが、はっきり言って、それこそがダサピンク現象的な発想だ。問題は「ターゲットはどういう人たちで、その商品に何を求めているのか」だ。
例えば「オフィスで使うのに相応しいものを」という目的なら、多くの人は「オフィスで使うのに適した色合いやデザインであること」という条件を最優先にして、「自分の好きな色」であることの優先順位を下げるだろう。もちろん、そこで「自分の好きな色」であることを最優先にする人もいるだろうけど、そういう人は最大公約数ではなく、むしろ尖った人だ。
 
私は、ダサピンク現象についての一番最初の記事『残念な女性向け商品が作られてしまう「ダサピンク現象」について』で、ダサピンク現象が起こってしまう原因について、端的に「肝心のデザインがダサいから」と言ったが、これも同じ話で、大多数の女性にとっては、ものを選ぶ際に、「自分にとって一番好きな色であること」よりも、「デザインが好みであること(少なくともダサくはないこと)」を優先する場合が多いと思うからだ。例えば、ピンクが好きと答えた人でも、流行が20年程古いピンクのコートと、今時な感じのするホワイトのコートだったら、後者を選ぶ人が多いだろう。要するに、最も優先すべき要素を優先していないから、ターゲットのニーズからズレてしまうのである。
 
大多数の人は、ものを選ぶ際に、いついかなる時も、自分にとって最も好きな色であることを最優先するわけじゃない。女性一般に対して「何色が好きですか?」と聞いただけのアンケート結果では、「ターゲットはどういう人たちで、その商品に何を求めているのか」なんてわからない。その程度の雑な認識で「女性の一番人気色はピンクだから、ピンクで」とピンク商品を作ってしまうと、最大公約数のニーズからズレたものが出来上がってしまう。これが本来的な意味でのダサピンク現象である。
というか、ネットで拾ってこれる程度の「何色が好きですか?」アンケートだけで「マーケティングをした」と言えるのなら、マーケターはいらねぇよ。
 

「ダサピンク現象は、一部の女性の被害妄想だ」という妄想を繰り広げる人たち

どうやら、ダサピンク現象を否定したい人たちは、「ピンク嫌いの女たちが、自分の気に入らないピンク商品を、『どうせ決定権を持つおっさんが、女性デザイナーの案を潰して押し通したんだろう』という妄想をして、『ダサピンク現象』と呼んでいる」という妄想をする傾向があるらしい。ココロ社氏も例に漏れず、

これらの製品、とくに家電などは、中年男性がデザインの決定に深く関与しているというイメージが強いこともあってか、「どうせ女の人はピンクが好きなんでしょ」という傲慢な感覚のもとに作られたような気がしてしまうし、勢い余ってそこにジェンダーの問題を見出すこともあるかもしれない。
「なぜ女性向けのプロダクトにはピンク色が多いのか」という怒りにも似た疑問について考える - ココロ社

こんなことを書いてきたので、

「ダサピンク現象」についての一番最初の記事でも紹介したこれらのサイトでは、「女性向け」ということでデザイナー職の女性たちが考えたデザインを、上層部のおっさんが「女性ならピンクだろ」と言ってダサいデザインに差し替えてしまうことが、「イメージが強い」や「気がしてしまう」ではなく、「デザイン業界にいる女性が、実際に体験したこと」として語られている。念の為に言うと、これらのサイトは一番最初の記事でも紹介した。大事なことなので二度言いました。
続々・「ダサピンク現象」について―上層部のおっさんの「無知の知」という問題

このように反論して、一連の記事を書くに当たって参考にしたデザイナー職の女性たちの体験談と、記事を書いてからのTwitterでの反響を、をいくつか提示させて頂いた。もしこれらが全て妄想だと言うのなら、彼女たち全員が嘘をついているということになるわけで、そっちのほうが無理があると思う。
 

デザイナー職の女性の体験談のうち、一部分だけを切り取ってミスリードを誘うココロ社

さて、次にココロ社氏が何を言ったかというと、

「ダサピンク現象」の実際にあった例として、『「ピンク=女性向け」?』というツイートのまとめ記事がよく参照される。ここで語られている事例については、「そのおっさん(デザイン業)」と書かれていているところから考えると、自分の得意分野だと張り切って細かく的外れな指図をしてしまったのだろうし、そもそも、発端となった人も、自分が推すデザインを「ニッチでも確実に需要があるとこは攻めるべき」と言っているのだから、ニッチであることは自覚しているようである。単に、ニッチな市場を狙うのは仮にローリスクであったとしてもローリターンだから事業としてはやる意義が薄いと考えていたのかもしれない。

なんと、「本当は、上役のおっさんが正しい判断をしていて、デザイナー職の女性のほうが的外れだったんじゃないの?」という妄想を始めたようだ。
元のまとめ記事には

企画には私もかなり口出したので、時間かかっても反映されるといいなー。女性向け携帯ってギャル系か超狭い範囲の上品清楚系しかなかったから、ニッチでも確実に需要があるとこは攻めるべきだと話し合ってる横でそこの上役のおっさんが「女性ならピンクだろ」とかクソ言い出したけど無視した。
 
ペールピンク(上品地味系モテ清楚)でもフューシャピンク(ギャル文化寄り)でもないベージュとゴールドとブラウンの混ざったマホガニー系のローズカラーならいいよね、という話をしてるとこに「女性は清楚でいたいからピンクだろ」はちょっとツッコミどころ多すぎるわ。清楚にさせたがる側が何を。
「ピンク=女性向け」? - Togetterまとめ

と書かれているのだが、この話のどこに、上役のおっさんがマーケティングをした痕跡があったり、「ニッチな市場を狙うのは仮にローリスクであったとしてもローリターンだから事業としてはやる意義が薄いと考えていたのかもしれない。」ということが読み取れるのだろう。ココロ社氏には、普通の人には見えない何かが見えているのだろうか。
そもそも、元記事の文章を「女性向け携帯ってギャル系か超狭い範囲の上品清楚系しかなかったから」の部分から引用せずに、「ニッチでも確実に需要があるとこは攻めるべき」の部分だけを切り取ってみせて、さも、その女性がニッチな提案をしたから、上司に案が通らなかったかのような書き方をするのは、はっきり言って卑怯だと思う。自分の主張に都合の良い部分だけを切り取ってミスリードを誘うやり方は良くない。これ、もし週刊誌等のマスコミがやったら、「マスゴミ」とか言われて叩かれて、前後の文まで引用した訂正記事を載せることを要求されるレベルじゃないのかな。
 
「ピンク嫌いの女たちが、自分の気に入らないピンク商品を、『どうせ決定権を持つおっさんが、女性デザイナーの案を潰して押し通したんだろう』という妄想をして、『ダサピンク現象』と呼んでいる」→「いや、複数のデザイナー職の女性が実体験として語っているよ」→「本当は上司はちゃんとマーケティングしていて、女性デザイナーのほうが間違ってたんだろう」って…妄想も大概にして欲しい。
あと、これと同じデザイナー職の女性が言ってる、

「女性向け」というお題目で受けた仕事でも、プレゼン段階でクライアントの女性たちに紺・茶がウケてても経営層(おっさん)に見せた瞬間に全部ピンクに差し替えとかデザイン業超あるあるなので…
「ピンク=女性向け」? - Togetterまとめ

この部分はどうなるんだろうね。
 

言葉のすり替えを行うココロ社氏のやり方

 「妻の家事ハラ」をうたった旭化成ホームズの広告がネット上で炎上した。実は「家事ハラ」は、昨年秋、私が出版した『家事労働ハラスメント〜生きづらさの根にあるもの』(岩波新書)での造語だ。ここでは、「家事労働ハラスメント(家事ハラ)=家事労働を蔑視・軽視・排除する社会システムによる嫌がらせ」と定義し、こうした蔑視によって、家事労働の担い手とされる女性が、貧困や生きづらさへと追い込まれていくことを伝えようとした。ところが「妻の家事ハラ」広告では、それが、「家事をやらされる男性のつらさ」を指す言葉に転化させられてしまった。そこに見えてくるのは、少数派の言葉を無力化する「社会の装置」の存在だ。
(中略)
共通するのは、発言権を持つ層が、自分たちに都合の悪い新語の意味を「わかりにくい」として言い換え、マスメディアを駆使してそれを拡散し、本来の改革的な要素を骨抜きにしていく手口だ。女性たちの怒りは、こうした「私たちの言葉」が奪われていく状況にも向けられていた。
「妻の家事ハラ」炎上から見えた少数者の言葉を無力化する「装置」 竹信三恵子 | WAN:Women's Action Network

竹信三恵子氏が「家事労働を蔑視・軽視・排除する社会システムによる嫌がらせ」として提唱した「家事労働ハラスメント(家事ハラ)」という言葉を、旭化成ホームズが「家事をする夫への妻の嫌がらせ」という意味にすり替えたり、深澤真紀氏が、「恋愛にガツガツしない男子(恋愛をしない男子という意味ではない)」という意味で提唱した「草食男子」という言葉を、週刊誌やテレビなどのマスコミが「恋愛に臆病で、積極性のない男子」という意味にすり替えていったことがあったが、ココロ社氏がやっているのは、これと同じことだ。“「ダサピンク」=女性の最大公約数の具現化”だと、意味をすり替えないで欲しい。
上記に引用した文では、「発言権を持つ層が、自分たちに都合の悪い新語の意味を『わかりにくい』として言い換え」とあるが、彼らは「わかりたくない」のだと思う。理解しようと努力するのではなく、その問題の存在を否定してなかったことにするために、努力しているのだ。ココロ社氏も、私の文章を読んで理解しようとするのではなく、「ピンク嫌いの女たちが、自分の気に入らないピンク商品を『ダサピンク』と呼んでいる」ということにするために、Togetterまとめ記事の文章の一部分を抜き出してミスリードを誘ったり、理屈をこね回したりしているに過ぎない。
 

主犯は社員やデザイナーではなく、ハンコを押す最終決定権のある人

また、“プロダクトを「ダサピンク」にしている人が仮にいるとすれば、社員やデザイナーである”という見出しをつけて、

プロダクトにセンスが感じられるか否かは、細部の色やデザインをどうするかに大きく依存するが、そこには外注先のデザイナーや、それをチェックする社員の関与度が大きい。「ダサピンク」は会議室ではなく、現場で起きているのである。「ダサピンク」なプロダクトがあるとしたら、その主犯は社員やデザイナーであり、そこに若い女性が一定数含まれていることは言うまでもない。

と仰るが、普通、どんな仕事でも、プロジェクト失敗の責任はハンコを押す最終決定権のある人が一番大きいでしょ。そんな、部下に責任転嫁する上司みたいなこと言われてもねぇ…

 

わざわざ「おっさんはみんなそうじゃないよ」と言ってくる、お呼びじゃない人

ココロ社氏は、以前私が書いた『続々・「ダサピンク現象」について―上層部のおっさんの「無知の知」という問題』という記事に、以下のブコメをつけて下さった。

kokorosha 「オッサン=ダサいものをゴリ押し」は「女=ピンク」の決めつけよりも問題。ダサピンクを回避した事例にもオッサンがいたので、単に「オッサンが多い」という話では?あと、他のツイートも引用してくだされば幸甚。

ということなので、他のツイートも引用させて頂こう。

ココロ社氏のような反応をする人は、世界的に観測されている、ある種の典型例である。

1/4英語で流行ってる「Not all men」を説明してみよう。女性が性差別・セクハラ・性暴力の話をするとき加害側を「men」と括る。すると決まって男がそこに突っ込んで「男はみんなそうじゃないよ!」と言うワケ。「Not all men are like that!」と抗議する。
 
2/4男はみんなそうじゃない事を会話の参加者はみんな分かってる。言う必要もない。差別・ハラスメント・暴力の話を聞いて「この問題を少しでも軽減するのに僕には何が出来るか」と考える前に「僕は違うよ!僕はいい人だよ!僕を認めろ!」と言うそいつはまさに問題の側にいる、ということだ。
not all men are like that - Togetterまとめ

例えば、ブラック企業の被害に遭った話をしているところに、わざわざ乗り込んできて、「企業はみんなそうじゃないよ」と言ってくる企業経営者とか、毒親の元で育った人が、親から受けた被害の話をしているところに、わざわざ「親はみんなそうじゃないよ」と言ってくる親御さんみたいな、そういう「お前お呼びじゃないよ」感がするわけですね。
毒親問題について語っている人に対して、「きっと『こんな親がいるに違いない』という妄想で決めつけて『毒親』と呼んでいるんだろう」→「いや、実体験として語っている人が複数いるよ」→「それは実際には子供の勘違いで、親が正しかったのでは?」みたいな話をしてくる親御さんって、どうなんでしょうね?かなり「ヤバイ」感じがするけれど。実際、そういう親御さんもネット上では見かける機会も多いけど、こういう反応する人って、十中八九その人自身が毒親だね。
ていうか、私がブログの中で、男性がダサピンク現象を回避した例を挙げているのを見て、「あ、このブログ主は、男性の全てがダサピンク現象を起こしてしまうと言っているわけではないんだな」と理解するのではなく、「男性がダサピンク現象を回避した例があるのに、矛盾しているじゃないか!指摘してあげないと!」と思うのって、もう最初っから、「このブログ主は、上層部の男性はみんなダサピンク現象を起こすものだと決めつけている!」という決めつけでしか考えられないようになっているんだね…
 

男女問題の部分にばかり過剰に反応する、「ダサピンク現象」を否定したい人たち

ダサピンク現象を否定しがたる人たちは、ダサピンク現象を訴える側が「男女問題の部分に過剰に反応している」と思っているんだろうけど、私は逆だと思う。むしろ、否定したがる側が、やたら男女問題の部分について否定したり矮小化したりしたがっていて、そこに「過剰に反応している」。ターゲットを舐めた「コレジャナイプロダクト」は様々あって、原因も沢山あるのだけど、もし、それらのうち、男女問題が原因になってくる部分に対してだけ否定したり矮小化したりするのなら、それは、その人のほうが「男女問題に過剰に反応している」ってこと。
女性に対するステレオタイプとか、管理職の男女比が偏っていることとかの原因は、原因としてさっさと認めて、じゃあダサピンク現象にならないようにどうしていったらいいのかってことを考えればいいのに、原因を認めたくない人たちがいるから、いつまでも議論がそこに留まって、前に進まない。男性の立場から「男向け化粧品はスースーさせときゃ良いってのもある」という意見があったり、デザイナーやマーケターの立場から、ダサピンク現象を回避するにはどうすれば良いのかについての意見があったりするのは、すごく有意義なんだけど、ダサピンク現象を否定したがる人の言うことって、全然有意義じゃないんだよね。
 
ココロ社氏は、ダサピンク現象について「もう書かない方がいいなどというご意見を頂戴した。」そうだが、その理由は、「もっと書いてほしいと思っているのに、それが素直に言えないのである。」ではなくて、例えば、黒人が白人から受けた差別について話している時に、「人種差別をするのは白人だけじゃないぞ!黒人が受けている人種差別より、白人はみんな人種差別をするという偏見のほうが問題だ!黒人だって人種差別をすることがあるだろう!だからこれは人種の問題じゃなくてコミュニケーションの問題だ!」などと言ってくる白人みたいなマネしてるからなんじゃないのかな?確かに、白人以外も人種差別をするけれど、世界的な人種問題について語る時には、まず白人がしてきた人種差別から語られるのは当然でしょ。
私はこのブログを書くことで一銭もお金貰ってないけど、紹介させて頂いた女性デザイナーの体験談をああいうふうに切り取って使われたことについては、ちょっと許せない気分になったし、この記事を書くモチベーションの七割くらいは、その部分にあったと思う。あとの三割は、言葉のすり替えをされたことかな。こういうやり方をするのなら、確かに、もう書かない方が良かったみたいだね。
 
50〜60年代のパリ紳士の盛装に身を包むコンゴのおしゃれ男子「サペー」たち
Gentlemen of Bacongo

Gentlemen of Bacongo

香水を纏えない時、ルージュを引けない時、ハイヒールを履けない時にこそ、本は役に立つ

紀伊國屋書店の「本当は女子にこんな文庫を読んで欲しいのだ」フェアがプチ炎上し光速で終了 - NAVER まとめ

何が起こったのかは、上のNAVERまとめのタイトルの通り。

問題となった、紀伊國屋渋谷店のPOPを書き出してみた。

僕たちは
本当は女子にこんな本を
読んでいて欲しいんだ。
 
「文庫女子」という言葉を御存知でしょうか?
書店に最も足を運んでくれる20代〜30代の女性に、もっと文庫本を読んで貰いたい!と
いう思いを持ってこの秋スタートしたばかりの企画なのですが、
悲しいかな、正直、ラインナップがイマイチというか…
 
もっと、女性に力強くアピール出来る本が在るハズだ!と、
当店文庫チームが女子の意見を一切聞かずに勝手にセレクトしちゃいました。
電車内で。喫茶店で。それこそ、ハチ公前で。
こんな文庫を読んでる女性がいたら、それは、まぁ好きになっちゃうよな、という本ばかり
選んでみました。各々の作品のPOPにも是非ご注目下さい。
 
2015年、文庫本をカバンに忍ばせるのが、ホントにおしゃれピープルの最新トレンドにな
るかはハッキリ言って解りませんが、東野圭吾村上春樹しか知らないっていうのは、
やっぱりちょっと勿体無い気がするのです。

これ、もし「50〜60代の店員が、若者に本を薦める」という企画で、「僕たちは 本当は若者にこんな本を読んでいて欲しいんだ。」的な見出しをつけて、「若者の意見を一切聞かずに勝手にセレクトしちゃいました。」「こんな文庫を読んでる若者がいたら、それは、まぁ感心しちゃうよな」「東野圭吾村上春樹しか知らないっていうのは〜」みたいなこと書いたら、たぶん、若者から「ジジイうぜえええええええええ!!」って言われて、フルボッコにされると思う。若者は自分の楽しみのために本を読むんであって、おっさんから「ほぉ〜こんなの読むんだね〜感心感心」って思われるために読んでるんじゃないからね。女だってそこは同じ。モテたいなら本より他のものに投資したほうが、対費用効果が高いしね。それに、わざわざ書店に足を運ぶ人に対して、相手が女子であれ若者であれ、「お前ら、どうせ東野圭吾村上春樹ぐらいしか読んでないんだろ?」的に見たら、それは、まぁ反発されちゃうよな。
 
こういうの、男同士のごく内輪の集まりで、妄想上の「自分の理想の女の子像」みたいなのを語り合っているうちは、別に良いんだけど、それを女性一般に対して求めてしまうと、まぁ、妄想と現実の区別はつけましょうというか、女は自分に好かれたがっているはずだとナチュラルに思い込めるあたりが、ある意味、自分に自信があって羨ましいというか。ましてや、客に本を勧めるということを目的にしているはずなのに、ただ「自分の理想の女の子像」を開陳しただけって、女性差別云々を差し引いて考えたとしても、仕事としてどうなんだというか。居酒屋談義でやるべきことを、仕事でやっちゃったのね、という感じがする。自分の好きな本を開陳するのと、自分の好きな女の子像を開陳するのは、違うからね。
そもそも、売買契約って、相手のニーズに合うものを提供して、その対価として金銭を得ることなわけで、こういう「僕の理想の女の子になるために、この本を買って下さい!」っていうのは、なんか違うんじゃないのかな?相手に自分の理想像になってもらいたいっていうのは、自分のニーズであって相手のニーズじゃないんだよ。
 
うーん、例えば、「文化系男子を落としたいアナタへ!」とか「オタサーの姫になりたいアナタへ!」とか、それぐらいあからさまだったら、逆に良かったかもしれないな。「職場の上司に気に入られたいアナタへ!この本を読むと、文化系おじさんにウケますよ!」みたいな感じで(笑)。ビジネスでおじさんを接待する必要がある若者はいるからね。つまりこれ、世代や性別を超えて同じ趣味を共有したい人の言うことじゃなくて、自分を接待して欲しい人の言うことなんだよね。「女性に対してお客様意識」というか。
まぁ、文化系男子や、女の子に何か教えてあげたがる男子にモテたいなら、紀伊國屋渋谷店POPに出てた本を読むより、この人のブログ読んだほうが良いと思う。対費用効果も高いし。

これであなたも、サークラになれる!! - あの子のことも嫌いです

 

目上の方々に本を読んでいるというと、やたらと読んでない分野探しをされたり、自分が答えたくない範囲まで読んでる本の内容などを聞かれて嫌な思いをすることがあるので、きちんとした信頼関係が気づけている人以外には「本はあまり読まない」と答えている若者は少なくないのではないかと思っています。
わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる: 「最近の若者は本を読まない」本当の理由

あーこれあるある。本に限らず色んな分野である。こういう人って、相手に本を読んで欲しいという気持ち以上に、相手に自分を見て欲しいという気持ちが強いし、本が好きという気持ち以上に、承認されたいという気持ちが強い。うっかりこういう人に捕まってしまったら、無料ホストか無料キャバ嬢にされてしまうので、こういう人の前では、若者は本の話とかしないよね。なので、こういう人は、「近頃の若者は本を読まない」という思い込みを持ち続けるんだろう。本そのものが好きで、世代を超えて同じ趣味の話ができるタイプの年長者とは、全然違うのね。
そして、これと全く同じことが、男→女でもよくある。まぁ人間、自分が無意識に下に見ている相手に対しては、同じような態度を取るということですね。そして、普段女性に対してこういう態度を取ってしまっている男性は、「女はあまり本を読まない」という思い込みを持ち続けるのかもね。
 
この件で、成海璃子のCD棚が渋かった話と、文化系説教ジジイ(略してBG)の話を思い出した。

「私が好きなものの話をする→『こんな若い女性がわざわざ僕たちの好きなものに目を向けてくれるなんて』と過剰に喜ばれる」あのリアクションに腹立つだけです。「好きなものの話をする→世代を超えてどんどん盛り上がる→あれこれ教わる」は大歓迎。私の周囲はそういう世代違いの友達ばかりなんだぜ。
 
「え、君みたいな若い女の子が×××を好きなの、なんで? 渋すぎでしょ、本当に良さわかってんの? 無理して話合わせなくてもいいんだよ? お父さんの影響? でなきゃ、お、コレか(親指立つ)」まで一息で言う輩をどこから蹴飛ばそう。
Togetter - まとめ「「自分が好きなものを好む若い女子」に対する文化系中年男子の自意識過剰っぷりについて」

皆さん、寒くなってきましたね。毎年、この季節になると周囲の女性から続々と被害届が寄せられるようになります。そう、彼らが動きだしたんです。誰かって? そう「文系説教ジジイ」です。妙齢の文化系女を、うんちくと説教で屈服させ、あわよくば抱こうとしているおっさん達が動き出したんです!
 
職場で、プライベートで、飲み会で…。彼らはいつの間にかあなたをよく見ています。「へえ、若いのにそんな本読んでいるなんてすごいね。ねえ、じゃあ、これは読んだ?」「○○を見ていないようじゃ映画通とは言えませんよ」などと絡んできて、キメ台詞は「君は普通の若い子と違うね」「見所があるよ」
文化系説教ジジイにモテない方法 - Togetter

まぁこの件に関しては、高速で撤収した紀伊國屋渋谷店の担当者より、担当者を擁護する人たちのほうが気持ち悪かったな。
 
あと、このPOPの元になっている「文庫女子」企画そのものについて。

第1回「文庫女子」フェアは、20代〜30代の女性をターゲットに、「女子がファッションとして持ち歩きたい文庫」をテーマに選出された20点を対象に展開します。

「文庫女子」フェアでは、この年代の女性が「食べ物」や「健康」などの流行を毎年生み出していることに着目し、「文庫を持つことがオシャレである」というトレンドを作り出すことを目標としています。

出版社12社と連動し、第1回「文庫女子」フェア開催 - TOHAN website

という文章とともに、「たとえば、香水を纏うように。たとえば、ルージュを引くように。たとえば、ハイヒールを履くように。文庫女子」というキャッチコピーがついている。
まぁ、最近出版不況だし、売り込みに大変なのね、と思うけど、私個人としては、山田ズーニー氏のこの言葉に共感しているので、オシャレとか、オシャレじゃないとか、そういうこととは関係なく人の内面を繋ぐものが、文章表現であり読書だという観点で、本というものを捉えたいと思う。

何も表現しなければ、
ただ見た目とか、年齢とか、学歴とか、
外側の条件でどんどんくくられ、輪切りにされ、
序列化されてしまう。

でも表現教育では、
文章なら文章で、学生も、社会人も、
深い内面を表現するので、

そうした条件をとっぱらって、
友情が花咲いていく。

見た目でひとくくりにされるんじゃなくて、
深い想いを表現して、
地下水で通じ合う。
ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

香水を纏う人にも、纏わない人にも、ルージュを引く人にも、引かない人にも、ハイヒールを履く人にも、履かない人にも、本の世界は開かれている。むしろ、香水を纏えない時、ルージュを引けない時、ハイヒールを履けない時にこそ、本は役に立つんじゃないかな。私の今までの人生の中で最も文庫が役に立ったのは、入院した時だったからね。
 
「文庫女子」企画に関係あるのかどうかわからないけど、過去記事で自分が書いた文章も載せておきますね。

「着物」を売っているのか「箪笥の肥やし」を売っているのか、「音楽(+ジャケや歌詞を眺める楽しみ)」を売っているのか「光る円盤」を売っているのか、それが問題だ。「着物屋」ではなく「箪笥の肥やし屋」になってしまったところや、「音楽屋」ではなく「光る円盤屋」になってしまったところは、そりゃ衰退して当たり前だろう。
「物」ではなく「物でできること」を買っている

「読むのがオシャレ」ならともかく、「持ち歩くのがオシャレ」って…それじゃ表紙が印刷されたカバー部分にしか商品価値なくなるんじゃ…
 
【「文庫女子」関連リンク集】

このフェアの趣旨であった「本当は女子にこんな文庫を読んで欲しいのだ」という言葉自体からは、共感して欲しいというより、ただ自分の個人的な願望の吐露にしか聞こえてきません。

そういったテーマで書籍を紹介したいのであれば売場では無く個人のブログで紹介するべき類のものだと思います。

売場は商売をする場所であり、ただの願望を具現化する場所ではないからです。
元・紀伊國屋書店店員から見た、渋谷店の「本当は女子にこんな文庫を読んで欲しいのだ」フェア炎上 - Disco BaBangiDa

このフェアの「SFに理解のある女性は100%モテる」という煽り文句を見て思ったんだけど、女性が男性から

「SF好きなの? どんな作品が好き?」

と言われて、

「そうねー、小松左京なら『青ひげと鬼』」

と返したらモテるの? ねえモテるの? そこまで考えた上でのフェアなの、これ?
「こんな文庫を読んでる女性がいたら、それは、まぁ好きになっちゃうよな」への完璧なアンサー - みやきち日記